リヘルトの矛盾
リヘルトはそうしたからといって、初めからそのつもりだったわけではない。
リヘルトがリズに従う理由、それはいくつも有る。初めの出会い、あのときリヘルトはリズから圧倒的な引力を感じた。惹きつけられた。
リヘルトは人間のことなど正直どうでもいいし、全滅しようが関係のないことだ。元の大陸で王族と遇せられていたときも、周りの吸血鬼は血統的には遙かな下に蠢いていた。
三人、たったそれだけが、リヘルトに意見できるものだった。その中の一人だって、リヘルトに服従していた。
罪びととして大陸を追放されたのは、屈辱で明らかな誤算だった。そうするしか他なかった宮廷人を思えば、自然と見下す気持ちも起こるが。
奴隷、リヘルトは奴隷などと言う存在の定義が分からなかった。そうしてそれになったときも、心情的な落差はそれほど感じなかった、最初は。
鬱屈、倦怠。巻き起こるすれ違っていく感情。いくら自分の正当な権利――人間を踏みつぶし、支配する――というものをもっていたとして、それに重きをおけない。
何故なら奴隷だから。
――リズ様。
リヘルトは名まえを呼ぶ。
自分が主人に抱いている感情が分からない。尊敬、畏怖、恐怖。そしてリヘルトは主人を欲求している。主人の何が欲しいのか。
主人と離れると、乾くのだ何かが。そばにいて、命令されれば、安心し、心がもっと下、完全な奴隷に一歩ずつ近づいていることを自覚する。
想われたい。想ってほしい。そしてずっと傍にいたい。
『守ってほしい』
「リヘルトくん」
アリスに手を引かれ、笑いかけられる。
リヘルトは色々な露店を見歩きながら、ずっと主人の意図を模索していた。
何故、こんな命令をするのだろう。
頬に冷たい手が触れた。顔を上げると、サラサラとした銀の髪が顔にかかる。
「不安なの、心配なの?」
静かな瞳。手はリヘルトの頬の下を摘み、上にあげる。
「笑って」
そのまま続ける。
「孤児院で、あの人といた方が良かった?」
賑やかな露店街の中央、人通りを邪魔するそれに怒声が飛んでも仕方なかっただろうが、誰も何も言わない。
リヘルトは外見を隠していたが、アリスはそのままの姿をさらしていた。
そしてその美しく、慈愛に満ちた姿は何か触れてはいけないもののようだったのだ。
そしてリヘルトも何か、感じる。
どこか、憧憬に似ている。見下す存在のはずが、少しの冷静さを通して見れば、ふっと感じ入るような性質を持っている。
リヘルトは首を振った。
最近、自分は疑問を感じることが多い。
この孤児院に来る前、リヘルトは決定的な思索をした。
自分は元の大陸に戻りたいか、と。自問したのだ。
しかし何もなかった。恐ろしく故郷のことはどうでもよくなっていた。
そして自分自身のことも。元々の身分に釣り合った扱いをされない、そんなことどうでもいい。
逆に、主人に不当な扱いをされれば――そう仮定して悟った。
自分は怒り狂う。その人間を主人が了承してくれれば、拷問にかけて殺す。
許せない、想像するだけで屈辱を感じる。
「また」
アリスは寂しげにつぶやく。
リヘルトは何か言おうとして、口を閉じる。
「ねえリヘルトくん。ちょっと着いてきてくれないかな」
そんなリヘルトを見て、アリスは彼の手を引いた。
「あのね、今日私たちがこの都市に来たのは、お祭りがあるからだって知ってる?」
そうして、アリスが連れてきたのは街の広場。
さまざまな種類の格好の人間が騒がしく犇めき合っている。
見たことのない恰好。大きな一枚の布を身体に巻いただけのような衣装や、髪に巻かれたリボン。
そうして何人かの武芸者。剣を担いだ人間が闊歩している。
広場の石畳の上にはまばらにランプが置かれ、銀色のランプの中央には白に赤の線が走った蝋燭が鎮座している。
「あれは夜になると、火が付くんだよ」
院長の計画では、リヘルトたちが帰るのは明日になる。何とか夜のお祭りの情景を子供たちに見せたいという、シーの希望だった。
一晩は街から離れた宿で泊まる予定だった。
「あの服は、隣の国の民族衣装」
リヘルトは頷いた。
知らなかった、だからといってどうということもない。
「ねぇ、リヘルトくん。こういうことに、興味ない?」
「ないな」
そう返事をすれば、アリスは口をゆっくり震わせた。
「ねえ、私ね。間違っていると思う。周りに興味がないのはなんで? 全然価値を認めていないのは?
