三河の統治は予想を遥かに超えてめんどくさい
さて、遠江の国人を中心とした兵を率いて三河を圧倒的な兵力差と交易に関しての権利なども使って調略を行って切り崩したことで意外と早く制圧そのものは出来た。
しかし問題なのはその後だった。
三河武士は面倒なこと自体はなんとなく理解していたつもりだったのだが三河という名前のとおり結構大きな川はあるが、逆に大きすぎて治水が十分行えない状態でやせた土地が多い。
三河で一向宗が力をつけたのも、一向宗には治水の技術とそれを可能にするだけの財力があったからで
蓮如は応仁2年(1468年)に三河本宗寺を創建している。
とは言え文明6年(1474年)から文明7年(1475年)までの間、吉崎御坊に滞在し、北陸の浄土系諸門を次々と統合していったため北陸では一向宗の勢いがまし、文明5年(1473年)には富樫政親の要請を受けて守護家の内紛に介入し、翌年には富樫幸千代を倒した。
これによって守護の保護を受ける事を期待していたのだが、逆に富樫政親は本願寺門徒の勢いに不安を感じて文明7年に門徒の弾圧を開始。
最終的に長享2年(1488年)に加賀一向一揆が国人層と結びついて決起すると守護富樫政親を高尾城において包囲し、自刃に追い込み加賀は百姓の持ちたる国と呼ばれる状況となった。
もっとも三河ではそこまで行っていないが建永元年(1206年)頃には、親鸞門侶の慶円により本證寺が開創されていたりもして、一向宗の影響は小さいわけではない。
そして三河に影響力を持つ吉良は足利家3代目当主足利義氏の庶長子の吉良長氏が祖だが、庶長子は正室の子である嫡子の補佐・代行職を務める重要な地位を占め、三河幡豆郡吉良荘に住ませてたことで吉良家が生まれ、吉良長氏の次男今川国氏が三河国幡豆郡今川荘の地頭になったことで分家の今川氏が誕生した。
で今川は徹底して足利尊氏について、吉良は逆に徹底して足利直義についているが、それが本家筋の西条吉良氏と分家筋の東条吉良氏に別れ、西条吉良氏は遠江の支配圏を手にしてもいる。
そして三河の守護は長年一色が務めていたのだが、永享10年(1438年)からの永享の乱で、三河守護職の一色義貫が一色時家を匿ったかどにより、永享12年(1440年)に室町幕府将軍の足利義教によって追討を受け、細川持常が三河守護職に任ぜられたが、三河国内は前守護一色氏残党と新守護細川氏の間で戦闘が勃発し、この争いは応仁の乱でも続いていて、結局は応仁の乱後は守護が任じられなくなった。
で室町時代においては軍勢催促に対しての働きで恩賞として所領の安堵が行われるわけだが、それが重なっている場合の恩賞が結局は所領安堵の書状なのだが、これが陣営が違う者同士で両方与えられたりするわけだ。
そんな状態での土地争いの裁定が簡単に行くわけがなく文明2年(1470年)の「諸国の御沙汰は毎事力法量」発言に則ってそれ以降の争いであれば既に土地をおさえているものに権利を認める方向になるわけだが、無論それで土地を奪われた方は納得したりしないのだが。
なんでめんどくさいかと言えば実際の三河における合戦では一色のほうが優勢だったが、最終的に守護として認められたのは細川だったからというのがある。
中央での戦い同様戦闘では西軍が優位だったが政治的には東軍が勝ったというわけだな。
ならばそれに応じて細川方の土地所有を認めるべきかと言えば、公方様の言葉もあるわけでそうは行かないわけだ。
この時代はまだまだ土地が何よりも大事で、土地の所有権を認めてもらうために、命を懸けて戦っていたりするわけだ。
ただし、あくまでもそれは俺が三河を制圧する以前のことであって、これ以降に武力で他社の所領を奪ったものは死罪とし、文明2年(1470年)以前の土地争いに関しては、もとからの正しい境界については書類における者を優先し、そういった書類の偽造や原告あるいは被告の道理のない不当な謀訴であると判定された場合、その者の所領の三分の一が没収され、もともと田畑であった土地が荒廃して荒れ地になっている土地を再度開墾して、旧名主同志で填界の争いが生じた場合、その土地が年月を経てもとの境界が判定し難くなっているときは、双方が主張する境界の中間を新規の境界と定めるが、双方が不承知ならば、両者の権利を没収して各々別の名主へ与えるものとした。
それにしても裁判というのは疲れるし、どうやっても片方、もしくは両方から恨まれるのはどうにかならないかと思うよ。
公方様が裁判沙汰を放り投げたくなる気持ちもわかるが、実際に放り投げちゃ駄目だよな。




