穴山・栗原・油川の調略に成功し、甲府を制圧したので甲斐全体を影響下におけたよ
さて、小山田氏がこちらにつき、武田本家と敵対している穴山氏・栗原氏・油川氏などを調略している最中の俺だが武田本家と分家や国人が対立するに至ったわけには、今川義忠が討ち死にし、俺が駿河に下向した文明3年(1471年)から文明5年(1473年)ごろのことだが、実は全国的には冷害による飢饉状態の場所が多かったらしい。
もともと駿河は田んぼに向く土地が少ないが海に近いので基本的には温暖で、俺は駿河の小川城で焼津の発展を手助けしながら火山灰の痩せた土地でも栽培できる蕎麦や緑茶の生産を優先させたり、魚の漁獲量を増やすようにしたりしていたのでそこまで影響は大きくなかったが、甲斐ではかなりの影響が出て、飢饉や疫病の蔓延、一揆の発生などが起きたことも穴山氏・武田大井氏、武田今井氏、小山田氏といった国内の有力者が自立の動きを見せるようになった原因でもあったようだ。
そもそも今川義忠が遠江で討ち死にしたのも、遠江奪還が今川の悲願だったというのもあるが単純に食料を得るためにも遠江への出兵が必要だったのだろうな。
関東の戦乱である享徳の乱でも文明3年(1471年)には古河公方足利成氏方の千葉氏、小山氏、結城氏らが伊豆へ侵攻してきて、堀越公方足利政知が三島で敗退したが、山内上杉顕定らが足利成氏方の主力が伊豆に出陣している留守を狙い、古河に出陣したりしたのも最終的には食料を巡っての争いであった可能性が高い。
それはともかく武田信昌はその時にまともな食料対策を打てなかったことで、統治者失格の烙印を押されてしまったのだろう。
無論統治の為に血の近い縁者を各地の分家に送った所為も有るとおもう。
同じようなことは扇谷上杉定正に対して定正の実兄の三浦高救が扇谷上杉定正に代わろうと図って、三浦が内紛に陥ったりしている例もあるしな。
更に甲斐は内陸かつ標高も高いから海に近い場所より冷夏の影響を受けやすいうえに、駿河同様に富士山の火山灰によって土地が痩せている、更には風土病まであり、小山田氏のような独立性の高い国人の存在まであったらまとまるはずがないよな。
しばらくして調略を行っていた風魔小太郎が戻ってきて俺に報告をしてくれた。
「まず穴山は甲斐の南部における塩の販売の権利を認めるならば、こちらに従うとのことです」
「ああ、わかった。
これで甲斐における俺たちの影響力の強い国人勢力が過半数を超えたな。
よくやってくれた」
「油川は本家の代わりに自分たちが武田宗家となるならばとのことでございます」
「ああ、それも構わない」
「栗原は油川が従うならば我々も従うとのこと」
「ああ、無論構わぬ」
その後正式に話をまとめた後、俺は1000の兵を率いて甲斐へ攻め込んだ、油川信恵に加えて栗原・穴山・小山田などの甲斐国人も加わった俺たちは甲府を制圧し武田信昌・信縄親子を自害に追い込んで武田宗家を滅ぼし、有力国人である武田大井氏と武田今井氏も降伏させた。
伊豆での狩野や小田原での大森などと同様に分家である油川に甲府は任せることにして、油川・穴山・小山田の合議制で甲斐は運営していくことになるだろう。