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最後の翻訳者 ~言葉が現実となる世界で、俺は語彙と引き換えに崩れゆく世界を綴り直す~  作者: Fikri


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第1話 最後のページ

火というのは美しい。立ち止まって眺めるくらい馬鹿ならば、の話だが。


 原健司は立ち止まり、そして眺めた。


 大学図書館の天井を、黒い煙が逆さまの海のように押し下げていた。燃え盛る書架のあいだを、炎の舌が一冊から次の一冊へと、奇妙に礼儀正しく這い渡っていく。客人がひとりひとりに会釈してから殺していくみたいに。


 逃げなくては。出口はまだ七歩うしろ。早足で七歩。


 だが、《クワル写本》はまだ三番書架にあった。


「お前は馬鹿だ、健司」


 自分に言い聞かせて、健司は炎のほうへ踵を返した。


 四百年だ。あの写本は四百年前のものだった。東南アジアに残された、ただ一冊の原本。八ヶ月かけて一頁ずつ翻訳し、大学からは九十万円を受け取った。四百年に見合う報酬など、この世にあるはずもなかった。


 三番書架。足元に炎。革張りの羊皮紙――乾いた、ひどく乾いた革――は、あと三十秒もすれば燃え落ちるだろう。健司はそれを引き抜き、上着の内側に滑り込ませた。


 その瞬間、背後の書架が崩れた。


 出口の方向ではなかった。健司の方向だった。


 背中から床に倒れ込み、燃え盛る八段の書架が脚の上に降ってきた。痛みは遅れてやってくる。人間の身体は大きすぎる傷に戸惑うものらしい。信号を送るのに少し時間がかかる。


 健司には、明晰なまま考えられる時間が四秒ほどあった。


 その四秒を、彼は写本を開くために使った。


 翻訳者の本能だったのかもしれない。死にかけは人を奇妙にする。あるいは、ただ愛したものの最後の一文を見たかっただけかもしれない。震える手のひらの上で、まだ訳していなかった最終頁が開いた。


 その文字――辞書なしでは読めるはずのない古代文字が――突然、意味として頭に流れ込んできた。


 《最後まで読んだ者よ。次の世界は、お前を黄昏たそがれと呼ぶ。》


 《言葉を持ってこい。あの世界には、足りていない。》


 原健司は笑った。短く、しわがれた、最後の笑いだった。


 それから痛みが来て、その先には、何もなかった。



           ◇  ◇  ◇



 最初に感じたのは、冷たさだった。


 エアコンの冷たさではない。露の冷たさ。濡れた草が頬に触れている。


 目を開けると、朝の空があった。色は――一瞬、戸惑った――青ではなかった。灰色でもない。その色を表す言葉を、健司は持っていなかった。


 彼は野原に横たわっていた。図書館も、炎も、写本もない。震える手で身体を確かめても、焼けてはいない。服が違う。灰色の上着、粗い茶色のズボン、革ひもで縛った履物。手すらも違って見えた。若い。たぶん二十代前半。爪のあいだが清潔だった。


 すぐ脇の草の上に、木の札が一枚、置かれていた。


 札に書かれた文字は、また、見覚えのない文字だった。だが、新聞を読むように読めた。


『 原・黄昏はら・たそがれ


  翻訳者ほんやくしゃ


  保有語彙:一四八二三


  備考:この者は、ここの者ではない。』


 もう一度読み直した。一万四千八百二十三。それは――自分が知っている三つの言語の、単語の総数だっただろうか。数えたことなどなかった。


「目が覚めたのね」


 健司は振り向いた。


 灰色の聖職者の衣を着た女性が、野原のへりに立っていた。衣の裾は旅で汚れていた。短い黒髪。疲れた目。左手に一枚の紙を、家族写真でも握るように、それでいて破ける寸前のように、持っていた。


「三日、待ったわ」彼女は言った。「この野原で。教授が言ったの。あなたは来るって」


「教授? ここはどこだ? 俺は――」


「質問の前に」


 彼女は健司を遮り、声が一度、震えた。


「ひとつだけ、お願い」


 紙を掲げた。色あせかけたインクで、たった一語が書かれていた。


「これを、読める?」


 健司は紙を見つめた。木札と同じ古代文字。本来なら読めるはずのない文字。けれど――かろうじて読めた。


「リラヤ」


 彼女は、膝から崩れ落ちた。


 敬意のためではなかった。泣いていたのだ。


「ありがとう」彼女は言った。それからもう一度、もっと強く。「ありがとう。それが、私の名前。私の名前で、私は――もう三ヶ月、それを口にできなかった。三ヶ月、口のきけない人みたいに、その紙を指差し続けてきた。それを、あなたは――」


 彼女は泣きながら笑った。


「あなたはただ、読んだのよ」


 健司は、もう存在しない写本がポケットにあるかのように、座り込んでいた。色の名前を持たない空の下、見知らぬ野原のなかで。


 胸のなかで――肺があるはずの場所で、何かが一度だけ、脈打った。冷たく、明るく、見慣れない感触。誰かが、自分の内側の壁から、ひとつだけ単語を削り取って、目の前の女に手渡したかのように。


 札を見た。


『 保有語彙:一四八二二』


 ひとつ。


 たった今、ひとつ、失った。失った単語が何なのかさえ、まだわからないというのに。


 リラヤはまだ泣いていた。生まれて初めて言葉を覚えた子供のように、自分の名前を繰り返していた。


 原・黄昏――翻訳者、野原の異邦人、《最後まで読んだ者》――は、濡れた草のあいだに座って、ひどく単純で、ひどく恐ろしいことに気がついた。


 この世界は、話し方を、忘れかけている。


 そして俺は、たぶんあらゆる人間のなかでただひとり、それを思い出させるためにここへ呼ばれた。


 単語、ひとつずつ。


 最後に自分自身のための言葉を失うまで。


 遠くで、神殿の鐘が鳴った。


 だがその音は、割れていた。誰かがもう、《鐘》という単語を、忘れかけているように。



           ◇



 【次回予告】


 異世界の住人すべてに与えられる「ステータス札」――その仕組みを、健司は理解しはじめる。

 そして気づく。札は、ただの自己紹介ではない。

 それは、神々がこの世界の住人を「登録」した契約書だったのだ。


 第2話「ステータスという呪い」、近日更新。

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