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鮮やかな世界

いつからだろうか、世界に色がなくなったと思ったのは。

なりたかったものになれなかった時からだろうか。

それとも、同じ毎日の繰り返しに飽きた時からだろうか。

起きて、ご飯を食べて、魔物討伐の依頼をこなし買い物をしてから帰り、またご飯を食べて寝る。

刺激がない。くだらない人生だと自分でも思う。

空は晴れていたらしい。

道端には花が咲いていたらしい。

子供たちは楽しそうに走り回っていたらしい。

けれど、俺にはどれも関係なかった。

世界はただの情報でしかなく、そこに意味を見出せなくなって久しい。

「……帰るか」

誰に聞かせるでもなく呟く。

その時だった。

森の奥で、何かが光った。

一瞬だけ。

見間違いかと思った。

なぜならその光は、俺が何年も前に失ったはずのものだったからだ。

だが、確かに見えた。

灰色ではない。

白でも黒でもない。

忘れかけていた何か。

心の奥底に沈んでいた記憶を無理やり引きずり出すような色彩。

「……なんだ、今の」

気づけば足が動いていた。

興味なんて、とっくの昔に失ったと思っていた。

それなのに。

森へ近づくほど、その光は脈打つように明滅する。

まるで俺を呼んでいるように。

そして辿り着いた先で、大樹の根元に、一人の人影が立っていた。

逆光で顔は見えない。

それなのに、なぜだろう。

心臓だけが嫌なほど脈打つ。

あり得るはずがない。

そんなこと、あるはずがない。

「……おい」

声が震える。

人影がゆっくりとこちらを向いた。

「懐かしい顔だな……」

その瞬間、止まっていた時間が動き出した。

昔、俺の腕で死んだはずの最友がそこにいた。

顔を見た瞬間、息が止まった。

忘れるはずがない。

忘れたくても忘れられない。

この世界で最友と呼ぶのは生涯で一人だけだ、そしてあの日、俺の腕の中で冷たくなった男だった。

言葉が出なかった。

喉の奥が焼けるように熱いのに、声だけが出てこない。

あり得ない。

俺は見ていた。

あの日、確かに見届けたはずだ。

血に染まった外套も。

途切れ途切れの呼吸も。

力なく落ちた腕も。

全部。

全部、この目で見た。

「……なんで」

ようやく絞り出した声は、自分でも驚くほど弱々しく嘆きに近かった。

人影――いや、アルトは苦笑した。

昔と変わらない笑い方だった。

だからこそ気味が悪かった。

「なんで、か」

アルトは空を見上げる。

「俺も最初はそう思ったよ」

「ふざけるな」

気づけば叫んでいた。

「お前は死んだんだ」

アルトは答えない。

「俺が埋葬した」

返事はない。

「俺が、お前を……」

そこまで言って言葉が途切れた。

アルトの瞳が見えたからだ。

違和感の正体はそれだった。

昔と同じ顔。

昔と同じ声。

昔と同じ笑い方。

なのに、その瞳だけが決定的に違っていた。

背筋が冷える。

俺はその瞳を知っているはずだった。

何度も隣で見てきた。

笑う時も。

怒る時も。

無茶な作戦を思いついた時も。

いつだって見てきたはずなのに。

目の前のそれは、俺の知るアルトの瞳ではなかった。

「……お前、誰だ」

気づけばそう口にしていた。

アルトは少しだけ目を丸くした後、困ったように笑った。

「ひどいな」

その声は間違いなくアルトだった。

だが違和感は消えない。

むしろ大きくなっていく。

「答えろ」

腰の剣に手をかける。

アルトの視線がそこへ落ちた。

そして小さく息を吐く。

「そうなるよな」

アルトがそう呟いた瞬間だった。

何かが胸を貫いた。

遅れて熱が来る。

「……え」

視界が揺れた。

一歩後ずさる。

胸元に手を当てる。

ぬるりとした感触。

手を離す。

赤かった。

嗚呼、死ぬのか。

不思議と恐怖はなかった。

色のない明日をまた繰り返さなくて済む。

そんなことを考えてしまった自分に、少しだけ笑いた。

冷たさが全身へ広がっていく。

