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番外編 ~妖精だったわたしが彼とお酒に飲まれるまで~

 わたしは、いましがた知ったばかりの柑橘系のお酒が気に入っていた。

「まったく、ジャックったら!」

 ぷはぁ。

 お酒の入ったコップを、叩くようにして机に置いた。

 既に頭がくらくらしているような気もしたが、お構いなしに再びあおる。コップを飲み干したわたしが息をつくと、歓声が沸いた。ぐいっと盃をあおる動作が周囲を沸き立たせたようだ。

「おいおい嬢ちゃん、そんなに飲んで大丈夫か?」

「そのジャックって旦那さんだろう? 心配されないのか」

 誰も彼も初対面だったが、そんなことはどうでもいい。初対面だろうが知り合いだろうが、今はわたしの愚痴を聞いてくれる仲間だ。


 芸術の国・フーランシェ王国。首都パリ、下町の酒場にて。

 黄昏時はもうとっくに過ぎていた。その酒場は他の飲み屋から少し外れたところにあったけれど、なかなかの賑わいを見せていた。あまり遠くに行くのも不安だったので、その陽気にも釣られてその店を選んだのだった。




 ことのあらましは、こうだ。

 朝日を浴びて起床。わたしは右目をこすり、パレードかと思うような意気込みのそれを浴びた。

 パリの屋敷で迎える朝には、まだ慣れない。

「おはようございます、奥様」

 とは、コレットだ。

「おはようございます、奥様!」

 そしてこちらは、数多のメイドたち。

 バルスロネットの館にはいなかった、ジャックが雇っているメイドたちだ。あまりにたくさんいるので、彼女たちの顔と名前は一致していない。

「おはよう、今日はジャックは?」

 他人に着替えを手伝ってもらうのは慣れたわたしが、夜着を脱いで動きやすいドレスに袖を通しながら聞いた。

 するとコレットが顔を曇らせた。それだけで十分だ。彼女が次に言う言葉がわかる。わかってしまう。

「申し訳ありません、旦那様は今日も……」

「はぁ……今日もお仕事、ね」

 ため息をついてがっかりすると、コレットが一層申し訳なさそうな顔になった。自分が叱られているかのような顔だ。コレットが叱られてうなだれているところなんて、見たことがないけれど。

 パリに来てわかったことは、いかにジャックが忙しいか、だった。

 彼の故郷・バルスロネットにいたころは、もっと暇そうだった。彼がわたしの相手をしてくれていたからそう感じたのか、それとも単に仕事が少なかったのか。どちらにせよ、パリに戻ったジャックはと――――っても忙しそうだ。

 目覚めた時には、既にジャックの姿は屋敷にない。昼食はもちろん別々。夕食はたまに一緒になるくらい。でもそれも無理をして時間を作ってくれているみたい。一緒に食べるたび、夕食をとる暇さえ惜しい、という焦りを感じるのだ。

 寂しくない、というのはもちろん嘘だ。ジャックともっと一緒にいられると思っていたのに、これじゃああんまりだ。

「まったく、ジャックがこんな人だなんて思わなかったわ!」

 憤慨するわたしの気持ちもわかってほしい。

「そうおっしゃらずに」

「わかってるわよ……」

 ジャックは仕事だ。手伝えるなら手伝いたいが、わたしにできないことは理解している。

「あぁ、いつになったらジャックと一緒に過ごせるの……」

 ちくちくと刺繍をしながら、コレットに愚痴を垂れる。彼女は穏やかに微笑んで、

「今の言葉、旦那様に聞かせて差し上げあげたいです」

 わたしにどれだけ恥ずかしい思いをさせる気?

「告げ口禁止よ」

 かん口令を敷くと、コレットはからかうような目でわたしを流し見た。

 いいわよね、コレットは。他人事で。

 ふんっとそっぽを向いたとき、窓の向こうに広がるパリの街並みが目に入る。一歩出れば暑いんだろうなあと簡単に想像できる、熱の季節。空は青く、白く大きい雲がたくさん浮かんでいる。でもそんなのを見たって気は晴れない。

 どうせなら、空も緑色になったりしないかしら。

 ジャックの目を思い出す。いつだってわたしをじっと見つめる、心の奥まで見透かしているような、あのきらめく両の宝石。

 彼の目を思い出しただけで、彼に見入られた喜びと会えない切なさで胸が締め付けられた。

 ああジャック、会いたいわ……。どうして同じ家に住んでいるのに、会えないのかしら。これでもわたしたち、結婚する間柄なのよ?