それってね見てないからなの。興味がないから見ていないのではないの。見ていないから興味がない。リヘルトくんはそういう状態だと思う。
集団で見れば、同じように見えることもあるとおもう。だけどね、やっぱり一人ひとり完全に孤立している人格なの。リヘルトくん、貴方は見ることを拒否していると思う」
ひゅうひゅうとした風が胸に吹き付けるような気分だった。何か冷たいものに脅かされるような。
リヘルトは軽く眉を寄せた。
くだらない。くだらないだろう、この世界は。
この大陸に住む人間がそれだけ尊い人格を持っていようが、いまいが自分はそれを蹂躙できる。
リヘルトは自分が無意識に下を向いていたことに気づき、顔を上げる。
そして、薄い青の瞳と対した。
美しい。
違う。あの黒の瞳の方が。
リヘルトは自分の思考を振り払おうとする。
この女が言っていることは正しい。
違う。あの人に従ってさえいれば。
リヘルトは今の状態から逃避した。
そしていつも通り、思考は簡略化し、主人の元へ帰りたい、帰ろう、そう思った。
精いっぱい媚びればいい。
命令違反、だ。だけど自分はリズ様と離れられない、それを説明すればいい。
そしてリヘルトは、アリスに一瞥さえもくれずに、逃げるように孤児院に戻った。
クライは、何度か言いかけて、
「何故、ここに」
と問うた。目の前のリヘルトは多少疲れている様子だった。
戻るのが早すぎる。どこか行き道で戻ってきたのだろうか。
「街へは?」
「行ったさ」
返答は簡潔だった。クライは吸血鬼の魔術能力をいくつか思い出し、その中の一つでも使ったのかと推測した。
黙って窓からリヘルトは主人の様子を見つめ、それから別の人物に気づいた。
「あれは?」
子爵に怪訝そうな視線を向ける。
クライはどう説明しようか整理してから、
「この孤児院の出資者で少女趣味の方ですよ」
と言う。黙って考えていたリヘルトは今度の街への見物の趣旨に気づいたのか、小さく嘆息した。
「どうして、リズ様が相手を?」
クライは自分の不手際を晒すのを躊躇したが、正直に「私の手落ちです」と言った。
または、リズ様の計画の内ということか。
どこで操っていたというのだろう。偶然? 馬鹿な。
偶然だとして、あの子爵との対話の盛り上がりようはどうだというのだ。
客観的に見る主人の姿は紛れもなく毒婦のそれだ。
子爵の方は純粋に楽しげに話しているが、主人の微動だにしない背は心情を表しているようだ。
まさに取るに足らないそれ。
今度は子爵が黙る。主人が何かしゃべっているのだ。
その時だった。子爵は恭しく、その化粧されたばかげた顔を羞恥に染め、主人の手を取った。
クライが眉をしかめたとき、赤い唇が主人の手に押し当てられた。
主人は微動だにしない。しかし子爵の顔は赤く、お道化たように言葉を紡いでいる。主人は笑わない。後姿でも、あの醒めた黒い瞳が想像できるようだった。
そしてクライは主人が今回のことを作為したことを――理解した。
これは前回の答えだ。
クライの、医者との関係に対する敵意を、完全に見当違いだと、そう示されているのだ。
少し待っていなさい。言葉を思い出し、笑い出しそうになる。どこから計画されていたのか分からない。
主人が示しているのはただ一つ。
『その他大勢が主人をどう見ようが、主人には関係ないのだ。』ということだ。
女としてみようが、主としてみようが。どちらでも構わない。
どうであろうが、その存在をどうとでもできるのだ。
クライは脳みそが熔ける。身体が熱くなる。
完全にクライは陶酔していた。
しかしすぐに、クライはリヘルトの様子をうかがい見た。
そしてリヘルトの表情に目を見開いた。
無表情だ。そして、微小の恐れと得体のしれないモノへの畏怖。
彼は、リズ様を客観的に見つめのだ。しかも、ほとんど初めて。
どういう感情を抱くのか、そう観察しても、内心は読み取れなかった。
もう一度、窓に視線を向け、様子を窺うと、子爵はちょうど帰るところだった。
主人がそれを見送り、そして窓の方を見つめた。
そして、リヘルトを見て主人が目を見開いた。
ああ、これは計算外だったのだ。
クライは悟り、自分の主と後ろの少年の関係の破壊を予見した。
そしてその未来にわずかに含み笑った。