それなのに、不思議と恐怖はなかった。

「………」

霞む視界の向こうで、アルトが何かを言っている。

もう聞こえない。

聞こえなくていい。

最後に最友の手で死ねるなんて。

それも悪くない人生だったのかもしれない。

そう思った。

そう思ったはずだった。

だが、意識は消えない。

感覚がない。

腕を動かそうとしても動かない。

いや、身体そのものが存在しなかった。

暗闇だった。

上も下もない。

果てのない虚無。

死後の世界とは、こういうものなのだろうか。

ふと。

遠くで何かが瞬いた。

灰色の世界に浮かぶ、たった一つの色彩。

それは次第に近づいてくる。

いや。

違う。

俺が引き寄せられているのだ。

銀色の髪が淡く揺れている。

不思議なことに、その姿だけは鮮やかに見えた。

まるで色そのものが人の形を取ったように。

俺を見ている。

そして微笑んだ。

「やあ、ようこそ」

その声は、どこかひどく懐かしかった。

「君は死んだよ」

やはり死んだのか。

不思議と驚きはなかった。

「ここは?」

「君をどうするか決める場所」

女は微笑む。

「そして私は全知の女神」

女神。

なるほど。

死後の世界らしい肩書だ。

「君には選択肢がある」

女神はそう続けた。

「このまま死ぬか」

一拍置く。

「あるいは転生して、もう一度人生を歩むか」

「転生、か」

女神は頷く。

「ただし、完全に自由というわけではない」

「条件があるのか」

「ある」

女神は迷うことなく答えた。

「君には私の眷属になってもらう」

「眷属?」

聞き慣れない言葉に眉をひそめる。

「簡単に言えば、私に仕える者だよ」

「断ったら?」

「転生はできない」

あまりにもあっさりとした答えだった。

「なんで眷属が欲しいんだ?」

女神は少しだけ目を瞬かせた。

まるで、その質問が来ることを予想していなかったかのように。

「欲しい、という言い方は少し違うかな」

「何が違う」

「必要なんだよ」

女神はそう言って指先を軽く振る。

暗闇の中に小さな光が浮かび上がった。

「この世界の女神は、まだ神じゃない」

「……は?」

「正確には神になる資格を持つ者、かな」

光が静かに揺れる。

「そして神になるためには条件がある」

「それが眷属か」

「そう」

女神は頷いた。

「眷属を導き、その生を見届け、その魂に認められること」

「随分と面倒なんだな」

「神になるのは簡単じゃないからね」

そこで初めて、女神は少しだけ悪戯っぽく笑った。

「だから君には私の眷属になってもらいたい」

しばらく沈黙が続いた。

女神は返事を待っている。

だが、俺は別のことを考えていた。

「断ったら死ぬんだったな」

「そうだよ」

「なら別にそれでいい」

女神の笑顔が固まった。

「……本当かい?」

「どうせ一度死んだ身だ」

女神の笑顔が引きつった。

「……本気で言ってる?」

「本気だ」

「転生だよ?」

「そうだな」

「新しい人生だよ?」

「そうだな」

「もっと驚いたり喜んだりしない?」

「別に」

女神は額を押さえた。

「困ったな……」

「何がだ」

「君を眷属にしたい」

「諦めろ」

「嫌だ」

即答だった。

思わず眉をひそめる。

女神の方が先に視線を逸らした。

「君じゃなきゃ駄目なんだ」

「なぜ」

「それは――」

女神は口を閉ざす。

数秒の沈黙。

そして諦めたように笑った。

「まだ言えない」

「怪しいな」

「自覚はある」

「言いたくない、か」

「言えないんだよ」

女神は不満そうに唇を尖らせた。

「契約前に全部話すと怒られる」

「誰に」

「神に」

「女神にも怖いものがあるのか」

「あるとも」

女神は大きなため息を吐いた。

「だから困ってるんだ」

「なら諦めろ」

「嫌だ」

即答だった。

「本当にしつこいな」

「必要だからね」

銀色の瞳が真っ直ぐこちらを見る。

「君は今、自分が死んだ理由を知らない」

俺の動きが止まった。

「……何?」

