上田政盛を扇谷家から離反させ、三河の制圧も出来たよ、大変なのはむしろこれからだろうが
さて、武蔵神奈川の権現山城の上田政盛を扇谷家から離反させるために調略に乗り出したが、割とあっさりこちらに寝返った。
元は扇谷上杉の家臣だったからと山内上杉に神奈川湊の支配権を奪われたことをよほど恨んでいるらしい。
湊からの収入というのは莫大だからある意味当然ではあるが、国の上の地位の人間にはそういう事がよくわかってないから揉め事がたえない。
ともかく武蔵国の権現山城がこちらの味方になったこともあって、玉縄城などが再び迫られる可能性はかなり低くなった。
「そろそろここ(鎌倉)はお前さんに任せて、俺は一度駿府に顔を出しにいって今川の名代として働かないと駄目だ」
俺の言葉に大道寺重時は苦笑していった。
「わかったここは俺にまかせておけ」
現状の鎌倉など相模東部ははまだ完全に落ち着いているわけではないが俺が離れても問題はないくらいにはなっている。
「ああ、済まないが後は頼む」
俺は鎌倉を大道寺重時に任せて駿府へ向かった。
「叔父上、ようやく相模は落ち着いたようですな」
今川氏親の言葉に俺はうなずいた。
「ええ、なのでようやくこちらへと来ることが出来ました。
これより遠江の国人をまとめて三河へ兵を出そうかと思います」
「うむ、三河を制圧し尾張の斯波をやり込めるのは、先祖代々の悲願であるからな。
よろしく頼むぞ」
「は、わかっております」
今川と斯波はどちらも室町幕府将軍足利氏の有力一門であり本来ならば仲良く出来ても良さそうだが、九州探題として任務に失敗した斯波氏経とそれに入れ替わって九州探題として現地に赴き功績を上げた今川貞世が結局九州探題を解任されて遠江と駿河の半国守護を命じられ、それぞれ弟の今川仲秋、甥の今川泰範と分割統治する事となったが斯波義重が足利義満からの寵愛を受け、遠江守護の地位を奪われたことなどからも斯波と今川は仲良くできるわけがない。
先代の今川義忠も京に上洛していたが細川勝元からの要請で西軍の斯波義廉の分国である遠江を取り戻すべく戦ったわけだが、西軍方の斯波義廉に替わって遠江守護に任じられていた東軍の斯波義良とも争うことになっても当然やめるわけはない。
さらに東軍の三河国守護であった細川成之を支援するため三河へも出陣しているが、三河の吉良義真の被官となっていた遠江の国人の巨海氏、狩野氏とも対立して、これを滅ぼしてしまったため未だに三河では反今川の動きも強い。
そういった事もあって三河を放置していればいつまで経っても遠江西部が落ち着かないので三河の制圧も必要なわけだ。
まず牧野古白の今橋城を攻略。
そして三河の中条氏や政所執事伊勢氏に仕えて三河国内の勢力を伸ばしていた岩津松平家の兵2500を打ち破って臣従させ、庶流である安城松平氏の松平親忠、その下の酒井氏、本多氏、大久保氏なども俺の下へと加え、吉良氏被官の代官である大河内氏や巨海氏なども下に加えた。
東西の吉良氏の当主自体は応仁の乱の時点では三河に下向して争っていたが大きな合戦に至るわけでもなく、東西両軍の和睦を受けて東西両吉良氏も和睦をして京に戻っているので直接的には戦っていない。
東西両吉良氏が力を合わせて細川や斯波・山内上杉と政治的に手を結んだりするといささか面倒にはなるだろうがそれでも軍事的には全く脅威とは言えないな。
三河の国人の兵力では山内上杉や扇谷上杉のように苦戦するということはなかったが、面倒なのはむしろこの後だろうな……三河の統治における面倒臭さはおそらく遠江や相模の比ではないだろう。
三河には将軍直属の奉公衆や細川・一色・吉良などの被官に加えて、中條のような古い家も多くてしかもそれぞれがいがみ合っていたりするのだ。
当然だが土地争いや水争い、山争いでもめないわけがない。
本当は尾張をさっさと攻略したいのだがな。
京都で困窮している公家のなかでも下級の家や次男次女以降ならば、銭と家と筆記用具とかはこちらで用意するから、文官として働きに来てくれないか奥さんたちを通じて働きかけてみるか。




