プロローグ
まだ色々謎が多いとされる後北条氏の初代北条早雲が主人公のお話です。
中学校を卒業したあと、酒癖の悪い父親のために進学できずに小作農や鳶職、鍛冶師や研ぎ師など色々していた俺は気がついたら若き北条早雲として転生した……らしい。
というお話です。
伊勢新九郎盛時こと北条早雲はかっては浪人身分から大名となり、下剋上を成し遂げた戦国大名の走りとされた人物である。
文正元年(1466年)、備中国荏原荘高越山城城下伊勢屋敷
「ふむ。
ここはいったいどこだ?
俺はなんでこんな所で寝ているのだ?」
明らかに我が家ではない木製の天井、板張りの床の上に置かれた畳の上に和服をかけて寝ていたらしい俺が目を覚ました最初の言葉がこれだ。
どこかの大きな屋敷もしくは寺にいるようではあるが、心当たりはまったくないが、それでもなんとか思い出してみようと、俺は首をひねって考えていた。
そして少しだけ思い出したが、たしか俺の名前は北条英雄。
酒癖の悪い父親のせいで中学校を卒業してすぐに、父が借りていた田んぼの小作をしながら、鳶や鍛冶師、研ぎ師っぽいことなどの雑事で金を稼ぎながらも父が早くに死に、結婚したあとで自分のような苦労はさせまいと息子や娘を大学になんとか入れられてホッとしながらも、家を建てていたはずだったが一体どうなった?
そう言えば足を滑らして地面に落ちたような気がしたが。
そこへやってきたのは時代劇の登場人物のような和服姿の中年女性だった。
「うむ、千代丸よ、ようやく目を覚ましたか」
その言葉に更に記憶を思い出したのだが”今の”俺の名前、正確に言うならば幼名は確かに千代丸と言う。
「どうやら前後不覚に陥っていたようで申し訳ありません、母上」
「いや、気にすることはないですよ。
貴方にとっても兄の訃報は衝撃が大きかったでしょう。
しかしいつまでも今のままというわけには行きません。
早く元服し新たなる備中伊勢家の頭領にて荘官の自覚は持たなくてはいけませんよ」
「はい、心得ております」
俺の父は備中伊勢氏で荘園の荏原荘の半分を領する領主で8代将軍である足利義政の申次衆の伊勢盛定。
そしてここは備中国荏原荘高越山城城下伊勢屋敷だな。
高越山城自体は弘安4年(1281年)に蒙古襲来に備え執権北条氏から山陽道警護のため、下野の宇都宮氏が築城してそのまま籠ったといわれるが、そこへ伊勢盛定が六庄三百貫の知行を得てこの地に下向し高越山城を居城としたとされ、小田原を拠点とした小田原の後北条氏の祖である、北条早雲は伊勢盛定の子としてこの地で誕生したと云われている。
高越山城は標高172.3mの高越山の山頂に築かれている典型的な山城で、そこで生活を行なうには不便なので、南の麓の小田川に比較的近い場所に屋敷があって、いざという時は城にこもるというわけだ。
この小田川があるおかげで古くから荘園としてありつづけたし、荏原は荏の生える地からつけられたというが、荏の油はごま油や菜種油が普及するまでは、代表的な植物油であり、灯火にもこれが主に用いられていたため、それを安定的に確保、供給するために油座という組織が作られていたが財源としても大事なものだ。
荏原荘の青蔭城の城主である大山氏はもとは源平合戦において義経の配下として有名な那須宗隆(与一)の一族で、与一宗隆から3代目にあたる那須宗晴の子孫で源平合戦の功により荏原荘の代官として下向したが、そこの半分は今は室町幕府の名族である、俺達が握っているわけだ。
余談だがここには那須与一公墳があり、荏原那須氏がその祖である与一をしのんで建てた供養墓で、
この墓は古くから扇の的一射必中の故事にあやかって弓の腕が上達するとされ、それにより願い事がかなうと伝えられている。
そして今目の前にいる中年女性は俺の母で京都伊勢氏の当主かつ政所執事である伊勢貞国の娘である。
申次衆とは将軍に対しての奏聞を取次ぐ役職を指していて、幕府の申次は将士が将軍に拝謁するために参上した際にその姓名を将軍に報告して拝謁を取り次ぎ、同時に関連する雑務も処理した。
これは室町幕府6代将軍足利義教の頃には伊勢・上野・大舘・畠山の4氏出身者によって独占されるようになり、彼らは数名で結番して交代で申次の職務にあたった。
そしてこれは将軍側近としてかなり高位の家格としての意味を有するようになった。
室町幕府の政所執事というのは室町幕府の財政の管理と領地に関する訴訟を掌る職の長官であり、これもまた伊勢氏の世襲の職で、管領などに比べるといまいち目立たないのであるが、いわば幕府の影の実力者でかなりのエリートの家系だ。
本来は次男である俺が倒れたのは将軍足利義政の弟である義尋が還俗して将軍後継者の足利義視となった時に、叔父である伊勢貞親の勧めでその近侍となった兄の貞興の訃報を聞いたからだったはずだ。
今年の文正元年(1466年)に発生した文正の政変で兄は暗殺されたのだ。
そして文正の政変で足利義政は側近を中心とした政治を行えなくなり、残った諸大名は応仁の乱を起こして、日本全国は動乱に進んでいくのだ。
いつの時代でも権力者というのは自分勝手なもので、民衆の苦しみなど理解しようとしないものらしい。
そして何しろ俺はまだ数え11歳の元服前であるので実際になにかを行なうのは難しいが、この政変が元で来年起きるのが有名な応仁の乱である。
「こうして寝ている場合ではないですね。
荘官として必要なことを早く学ばなくては」
「ええ、そう思うのは良いことですが無理はいけませんよ」
「はい。
わかっております母上」
だがこれは都合がいい。
今はまず現状の把握や応仁の乱に対する対応の準備から進めねばならないな。
土地を富ますのも大事だが、それを目当てにどこかに襲われて収穫物などを奪われても意味がないのが難しいところではあるが。