 結婚式の日程はまだ決まっていなかったが、それは決定事項だ。

 はっとする。

 もしかしてわたし、なにか思い違いをしていた?

 結婚? 男と女が一対一だと思っていたけど、もしかして人間の世界って違うのかしら。例えば、男一人に女数人、とか。

 ジャックはわたしと結婚するけど、他の女とも結婚できる、とか。

「ま……まさかね」

 ありえない想像に顔を引きつらせ、コレットに首をかしげられた。

 人間は無知で愚かな生き物だけど、そんな不道徳な生き物だってことは、ないわよね?

 ちなみに妖精は、結婚した二人は死ぬまで想い合い、添い遂げる。

 それが普通だと思っていたけど……元妖精のわたしは「普通」とは言えないだろう。

「ねえ、コレット……」

 でもでも、聞かずにはいられなかった。

「はい。なんですか?」

「その……ジャックに他の女の人がいるなんてこと、ないわよね?」

 顔をうつむかせながら聞くと、コレットはぽかんとしていた。まさか、聞こえなかったとか? こんなことをもう一度言わなくちゃいけないなんて、やめてほしい。

 わたしの想像ははずれだったようで、コレットが小さく噴き出して言った。

「愛人ということですか? まさか、ありえません。ご主人様は奥様一筋ですよ」

「そ、そうよね」

 とコレットは言ってるけど、コレットはジャックの召使なんだから、ジャックに命令されたら従うに決まっている。

 つまり、コレットは必ずしも本当のことを言っているわけではない。

 わたしだって、だてに人間として生きてきたわけじゃない。人間がどんな姑息な手段を使うのか、人間にされたばかりでフラフラだったあの頃ならいざ知らず、今のわたしには何もかもお見通しなのだ。

 そう、おかしいのだ。

 本当に好きなら、無理してでも、もっとわたしに会えるんじゃない? 仕事仕事って、あまりに仕事が多すぎる。

 ジャックは、わたしに隠し事をしているのかもしれない。


「ねぇオルトゥス! どう思う?」

『どう思う、って聞かれても……』

 ああもう、こいつも役に立たない!

 わたしのコレット以外の相談相手はオルトゥスだった。

 パリに着き、色々あってジャックの屋敷に居を構えて二日目、よれよれ姿のオルトゥスが訪れてきたのだった。

 わたしの様子を見るため? そう思うと気が引けたけど、彼はパリ観光を大いに楽しんでいるようだった。多分、わたしに引っ付いてこの国じゅうの美しいものが集まる街を冒険するのに、いい機会だと思ったのだろう。

『あの人間がそんなことするわけないよ』

「ちょっとは疑いなさいよ!」

 オルトゥスも完全にジャックの味方だった。またもやわたしは怒ったけれど、妖精の彼に「疑え」だなんて、無理があるのはわかっていた。

 誰か、わたしの不安に共感してくれる人はいないのかしら……。

 妖精と人間、どっちつかずの存在で、心が弱くなっていた時、ジャックが肯定してくれたのだ。彼はわたしの正体を知っていると言った。それでもわたしを受け入れてくれる、わたしを好きだと。

 あの時、わたしは救われた。

 ここにいていいんだって思えて、それだけで涙が出た。

 なのに今度は、どうだ。

 彼が原因で、こんな思いになるなんて……。

 誰もわかってくれないし、これじゃ前に逆戻りだ。

「もう、どうすればいいのよっ!」

『そうだ!』

 頭をかかえたわたしに、オルトゥスが名案だと宙を踊った。

「なに?」

 彼の言うことなんて、期待していなかった。けど、その言葉を聞いたわたしは目を輝かせた。

「なるほど、確かにそうね! オルトゥス、たまにはいいところあるじゃない!」

 えへへ、と彼が照れていた。

 彼のアイディアを受け、日々のうっぷんや不安を解消する方法を思いつく。

 そして同時に、かつてのいたずら心を取り戻していた。


 屋敷を抜け出すのは簡単だった。たぶん、オルトゥスの鱗粉が目くらましの作用をしたのだろう。たぶんね。

 部屋にあった一番質素なドレスに着替えたわたしは、初めてパリを歩いた。屋敷からは滅多に出ないし、移動の時は馬車だから。何もかも数多のメイドがやってくれるので、外に出る機会なんてなかったのだ。

