表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

105/160

山内上杉に小田原まで攻め込まれたが何とか撃退したよ

 さて、相模の扇谷上杉勢の救援にでるための兵をまとめるなどしている間に、古河公方との和睦を取りまとめた山内上杉顕定が攻撃していた七沢城は陥落し、扇谷上杉の本来の本拠地である糟屋館も当然陥落してしまったようだ。


 七沢城を守っていた上杉朝昌は脱出して藤沢の大場城に立てこもっているが、七沢城や糟屋館を抑えられたということは21世紀でいう神奈川の厚木や伊勢原を制圧され、相模では数少ない相模川周辺の水田向きの平地を抑えられてしまったということでもある。


「くそ、山内上杉が思っていた以上に早く動いたせいで状況がよくないな」


 俺がそういうと大道寺重時もうなずき言った。


「まあ、ある程度予想はついていたが」


「ともかく箱根を超えて小田原城の防衛をせねばなるまい」


 北条早雲は堀越公方を討ち果たして一国一城の独立勢力になったと見る向きが強いが、実際は今川と扇谷上杉の両属状態でその下で家臣として動いていたというのが実情だろう。


 中央の将軍などの意向が強く反映されるのであればまた別だが、はっきり言えばこのあたりでは中央の意向なんてほとんど影響力がないから俺たちはつい最近やってきたよそ者という扱いなので、元々東方に長くいた今川や上杉に従わねばまとまるものもまとまらないというのが実情だ。


 だからこそ息子で二代目の北条氏綱は”北条”性を名乗って今川からの脱却を図ったのだろう。


 初代の伊勢盛時、出家した後は伊勢宗瑞と名乗っていた男の息子が北条氏綱と名乗ることになり、その後通字として”氏”前を使うことになったのは、当時の今川氏当主で主君に当たる今川氏親からの偏諱として与えられた可能性が高い。


 で、父の死後の北条性を名乗るようになったのは大永6年(1526年)6月に今川氏親が死んだからだと思うが、元々伊豆守護でもあった山内上杉や最終的には決裂に至った扇谷上杉氏などからは「他国の逆徒」と呼ばれて反発を受けていたわけで、特に扇谷上杉氏との関係が決裂に至ったのが痛かったのだろう。


 旧来は伊勢氏とは全く無関係だが鎌倉幕府政権下では強い影響力を持っていた執権の北条氏を勝手に名乗った、あるいは早雲が北条氏末裔で韮山城の城主であった北条行長の一人娘に婿入りし、養子となって北条姓を手に入れた、などとされてきた。


 だが実際は、北条氏綱の正室の養珠院殿が北条時行の次男の時満の子孫の横井氏であり、北条姓への改称は単なる自称ではなく、朝廷に願い出て正式に認められたものであったりする。さらに、改称から数年後には執権北条氏の古例に倣った左京大夫に任じられることで、家格の面でも今川氏や武田氏、上杉氏と同等になっていたりもする。


 真に下剋上に成功したのは北条氏綱だと言えるだろうな。


 でもって今現在は、扇谷上杉の権威に頼らざるを得ないから小田原の救援にもいかざるを得ないわけだ。


 それはともかく、兵士と食料の手配を済ませて小田原城へ向かった俺たちは、大森藤頼に合力して小田原城をなんとか守り抜いた。


 まあ、城にこもって石を投げたりしていただけとも言えるが、基本的には攻撃側の兵糧が尽きるほうが早いからな。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[良い点] まあ、確かに盛時の代じゃ地元からは都からのお客さんとしか見られませんね。 [一言] 信用が出来たのが子の代以降にしろ、この世界だとサンカや歩き巫女、行商が支持を広げているのでは。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