#371 封印術士ネリスの献身9
「見苦しい演技はもうやめて、タンハー。本物のリュートはね、私の漫画を一度だって手放しで褒めてくれたことはない。展開がご都合主義とか、男に夢見すぎとか、いつも言い争ってばかりだった。デーヴァプッタ・マーラ……修行中のブッダに敗れた悪魔よね? 失敗しただけあって、誘惑するのが下手ね」
屈辱に憤怒、端正な優斗の顔立ちが、本人ならば絶対に見せない激情に歪む。まだ白を切って幻惑を続けることもできただろうに、潔いのか、直情的なだけか。
「何故じゃ……これに惚れておるのじゃろう? うぬらの深層に触れ、いじらしい馴れ初めも見届けた。互いが世界に只一人の理解者。惚れた男を唯一認め、認められ……甘美なる二人だけの世界、それ以上の幸福はあるまい?」
タンハーの意思を宿した在りし日の優斗、その瞳が妖しく輝き、細い手を差し伸べてくる。……確かに、私に特殊性癖さえなければ、甘美なる誘惑だったに違いない。
「全然足りないわ」
「……何、じゃと?」
思わず、口許が緩んでしまった。高名な悪魔の誘惑の上手をいくなんて、痛快でしかない。
「〝快楽とは、苦痛を水で薄めたようなものである〟 ……私はね、リュートと手に手を取って愛を語らいたいんじゃない。お互い好きなものを、好きなことを好き放題言い合って、少しも遠慮せず喧嘩していたいの。痛いところを突かれて悔しそうな顔が好き、言い返そうとしながらも優しい言葉を探して苦しんでいるところをもっと見たい。そうして噛み合わないまま関係を深めていって、いつか決定的な弱みを握るの。そして、私なしじゃアイデンティティを保てなくなるまで追い込んで、ずっと抱きしめて頭を撫でていたいのよ」
……途中からずっと置いてけぼりで、何もかも理解できないという呆然とした表情を相手がしているのが、ただ愉快だった。
「……分からぬ。男に愛されることが女の悦びであろう? ただ愛らしくしておれば寵愛される、それが女の幸せではないか」
「あなた、悪魔という割にずいぶんピュアね? 私の方がずっと業が深いじゃない。自分をすべて肯定してくれて、何でも望みを叶えてくれる人と、ずっとぬるま湯の中みたいな暮らしで何を得られるの? 優しくて頼りがいがある理想の王子様相手に、何を妄想しろって言うの?」
「……分からぬ……お前にどう付け入ればよい? 妾が入り込もうとする心の隙の、ずっと先に、お前の欲望はある……」
「相手を間違えたみたいね? ……いいことを教えてあげる。悪魔の誘惑が効くのはね、欲望を叶えることに罪悪感を覚える人だけよ。私は、自分の欲望を叶えることが、悪いことだなんて思わない。隠して息を潜めるように生きていても割を食うだけだって、これまでさんざん学んできたもの」
立ち上がり、右手に力を込めれば、果たして封印の杖がそこに握られた。その魔力の源たる赤い石を突きつけながら、悔しげに歪む相手の顔が優斗のそれであることに、背筋が震えるような悦びを感じた。
「あなたたちがブッダを誘惑し、敗れてから幾千年……人間は、あなたたちが思っているよりずっと堕落したの。人の心を、学び直しなさい――」
赤い石の中心に、ブラックホールのような黒球が生じる。
ただの幻に過ぎなかった思い出の風景は、紙か布の上にでも描かれたものであるかのようにくしゃりと歪む。
「――〝封印〟」
「ぐ、あああぁぁ――っ!」
黒球がごくごくとうごめきながら拡大し、驚きと怖れの表情のまま固まった優斗の顔ごと、一枚絵の光景が渦巻きながら吸い込まれていく。
風景は元のアスタマルの街、それを見下ろす高台に戻った。
錆色の雨があちこちに水たまりを作り、地面を汚してはいるものの、雨そのものは止んでいた。
相応の魔力を消耗したためか、タンハーは元の姿でへたり込み、肩を大きく上下させながら苦しげに呼吸している。
