第七話 契約不履行のカウントダウン
第七話 契約不履行のカウントダウン
王宮の空気は冷え切っていた。
窓の外では冬雨が石畳を叩き、灰色の空が王都を重たく覆っている。玉座の間には巨大な赤絨毯が敷かれていたが、その豪奢さも今はどこか空虚だった。
沈黙が重い。
並ぶ貴族たちの顔には疲労と不安が滲み、財務官たちは青白い顔で帳簿を抱えている。
誰も口を開かなかった。
今日が返済期限だと、全員知っているからだ。
玉座の前ではジュリアンが苛立ったように歩き回っていた。目の下には濃い隈が浮かび、金糸の礼装も以前ほど輝いて見えない。
「まだか」
彼が低く唸る。
「……白銀のCasablancaは、まだ来ないのか!」
財務局長が震える声を出した。
「ま、間もなく到着すると……」
「くそっ……!」
ジュリアンが机を叩く。
その衝撃で、積み上がった帳簿が崩れ落ちた。
紙が床へ散らばる。
赤字。
未払い。
差押警告。
どの書類にも、終わりの気配しかなかった。
マリアンヌが不安そうに近づいてくる。
「ジュリアン様……本当に大丈夫ですわよね?」
彼女の声は震えていた。
以前の夜会失敗以降、社交界の風向きは完全に変わっていた。貴婦人たちは王宮のドレスを避け、商人たちは王家への取引を渋り始めている。
それでもジュリアンは、まだ信じていた。
「大丈夫だ」
彼はマリアンヌの肩を抱く。
「私は王太子だ。少しくらい返済が遅れたところで――」
その時だった。
玉座の間の扉が開く。
冷たい外気が流れ込み、場の空気が一瞬で張り詰めた。
白銀のドレス。
静かな足音。
レティシアだった。
彼女の後ろには黒服の使用人たちが並び、分厚い書類箱を運んでいる。
広間がざわめいた。
「白銀のCasablanca……」
「本当に来たのか……」
レティシアはゆっくり進み出る。
ヒールの音だけが静かに響く。
その姿は以前よりさらに洗練されていた。無駄のない白銀のシルエット。呼吸を阻害しない柔らかな布地。それでいて、どの貴婦人よりも威厳がある。
ジュリアンが眉をひそめる。
「……またお前か」
レティシアは一礼した。
「返済期限となりましたので、契約履行確認に参りました」
その瞬間、空気がさらに重くなる。
ジュリアンは顔を歪めた。
「待て。今、王宮は混乱している」
「存じております」
「なら分かるだろう!? 民を救うための出費だったんだ!」
声が玉座の間へ響く。
「孤児院も! 診療所も! 炊き出しも! 全部、人々のためだった!」
ジュリアンは拳を握り締めた。
「少しは人の心がないのか!」
その怒声に、貴族たちが息を呑む。
だがレティシアは動かなかった。
冷たい静寂のまま、一歩前へ出る。
白銀の裾が赤絨毯を滑った。
「ジュリアン様」
彼女の声は静かだった。
「私はビジネスの話をしています」
玉座の間が静まり返る。
「感情で数字は変わりません」
ジュリアンの顔が赤くなる。
「お前は本当に冷たい女だ!」
「ええ」
レティシアは即答した。
「契約に温度は必要ありませんので」
マリアンヌが涙目で口を開く。
「でも……みんな笑顔になっていたんです……!」
「その代金を支払えるなら問題ありません」
「っ……!」
「支払えない善意は、ただの負債です」
その言葉に、財務局長が顔を伏せた。
まさにその通りだった。
王宮は善意を理由に支出を重ね続けた。
結果、国庫は崩壊した。
ジュリアンが歯を食いしばる。
「王家を脅す気か」
「契約を履行していただくだけです」
「私は王太子だぞ!」
怒声が響く。
「少しくらい待てないのか!? 人として!」
レティシアは彼を見つめた。
前世でも彼は同じ顔をした。
追い詰められると、必ず“心”を盾にする。
だが数字は、感情へ同情しない。
「返済額五百万ゴールド」
レティシアは淡々と告げる。
「期限、本日正午。現在時刻、十二時七分」
時計の針が静かに鳴る。
「契約不履行です」
その言葉に、広間が凍った。
ジュリアンが叫ぶ。
「認めん!」
彼は玉座の階段を降り、レティシアへ詰め寄った。
「王権を何だと思っている! 私はこの国の未来だぞ!」
「ですので契約を結んだのでしょう」
「ぐっ……!」
「返済能力のない契約へ署名した時点で、責任は発生しています」
ジュリアンが言葉を失う。
その時だった。
再び扉が開く。
空気が変わった。
黒。
ただそれだけで、広間の温度が下がったように感じた。
漆黒の外套をまとった男がゆっくり入ってくる。
ヴィンセント・ハルフレッド。
その姿を見た瞬間、貴族たちの顔色が変わる。
「ハルフレッド大公……!」
「なぜここに……!」
ヴィンセントは誰も見ていない。
ただ静かにレティシアの隣へ立つ。
革手袋を外し、一枚の羊皮紙を掲げた。
「契約書だ」
低い声が響く。
「ハルフレッド中央銀行立会いの正式契約。返済期限超過を確認した」
ジュリアンが青ざめる。
「ま、待て……!」
「待たない」
ヴィンセントは冷たく言い放った。
「契約は期限によって成立する」
彼の灰色の瞳が細まる。
「感情ではなく、な」
玉座の間に緊張が走る。
レティシアは静かに契約書を受け取った。
羊皮紙の感触。
インクの匂い。
そこに並ぶ数字。
完璧だった。
「ジュリアン様」
彼女は穏やかに告げる。
「これより担保執行準備へ移行いたします」
その瞬間。
王宮中から血の気が引いた。
鉱山。
商業査察権。
それを失う意味を、今ここにいる全員が理解していた。
王家の経済は終わる。
ジュリアンの唇が震える。
「そんな……」
彼はようやく気づき始めていた。
これは単なる借金ではなかったのだと。
契約だった。
数字だった。
そしてその時点で、もう勝負は終わっていたのだと。
レティシアは静かに踵を返す。
白銀のドレスが揺れる。
まるで断頭台へ向かっていた昔の自分を、置き去りにするように。
もう彼女は泣かない。
もう感情には縋らない。
数字だけが真実だ。
契約だけが裏切らない。
その確信を胸に、レティシアは静かに玉座の間を後にした。




