第2話 ステータスという呪い
リラヤが泣きやむまで、健司は何もしなかった。
できなかった、と言うほうが正しい。何を言えばいいのか、わからなかった。彼女が泣いているのは悲しみのためではない――三ヶ月ぶりに自分の名前を口にできた、その喜びのためだった。そんな涙のかけ方を、健司は知らなかった。
しばらくして、リラヤは袖で目元を拭った。動作は乱暴だった。聖職者の優雅さなどそこにはなく、ただ仕事に戻ろうとする女の手つきがあった。
「ごめんなさい」と彼女は言った。「みっともないところを」
「いや」
「立てる?」
健司はうなずいた。立ち上がるとき、若返った身体が思ったより素直に動いて、それが少し怖かった。膝が痛まない。腰がきしまない。三十年近く付き合ってきた身体の癖が、ぜんぶ消えていた。
リラヤは草の上から木札を拾い、健司に手渡した。
「これは、あなたのものよ」
「これは――何だ?」
「《登録札》。アレニアに生まれた者は全員、神殿で授かるの。名前と、職分と、保有語彙が刻まれる」彼女は自分の懐から、自分の札を取り出して見せた。「ほら、私の」
健司はそれを覗き込んだ。
『 リラヤ・エン・ヴァス
神官
保有語彙:六八二
奉ずる神:―――― 』
最後の一行は、空欄だった。いや、空欄ではない。文字があったはずの場所が、白く削れていた。インクが乾いて落ちたのではなく、もっと、何か、根本から消されたような跡。
「あなたの神さまの名前は」と健司は静かに訊いた。
「壊れたの」リラヤは札を懐に戻した。「三ヶ月前に」
◇ ◇ ◇
道はあった。野原を抜けると、踏み固められた土の道が西へ伸びていた。リラヤが先に立ち、健司は半歩遅れて続いた。
「説明させて」と彼女は歩きながら言った。「あなたがこの世界に来た理由を、ぜんぶは知らないけれど、知っていることだけ」
「頼む」
「五十年前。ある日、ひとつの言葉が壊れた」
「ひとつの言葉が、壊れる」
健司は復唱した。日本語にして口の中で転がしてみたが、まだ意味の輪郭がつかめなかった。
「最初に壊れたのが何だったのか、誰も覚えていない。覚えていないのよ、その言葉そのものが消えてしまったから。それが、《言葉の崩壊》の最初の犠牲者。皮肉でしょう」
リラヤの声は淡々としていた。何度も人に語って、感情がすり減った話し方だった。
「次に壊れたのは『青』。今、空を見上げて、その色を呼べる人は誰もいない。みんな『あの色』とか『上の色』とか言って誤魔化す」
健司は空を見た。確かに、見上げたとき、その色を表す言葉が口の中に来なかった。覚えていないのではない――最初から、知らないのと同じ感触。
「それから、『春』。だから今は、暖かくなる季節を、人によって違う名前で呼ぶ」
「人によって、違う」
「私の村では『芽の月』。リラヤの隣村では『緑が戻るとき』。同じものを指していても、もう共通の名前を持たない。少しずつ、私たちは、お互いを理解できなくなっている」
彼女は立ち止まり、健司を振り返った。
「そして今、神々の名前が壊れはじめている」
◇ ◇ ◇
道端の小さな祠で、リラヤは膝をついた。
祠は石を積んだだけのものだった。中に像はなく、ただ古い木札が一枚、置かれていた。札の上の文字は、もう半分以上が白く削れていた。
「ここに祀られていた神の名は」と彼女は囁いた。「私が幼いころ、まだ読めた。母が教えてくれたから。今は、もう、思い出せない」
彼女は自分の登録札を、その祠の札の隣に置いた。二枚の札が並ぶと、リラヤの札の角に、細いひびが走っているのが見えた。
「私の神の名が壊れたとき、私の札にもひびが入った」リラヤは指でそのひびに触れた。「これは、契約だから。札は、ただの自己紹介じゃない。神々と私たちの、契約書なの」
健司はそれを聞いて、ようやく理解した。
この札が割れるということは――ただ身分証を失うことではない。神との契約が破れるということ。そして契約が破れた者は、たぶん、もうこの世界の住人ではなくなる。
「契約が完全に切れたら、どうなる」
「消える」リラヤは穏やかに言った。「身体ではなく、存在が。誰の記憶からも、世界の記録からも」
「君は」
「半年、もつかしら」
◇ ◇ ◇
歩きはじめると、健司はふと、礼を言おうとした。
「ありがと――」
言葉が、途中で止まった。
次に続くはずの音が、口の中になかった。覚えていないのではない。そもそも、そんな音が自分の中にあったという感覚が、もう、ない。
リラヤが横で立ち止まり、健司を見た。
「『ありがとう』」と彼女は静かに言った。「その単語ね。あなた、いま、それを失ったのね」
「俺は――」
「いいのよ。私が代わりに覚えておく」
リラヤは前を向いて歩きだした。
健司は数歩遅れて、それから自分の札を見た。
『 保有語彙:一四八二二』
数字は変わっていなかった。あの瞬間、彼女の名前を翻訳したときに、もう失っていたのだ。そして今ようやく、その失った場所に、足が落ちた。
ありがとう。
二十八年間、ほぼ毎日使ってきた言葉。母にも、店員にも、編集者にも。
もう、使えない。
◇ ◇ ◇
丘を越えると、街が見えた。
白い壁、いくつもの塔、灰色の屋根。城門に向かう街道には、馬車も、徒歩の人々もいた。だが、奇妙だった。
誰も話していなかった。
いや、正確には――半分は黙っていた。残りの半分は、ささやくように、ひとことずつ、慎重に、口に出していた。子供が初めて文章を読むときのように。
「ヴェルバス王国」とリラヤが言った。「世界で最後の、《人がまだ喋る街》。ここに、大辞書がある」
健司は街を見下ろした。
城門の上で、旗が風に揺れていた。旗の紋章は、ひとつの文字だった。
その文字を、健司は読めた。
『 言 』
彼が新しい単語を失った最初の朝、彼は世界で最後の言語を守る街へ、辿り着こうとしていた。
◇
【次回予告】
ヴェルバス城内、大辞書の塔。
語彙学者マルケン教授との、初対面。
そして健司は知る――この世界に呼ばれたのは、自分が最初ではないということを。
第3話「声を失った者たち」、近日更新。