 熱の季節は日が長い。外は時間の割に薄ぼんやりと明るかった。

 メイドたちも、まさかわたしが屋敷を抜け出すなんて考えてもいないだろう。追手の心配はなかった。

 ただ、屋敷からあまり離れすぎると迷子になるので、最初に見つけた、周囲の静けさとはうって変わってにぎやかな酒場に入ることにした。

 わたしがしり込みしながら酒場に足を踏み入れると、喧噪に溢れていたその場がしんと静まり返った。

 何か……まずかったかしら。

 後ずさりしかけた自分を鼓舞する。

 屋敷を抜け出してまでここまで来たんだから、当初の目的を忘れてはいけない。

「あの、お隣、いいかしら?」

 入口に一番近いところで座っていた二人組に、おずおずと切り出す。おっかない調子で彼らはテーブルを片付けた。

「どうぞ、どうぞ」

 机は皿とコップでいっぱいだったが、彼らがよけてくれたおかげでわたしの前だけ綺麗だった。

「ありがとう」

「どういたしまして。……で、お嬢さん」

 まだ若い。といっても、わたしよりは年上だが。ジャックとは正反対の男。見るからに丈夫で、粗野な印象を受ける。でも、こういう人たちはバルスロネットにもいたから、まだ平気だ。

 そんな彼らが二人して顔を見合わせ、ためらうように口を開く。

「聞きたいことがあって」

「聞きたいことぉ?」

 眉を引き上げて繰り返した男にわたしは肩をこわばらせる。それを見たもう一人が、たしなめた。

「まあまあ、聞いてみようぜ。すまねぇな、こいつも悪気があるわけじゃねぇんだ」

「え、ええ。そうね」

 わたしを怖がらせた男は、ひげを蓄えたいかつい男だった。たしなめたもう一人は、ひげの彼よりは穏やかな気性のようだ。体も一回り小さく、こっちのほうが話しやすそうだ。

「難しいことを聞きたいんじゃないの。ただ、人間の――この街の人の意見が聞きたくて。わたしの周りには彼の味方しかいなくて――」

「なんの話してるかわからねぇぞ!」

 ひげが吠えた。

 びくっと肩を震わせ、わたしは縮こまった。

 このテーブルを選んだのは間違いだったかも……。

 ううん、これくらいじゃめげない。

 見れば、ひげの男の顔はほんのりと赤かった。ここが酒場だということを思い出す。酔っ払っているのだ。気が大きくなっているだけだろう。

 心を落ち着かせるために呼吸に集中していると、話しやすいほうの男が間を取り持ってくれた。

「ゴルドンも落ち着けって。お嬢さんが怖がってるだろ。

 俺はオネ。こっちはゴルドン。お嬢さんの名前は?」

「リオーナよ」

「そうかリオーナ、せっかく会った縁だ、話くらいいくらでも聞いてやるぜ」

 オネの言葉に、わたしはほっと胸をなでおろした。オネは酔っていないようで、顔色も口調もしっかりしていた。

「親父、リオーナにフェルマンシトレーゼ、薄くて甘いやつ――色々と話したいことがあるんだろう? 酒の力を借りたほうが早いぞ」

 オネがにやりと笑い、そこで今頼まれたのはお酒だったのか、と理解した。

「うん……」

「俺が聞いてやるよ。聞いたところ、恋の話だろう?」

「おいオネ、抜け駆けするなよ!」

「怖がらせることしかできねぇ奴がなに言ってんだ」

 小突き合う二人を前にして、わたしは顔を曇らせていた。

「おいおい、話すんじゃなかったのかよ」とはゴルドンの言葉だ。

 意を決して、わたしは口を開いた。

「あのね、ジャック――夫が」

「結婚してんのかよ……」

「はは、残念だったな、オネ」

 二人の声は大きいので、わたしの声はかき消されてしまいそうだった。

「夫が浮気をしているのかもしれないの!」

 声を張り上げた。

 酒場が一瞬、静まり返った。

 さ、叫びすぎたわ……。

「お、おう、そりゃ大変だな」

 ゴルドンがおっかなびっくり、わたしにお酒の入ったコップを渡してくれた。

「でも誰に聞いても、彼はそんなことする人じゃないって言うの。でも全員彼の味方なのよ? 嘘をついているかもしれないわ! それに仕事仕事仕事、そればーっかりで、一緒に住んでるのに全然会えないの!」