「本当にアルトに殺されたと思っているのかい?」

空気が変わった。

女神の笑みは消えていた。

「君は大事なことを忘れている」

「忘れている?」

「正確には失っている、かな」

その言葉に胸の奥がざわつく。

「何を」

女神は少しだけ目を細めた。

「君の記憶の一部だよ」

「まぁ、この空間に来るだけでも何かしらの代償がいるからね」

「記憶を取り戻す方法はあるのか」

「あるよ」

「でも、断定はできない」

「記憶を取り戻す方法はあるのか」

「あるよ」

女神はあっさりと言った。

「でも、断定はできない」

「どういう意味だ」

「失われた記憶は失われた記憶だ。戻ることもあれば、戻らないこともある」

「役に立たないな」

「そうかな?」

女神は少しだけ笑った。

「少なくとも、このまま死ねば確実に思い出せない」

言葉に詰まる。

「君は気になっているはずだよ」

銀色の瞳が俺を覗き込む。

「なぜアルトがそこにいたのか」

「……」

「なぜ君は殺されたのか」

「……」

「そして、何を忘れているのか」

胸の奥がざわつく。

思い出そうとしても思い出せない。

だが確かに欠けている。

大切な何かが。

「転生して眷属になれば分かるのか」

女神は少し考える素振りを見せた。

「保証はしない」

「しないのか」

「でも可能性はある」

そう言って女神は悪戯っぽく笑う。

「少なくとも死ぬよりはね」

「詐欺師みたいな勧誘だな」

「神になる前だから許してほしいな」

「最低だな」

「褒め言葉として受け取っておくよ」

女神は楽しそうに笑った。

その笑顔を見ながら、俺は目を閉じる。

本来なら断るはずだった。

死ぬことに未練などない。

色を失った人生だ。

終わるなら終わるで、それでよかった。

だが――。

アルトの顔が脳裏を過る。

あの瞳。

あの言葉。

そして最後の瞬間。

何かがおかしい。

決定的に何かが欠けている。

胸の奥に刺さった棘のように。

忘れているのではない。

失っているのだ。

何か大切なものを。

「……なあ」

沈黙を破るように口を開く。

「もし俺が転生したとして」

女神がこちらを見る。

「その先にあるのが、知りたくない真実だったとしてもか?」

女神は少しだけ目を細めた。

「それでも知りたいと思うなら」

静かな声だった。

「君はもう答えを決めているんじゃないかな」

返す言葉はなかった。

死ぬのは構わない。

だが。

知らないまま終わるのは、少しだけ気持ちが悪かった。

アルトがなぜ俺の前に現れたのか。

なぜ俺を殺したのか。

そして俺は何を失ったのか。

それを知らないまま終わることだけは、どうしても受け入れられなかった。

長く息を吐く。

「……分かった」

女神の瞳が僅かに輝いた。

「眷属になる」

その言葉を口にした瞬間だった。

銀色の光が世界を満たす。

契約が結ばれたのだと、本能的に理解した。

「ありがとう」

女神は小さく微笑む。

その表情は、今まで見せていた軽薄な笑みではなかった。

どこか安堵したような。

長い時間を待ち続けていた者の顔だった。

光が視界を埋め尽くす。

意識が遠のいていく。

最後に聞こえた女神の声は、不思議と優しかった。

「ようこそ」

その言葉と共に。

灰色だった世界へ、再び色が流れ込んだ。

光が視界を埋め尽くす。

意識が遠のいていく。

最後に聞こえたのは、どこか嬉しそうな女神の声だった。

「ようこそ、私の最初の眷属へ」

次の瞬間、眩い光が弾けた。

目を閉じているはずなのに、世界が流れ込んでくる。

空の青。

草木の緑。

陽光の温かさ。

風の匂い。

失ったと思っていたものが、胸の奥を満たしていく。

色など、とっくに消えたと思っていた。

けれど違った。

俺が見失っていただけだったのだ。

世界は何ひとつ変わっていない。

ただ――。

もう一度、それを見ようと思えた。

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