それを見下ろす形で、私は封印の杖を持った腕を、魔導騎が変じた大きな機械腕に包まれている。
「ゆ、許してたもれ……。封印は厭じゃ……もはや、お前達の前には現れぬ。そうじゃ、望むならこの自在の九尾もくれてやろう。じゃから、封印ばかりは……――」
過去に封印されたトラウマでもあるのか、異常な恐怖を示しながらタンハーは乞う。
――私、そんな酷いことされたんだー。
――だから、あなたは自分から封印されたのよ。
のうてんきなノアの声を脳裡に聞き流しつつ、私は一歩踏み寄る。
「ひぃっ――!」
そこまで怖がられると、かえってこちらが傷ついてしまう。精一杯の優しさを装った演技を表情には浮かべつつ、しかし機械腕に包まれた手をタンハーに差し出した。
「あぁ……――くふふっ!」
しかしこのタンハー、今時珍しい典型的な小悪党ムーブをしてくれる。
こちらが酌量の演技を見せた途端、底意地の悪そうな笑みを浮かべて反撃の構えを見せた。
――もちろん、想定済みのリアクションなので、反撃の暇は与えない。
差し出した機械腕でそのまま頭を掴み、女魔の全身を持ち上げる。
「あなたが汚した大地に――」
恐怖に歪んだ顔が、私が力を込めるままに宙で振り回される様には、なるほど一定以上のカタルシスがあった。
「――口づけしなさい!!」
自らが降らせた雨の水たまりに、その顔を叩きつける。
うつぶせになり、水の濁りにくぐもった悲鳴が女魔の口から漏れる。枯れ木のように力を失った腕が救いを求めるように弱々しく宙を掻き、ほどなく落ちた。
そのままその全身が、紙に書かれた墨絵のように黒い煙に変じ、かき消えてしまう。
「……幻を飛ばしていた……?」
機械の腕を通したこともあるが、決定的な手応えには欠けていたように思う。本物のタンハーは別所にあり、幻影を遠隔操作していたと言うことだろう。
――そんなことより、パパ!
本当に、ノアの行動原理はリュートしかないのだ。彼女の想いに引き比べて、自分の思慕の強さを常に試されると思ってしまうくらいに。
とは言え、真っ先にリュートを気遣えなかったことの反省も、まずは後回しにしなければならない。
「リュート!」
果たして、魔力枯渇の弱り目に、悪魔の誘惑という祟り目に遭った彼は、タンハーの水の拘束から解放され、力なく意識なく地面に倒れていた。
「息はしてるけど、意識がない……何か方法はある!?」
――ママ次第。とりあえず安静にできる場所と、貞操的な意味での覚悟?
――今すぐ戻ろう!
――判断が早い!?
そこまで言われればどういうイベントが待っているのか、察せられない私ではない。大義名分が得られるなんて、むしろご褒美でしかないのだ。
またしても若干ノアを置いてけぼりにしつつ、リュートを安全に運ぶべく一部をストレッチャー型に整えた魔導騎を駆り、リュートを救う手立てをノアに聞きつつ宿舎に戻った。
……そして、リュートを宿舎に運び込むところで、戻ってきていたコナラと鉢合わせしてしまった。
「主様!? ご無事ですか、その、変な雨が降ってきたと思ったらすぐ止んで――」
「コナラさん、悪いんだけど……二時間くらい、外してくれない?」
まさか私の人生で、こんな艶っぽいお願いをする羽目になるとは思わなかった。
「はえ? ……えええぇ――っ!? ……その、大人の階段上る的な?」
「いやその、リュートのために必要なことで」
今にして思えば、ここで日和らずちゃんといかがわしい旨を伝えていれば、違う未来もあったかもしれないのだが。
「それ、私にもお手伝いできませんか?」
ゆでだこみたいに顔を赤くして、彼女なりに相当葛藤したことは分かるのだが。リュートに対するゴリゴリの善意しかり、とにかくやる気の代償に視野が狭くなるきらいのある彼女だった。本当にいい子なんだけれども。
――……二人がかりって、あり?
――むしろ、大いに好ましい。
まるで父親みたいな言い方を、ノアはするのだった。