「かわいそうに」

「だからね、聞きたいの。男の人って浮気する? 人間って、夫一人に対して妻一人じゃないの? わたしが知らないだけで、夫一人対妻三人とかいう世界なの!?」

 コップに口をつけると、爽やかな柑橘のフレーバー。ちょっと苦くて、喉を焼くような感触もあるけれど、氷の代わりに入れられた大量の砂糖が緩和してくれて、意外と飲める。

「いやまあ、そう国もあるらしいが……」

「そうなの!?」

 ゴルドンの言葉に、わたしは勢いよく立ち上がった。

「リオーナ、落ち着けって」

 いさめるのはオネの役目だ。

「フーランシェ王国はそれを認めていない、大丈夫だ」

「そ、そうなの……」

 ほうっと息をついて、わたしは力なく椅子に座りなおした。

「って、でも! 他の人と結婚はできなくても浮気してる可能性はなくならないわよね!?」

 また立ち上がる。血と一緒にお酒が回る。

「思ってたよりうるせぇ嬢ちゃんだなあ」

 ガハハ、とゴルドンが笑った。酒場いっぱいに彼の笑い声が響いた。

「笑いごとじゃないの! わたしにとっては大事なことなのー!」

「まあまあ、落ち着いて」

 しょんぼりとうなだれたわたしは、再び椅子に座る。

「だって……」

 涙目のわたしに、ゴルドンとオネではない声が喋り、いや、怒鳴りかけた。

「その気持ち、わかるぞーっ!!」

 うんざりとした顔で、ゴルドンとオネが目くばせしあった。

「ワシも昔は女房に浮気をされちまってなあ……」

「そうなの?」

 三つほど向こうのテーブルで酒を飲んでいる白髪のおじさんに返事を返す。離れているので、必然的に声が大きくなった。

「本当だとも! あの時のショックは忘れられん……」

 うっうっと腕で手を覆い、泣く真似をするおじさんを気の毒に思う。

「それで、どうしたの?」

「わしも浮気し返してやったわい!」

「ええ!」

 どんな話!?

 オネとゴルドンが最初に話していたのは俺たちだと口をはさむ。

「おっさん、その話は……」

「おかげで!」

 おじさんは彼らの声を無視して続ける。

「今の女房に出会えた! 前の女よりずっとできた奴で、今では前の女房が浮気してくれて感謝すらしておる!」

 ガーン、とわたしはショックを受ける。

 だって、それって、前の奥さんとは別れたってことでしょう?

「そんなのだめーっ! わたしはジャック一筋だし、ジャックの次の奥さんのことなんて考えたくない!!」

 わたしが目をつぶって絶叫すると、みんなの視線がおじさんに突き刺さった。そこに込められているのは、非難。

 おじさんが慌てて弁解を始めた。

「い、いや、違ったな。そいつとはうまくいかなくて、結局前の女房にだな……」

「嘘つき! さっき、前の奥さんが浮気してくれて感謝してるって言ったじゃない!」

 やっぱり人間って嘘つき! ひどいわ……。

「おっさんの話聞くために来たんじゃないだろ。ほら、普段は言えないことも言えって」

 これ、とオネが新しいコップを渡してくれた。

 ぐずりながらありがとうと言うと、わたしの肩に手を回した。

 馴れ馴れしいわね。まあ、酒場だしこういうコミュニケーションなのかも。


 そして、冒頭に戻る。

「――でね、ジャックが……」

「もうやめておけって」

「止められるほども飲んでないわよ!」

 いまやわたしのジャック浮気問題は酒場全体を巻き込んでいた。

 心優しい彼らは一同に首をひねる。

「話を聞いてる限り、そのジャックって旦那さんは随分ほれ込んでるみたいだなあ」

「悪党を倒して助けに来てくれるなんて、どこの王子様だよ!」

 お酒のせいか、わたしはジャックとのあれこれすべてを彼らにぶちまけていた。最近ため込んでいた不満から始まったのに、いつしか、どうやってジャックを好きになっていったのか、という話題になり、洗いざらい話してしまった。

