二十話
その日の晩。
見張り以外はそれぞれのテントで寝に入っただろう静かなキャンプ地点で、リリシアは王城よりもずいぶん近い天井見上げながら悶々としていた。
ヒカリの様子が一向に直らない。なにより、原因が分からないのが苦しかった。
どうにもリリシアとの接触を怯えているような、戸惑っているように思える。
だが、原因はなんだというのか。
(今朝までは普通だったはずなのに……)
ひそひそと呼びかけて起こしてくれた今朝のことを思い返す。そのあとは朝食の場で顔を合わせたが、そのときにはもうぎこちない態度だった。
テントを出ている間になにかあったのだろうか。
考えても分からない。
もしかして嫌われるようなことをしたのかと、そんな可能性が胸を過る度にリリシアは心臓が冷たくなるような気がした。
ころりと寝返りを打ってヒカリのほうにを向いた。
暗闇の中、うっすら見えるヒカリの背中を不安な面持ちで見つめた。
「……ヒカリ」
半分諦めていた呼びかけに、ヒカリは振り向かずに「はい」と答えた。
「その、わたくしはあなたになにかしてしまったかしら」
「……なんでですか」
「あなたが、わたくしを避けているようだから……嫌われてしまったのかと思って」
おずおずと訊ねてみると、返ってきたのは沈黙だった。
静けさの中、自分の鼓動が不安と緊張で少しずつ速く、大きくなっていくのがわかる。
顔が見えないと今彼女がなにを考えているのか分からない。
「ねえ、ヒカリ……こちらを向いてくれない? あなたの顔が見れないと淋しいわ」
思ったよりも子どもの駄々のような声が出てしまい、恥ずかしい。けれど、ヒカリが急に飛び起きるから瞬時に驚きで上書きされてしまった。
「リリシアさんは――!」
勢いづいた言葉は耐えるように引き結ばれた唇にしまいこまれてしまう。
「ヒカリ? どうしたの? 言いたいことがあるのなら遠慮しないで」
肘を立てて中途半端に身体を起こしながら窺う。
ヒカリの泣き顔は何度も見てきたけれど、こんなふうに痛々しく泣いている姿は初めてだ。
悲しいとかそういう涙には見えない。大きな感情の発露として勝手に流れ出たように見えるし、事実ヒカリも不本意そうだった。
「そんなふうに噛んだら傷がついてしまうわ」
激しい感情を抑え込むように噛みしめられた唇の縁を、指で撫でて窘める。と、触れた手を掴まれた。
「……リリシアさんは私のことどう思ってるんですか」
え――と、訊き返す言葉は、濁流のように溢れたヒカリの言葉に遮られてしまう。
「イリナさんのことが好きなんですか? だから、だからキスさせたんですか? 二人は、付き合ってるんですか?」
「ヒカリ、あなた見ていたの……?」
くしゃくしゃになった顔が小さく頷いた。
ああ、責めたわけじゃないのに。叱られたように怯えた気配を出すヒカリに、リリシアはすっかり弱ってしまう。
リリシアが好きなのはヒカリなのだ。あらぬ誤解をされていることに驚いて、けれど正面から気持ちを告げる覚悟も出来ていなかったから、突然のことにリリシアは上手く言葉が出てこない。
「イリナとの口づけはね、一度だけと請われて……それで、」
「じゃあ、私がお願いしてもしてくれるんですか」
「えっ――きゃあっ」
視界がひっくり返った。突然現れた天井に目を白黒させていれば、ぬっとヒカリが視界に入ってくる。
ただでさえ暗いテント内で、影が落ちるようにさらに暗くなったから、自分は今覆い被さられているのだと分かった。
片手は依然として掴まれたままだ。そして、もう一方の手は縫い止めるようにリリシアの肩を押さえていて、この片腕が自分を押し倒したのだと遅れて理解した。
「私も好きって言って、キスしたいって言ったら、そうしたらリリシアは許してくれますか?」
暗闇の中でも分かるほど、ヒカリの瞳はゆらゆらと涙で艶めいて揺れていた。ポタポタと黒い瞳からこぼれた涙がリリシアの白い頬に落ちてくる。
