山内上杉に小田原まで攻め込まれたが何とか撃退したよ
さて、相模の扇谷上杉勢の救援にでるための兵をまとめるなどしている間に、古河公方との和睦を取りまとめた山内上杉顕定が攻撃していた七沢城は陥落し、扇谷上杉の本来の本拠地である糟屋館も当然陥落してしまったようだ。
七沢城を守っていた上杉朝昌は脱出して藤沢の大場城に立てこもっているが、七沢城や糟屋館を抑えられたということは21世紀でいう神奈川の厚木や伊勢原を制圧され、相模では数少ない相模川周辺の水田向きの平地を抑えられてしまったということでもある。
「くそ、山内上杉が思っていた以上に早く動いたせいで状況がよくないな」
俺がそういうと大道寺重時もうなずき言った。
「まあ、ある程度予想はついていたが」
「ともかく箱根を超えて小田原城の防衛をせねばなるまい」
北条早雲は堀越公方を討ち果たして一国一城の独立勢力になったと見る向きが強いが、実際は今川と扇谷上杉の両属状態でその下で家臣として動いていたというのが実情だろう。
中央の将軍などの意向が強く反映されるのであればまた別だが、はっきり言えばこのあたりでは中央の意向なんてほとんど影響力がないから俺たちはつい最近やってきたよそ者という扱いなので、元々東方に長くいた今川や上杉に従わねばまとまるものもまとまらないというのが実情だ。
だからこそ息子で二代目の北条氏綱は”北条”性を名乗って今川からの脱却を図ったのだろう。
初代の伊勢盛時、出家した後は伊勢宗瑞と名乗っていた男の息子が北条氏綱と名乗ることになり、その後通字として”氏”前を使うことになったのは、当時の今川氏当主で主君に当たる今川氏親からの偏諱として与えられた可能性が高い。
で、父の死後の北条性を名乗るようになったのは大永6年(1526年)6月に今川氏親が死んだからだと思うが、元々伊豆守護でもあった山内上杉や最終的には決裂に至った扇谷上杉氏などからは「他国の逆徒」と呼ばれて反発を受けていたわけで、特に扇谷上杉氏との関係が決裂に至ったのが痛かったのだろう。
旧来は伊勢氏とは全く無関係だが鎌倉幕府政権下では強い影響力を持っていた執権の北条氏を勝手に名乗った、あるいは早雲が北条氏末裔で韮山城の城主であった北条行長の一人娘に婿入りし、養子となって北条姓を手に入れた、などとされてきた。
だが実際は、北条氏綱の正室の養珠院殿が北条時行の次男の時満の子孫の横井氏であり、北条姓への改称は単なる自称ではなく、朝廷に願い出て正式に認められたものであったりする。さらに、改称から数年後には執権北条氏の古例に倣った左京大夫に任じられることで、家格の面でも今川氏や武田氏、上杉氏と同等になっていたりもする。
真に下剋上に成功したのは北条氏綱だと言えるだろうな。
でもって今現在は、扇谷上杉の権威に頼らざるを得ないから小田原の救援にもいかざるを得ないわけだ。
それはともかく、兵士と食料の手配を済ませて小田原城へ向かった俺たちは、大森藤頼に合力して小田原城をなんとか守り抜いた。
まあ、城にこもって石を投げたりしていただけとも言えるが、基本的には攻撃側の兵糧が尽きるほうが早いからな。