「あんまり飲みすぎると帰れなくなるぞ」

 誰かが心配してくれたけど、

「今日は帰らないわ!」

 高らかに宣言すると、酒場全体が盛り上がった。

 店主であるおじさんだけが、困ったような顔をしていた。

「おいおい、それじゃリオーナが浮気したと疑われちまうぞ?」

「それは……」

 それでもいいわ! と言いたい気分だったが、無実の罪をかぶるのは嬉しくない。

「うーん。じゃあ、そろそろ帰ろうかしら……」

 立とうとすると、ぐらっと体がかしいだ。足元がふらふらするし、目を開けているのがしんどいし、なんだか暑いし息切れがする。

「大丈夫か」

 男たちが色めき立つ。

「親父、水!」

「とりあえず座りな」

「お嬢ちゃん、送っていくよ。住所は?」

 次々に質問されたが、思考が追い付かない。住所? 家?

「すぐ近くよ……」

 気分が悪くて机に突っ伏す。

「すぐ近く」としか情報を得られなかった男たちは、困ったように顔を見合わせていた。

 カラン、と音がした。

 誰かが入店したのだ。

 店主がこんな時に――と嫌そうな顔をしながら、

「いらっしゃい」

 そして新しく加わった「仲間」が声を発した。

「すまない、そこの彼女を離してくれないかな」

 凛とした声は、酒場には場違いに涼やかに響いた。なんだなんだと酔っ払った男たちが、新しい客の姿を目にして言葉を失った。

「あら、ジャック!」

 そこには見覚えのあるわたしの大好きなジャックがいた。いつもと同じ、格好いい。あら、でも、髪が乱れている。少しやつれている様子だった。

 わたしはさっきまで彼の愚痴を言っていたことを忘れて、彼に会えた嬉しさでいっぱいになった。抱きつきに行きたかったが、気分の悪さが勝った。

「そこの君、妻から手を離してくれないかな」

「ほあっ!? は、はい」

 わたしの肩に手を回していたオネが手を離した。代わりにジャックが近づいてきて、土がついていたかのように払った。

「全くリオーナ、心配をかけさせて……」

「ジャックが悪いのよ!」

 思わず叫び返すと、自分がなんのために屋敷を抜け出したのかを思い出した。

「もしかして……怒ってる?」

 ジャックのいないところでさんざんこき下ろしてしまったし、怒られても仕方がない。どころか、夜に酒場で一人、これでは本当に浮気していたと疑われる側になってしまった。

 そろそろとジャックの表情をうかがうと、いかにも機嫌が悪いですという顔をしていた。

「う……ごめんなさい」

「いや、いいんだ」

 うなだれていると、わたしを慰めるように頭を撫でてくれた。

 ぱっとジャックの顔を見ると、やれやれと許してくれた様子だった。

「悪かったよ、リオーナ。明日からは仕事も減らすよ。結婚式に向けて、できるだけ仕事を終わらせようと思って無理をしていたのは事実なんだ。君の気持ちを考えていなかった。ごめんよ、リオーナ……」

 そう言って耳元に顔を寄せるものだから、安堵やら気持ちよさやらでいっぱいになってしまう。

「わたしもごめんなさい……あなたのこと疑ったりなんてして……」

「オルトゥスに聞いたよ。浮気なんてするわけないじゃないか。ほら、これでも信じられないかい?」

 そう言って彼が頬にキスをした。

「ほっぺたじゃイヤ」

「まったく、うちのお姫様はわがままだなあ」

「ふふ」

 ジャックがわたしの唇にキスしようとした時、ごほんと店主の咳払いが聞こえた。

 酔いが引いていき、わたしは目をぱちくりとさせた。

 そうだ、ここ、酒場だった。

 って、あれ? ジャック、どうしてここに?