泣いた顔がゆっくり降りてきて、言葉をなくしていたリリシアは額を掠めた黒髪のこそばゆさで正気に戻る。
咄嗟にヒカリの口許に手を置いて制止してしまう。途端、傷ついたように大きく揺らめいた瞳に慌てた。
「あ、これは違うの、あのねヒカリ」
「いやだ」
いやです、リリシアさん。と、我が儘を言う子供みたいな声が落ちる。
「なんでイリナさんだけ……私だって好きなのは一緒なのに。なんで、私はダメなんですか」
ダメとかそう言うんじゃない。ただ、思い人が泣いて縋ってくるこの状況に、リリシアの許容範囲が逸脱してしまっているだけだ。
好きな人の泣き顔に動揺して。言葉や態度に翻弄され、今は大きすぎる自分の鼓動しか聞こえてきやしない。
喋ろうにも「あー」とか「うー」なんて悩ましい唸りを上げるだけでろくな言葉も出てこない。
こんなふうに言い淀むなんてらしくない。仮にも王女として社交界でそれなりの話術は身につけたと思っていたのに。
――少し距離をとって冷静に話し合うべきだ。
そう結論づけ、リリシアはそっと優しい力でヒカリの肩を押しのけようとした。――だが、それよりも強い力でヒカリが身を乗り出してきた。
「お願いです。私を拒まないで……あの人だけじゃなくて、私も受け入れてください。お願いします」
私だってあなたのことが好きなんです。
泣き声でもたらされた告白に、リリシアは心臓を掴まれたように息を飲んだ。
一瞬で頭が真っ白になって、それで耳を疑っている間にヒカリが顔を寄せてくる。
目と鼻の先で視線が絡み合い、思わず身じろぐ。が、押さえつけてくる力が強くて微塵も動けなかった。
「ごめんなさい。でも、好きなんです。リリシアさんのことが好き――どこにもいかないで」
軽く唇が触れた。軽いキスが何度も繰り返されて、その合間に「ごめんなさい」と泣いた彼女の謝罪が届く。
拙く子どものような口づけは、ヒカリが自身の知る限りのことを駆使して必死に行っているようだった。
ちゅっちゅっと必死にリリシアの唇を吸う姿が、可愛らしくてきゅうと胸がしめつけられる。
求められることがこんなふうに華やかな喜びをもたらすなんてリリシアは知らなかった。
驚きと動揺で硬直していた身体を弛緩させ、身を委ねる。と、それだけヒカリが嬉しそうに喉を鳴らしてハラハラ泣いているからリリシアは目が溶けてしまうんじゃないかと心配になった。
息つく暇もないほど繰り返しキスをされて言葉に出来ないから、リリシアはそっと首を伸ばして自分の唇を押しつけた。
ふにっとお互いの唇が形を変えるほど強く触れ合って、ゆっくり離れてから慰めるように舌先で上唇を撫でた。
体勢が辛かったので、そろそろと枕に頭を戻して見上げると、怒っていないことは伝わったようだ。
許されたのだと、受け入れられたと感激するように黒い目が一瞬安堵と期待できらめいた。
さっきまでの獣染みた鋭い気配が消え、ヒカリはいつものように少女然とした子どもらしい泣き顔でしゃくり上げる。
「わ、私……ごめんなさい。急にこんなことして……ごめんなさああい」
「ああ……泣かないで。本当に目が溶けてしまうわ」
わんわん泣いて目許をこすりつけるので、慌てて起き上がってそれを止めた。
肩を抱いて手を握ってやってもなかなか泣き止まない。
リリシアはひとまず揃って横になり、そのままヒカリの頭を抱えるように抱いて頭を撫でつけながら大丈夫だと、怒っていないのだと伝え続けた。
涙を吸った胸元はひんやりと冷たかったが、そんなことは些事だ。
ひくひくとしゃくり上げる声は次第に小さくなっていき、「嫌いにならないで」と譫言のように呟いてヒカリはそのうち泣き疲れて眠ってしまった。
涙の跡をそっと拭ってやり、彼女の寝顔にリリシアもほっと安堵して眠りについた。
慰めて宥めることに必死になっていたリリシアは、すっかり自分の気持ちを伝えるタイミングを逃していたし、伝え忘れたことすら気づかずに多幸感に包まれながら眠りに入った。