 ジャックが愛しさを込めてわたしの頬を撫でて、ぐるりと店内を見回した。

「お代は出すよ――で、彼女にここまで飲ませたのは誰かね?」

 にっこりと笑った彼が、わたしと同じテーブルにいるゴルドンとオネをとらえた。

「君たちかな?」

 二人はぶんぶんと首を振ったが、ジャックは納得していない様子だった。

「次、彼女に手を出そうとしたら――」

 ゴルドンとオネ、特にオネが背を伸ばした。

「ハイ! わかってます!」

「ならいいんだ。リオーナ、立てるかい?」

 わたしはゆっくりと椅子から立ち上がった。さっきよりはマシそうだった。

 わたしが歩けることを確認したジャックが、いま一度店内にいる男たちに微笑んだ。

「騒がせたね」

 紙幣を何枚か置いて、わたしの肩を抱きながらジャックが外へ出た。夜風が気持ちいい。

 外はすっかり暗くなっていた。いつのまにこんなに暗くなっていたのだろう。熱の季節に、この暗さ――時間で言えばもう深夜だった。ジャックが迎えに来るのも当然だ。

「勝手に屋敷を出るんじゃない」

「だってぇ」

 ぷくぅと膨れると、ジャックは一瞬で陥落した。

「ネイサンとオルトゥスがいなければ、どうなっていたことか……」

 気苦労が多いようだった。ジャックが額に手を当て、わざとらしくため息をつく。

「馬車で来たんだが……」

 まだ気分がよくないわたしは、急いで首を振った。こんな状態で馬車に揺られたら吐いてしまう。

「先に帰ってもらおう。幸い、歩いて帰れない距離ではないしね」

 ジャックがわたしの手を取った。

「私がどれだけ君のことを愛しているのか、みっちり教えてあげよう」

「ふふっ、やだ、ジャックったら」

 ジャックの黒髪が月光に濡れていた。

 唯一無二の宝石がわたしを見つめる。

 わたしは彼に、そして彼はきっと、わたしに引かれ、わたしたちは月の下で唇を重ねたのだった。




「ウワォ! キスしてるぜ!」

「熱いッ!」

 酒場から出た二人の様子を見ていた男たちが、ヒューヒューと口笛を上げた。先ほどの重い空気はどこへやら、酒場はすっかり歓声に満ちていた。

「貴族様のおごりだぞー!」

「イェーイ!」

 ジャックが置いて行った紙幣を手に取り、男たちが歓声を上げた。

 その中で一人、いましがたの衝撃にあてられて立ち直れない者がいた。ジャックににらまれたオネである。

「気ぃ取り直して飲もうぜ!」

「おう……」

 ゴルドンに声をかけられても、返事に覇気がない。

「だから俺は手を出すなって言っただろうがよ」

 はて、言ったか。多分、そんなことは一言も言っていなかったが、ゴルドンは俺が正しかったと胸を張って、ジャックの金で酒を浴びていた。

「見るからにいいところのお嬢ちゃんだったろ」

「だからって、まさか本当に貴族だったなんて……」

 がっくり。オネは立ち直れなさそうだった。

 ジャックは名乗らなかったが、平民とは一線を画した身なり、顔や体つき以外からにじむ威厳で、一目で貴族だとわかった。だからこそ、ジャックが入ってきたとき、酒場は静まり返ったのだった。

「口調は丁寧だったが、怒ってたなあ」

 誰かがつぶやいた。

「愛されてんなあ」

「あの様子じゃ、マジで浮気なんてねぇよな」

「オネもあのボディタッチはマズいわ」

「そりゃあにらまれるわな!」

 ジャックの敵意を受けなかった者たちは気楽なもので、好き好きに話の話題にして笑っていた。

「残念だったな、オネ」

 ゴルドンが、がしっと彼の肩に腕を回した。

「上玉はそんな簡単につかまんねぇな」

「ああ……」


 ジャックとリオーナは誤解も解け、肩を寄せあって屋敷へと帰っていく。

 一方、酒場は静けさを知らないまま、夜は更けていった。



ご愛読ありがとうございました。


ひとまず、これでリオーナの恋物語はおしまいです。

彼女の波乱万丈な人間人生はまだ続くので、また文字に起こすかもしれません。


ブックマーク、評価してくださった方々、本当に励ましになりました。

重ねてお礼申し上げます。

ありがとうございました。

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