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【魔王デーヴァプッタ編更新中】マスターリング ~復讐の操獣士~  作者: 高村孔
第三章 誰がISSを墜としたか

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#370 封印術士ネリスの献身8

「――どうした? ぼうっとして」


「え……?」


 ふと我に返ると、そこは放課後の学校だった。

 私の机を挟んで正面に古城優斗君が座っていて、気遣わしそうに見てくれている。


「……ん、何でもない、大丈夫よ」


「そうか、よかった」


 そう言って、優斗は力の抜けた、柔らかい笑みを浮かべた。胸の奥に染み入るような温かい雰囲気に、思わずこちらの口許も綻ぶ。

 ……こんな風に笑う人だっただろうか? 一抹の疑念が生じるも、日だまりの中のような居心地の良さから抜け出したくないという気持ちがまさった。……何だか、現実離れした、長い夢を見ていたような気がする。


「何の話だっけ?」


「だから、これ。貸してくれてありがとう。長かったけど、面白かった。『罪と罰』よりは好きかな」


 彼の手にあるのは、ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』の文庫版だった。……そうだ、『罪と罰』で近代文学に興味を持った彼のために貸したものだった。以来、過去には私を、今は優斗に対して当たりの強いトップカースト連中の人目を忍んで、こうして話すようになっていた。


「文学的な主題? みたいなのはあまりピンと来てないけど、何だかんだ兄弟が多いのはうらやましかった」


 文学慣れしていないが故か、独特な感想に思わず口許が綻んでしまう。


「どうしたの? 今日はずいぶんしおらしいじゃない」


「……いや、深く物事を考えられるだけで特権を得られる訳じゃないとは思ってるよ」


「ふふ、そこは譲らないのね」


 バツが悪そうに言葉を濁しながら、しかし主張だけは通す言い草が可愛らしい。

『罪と罰』の感想を言い合ったときは、軽い論争になってしまったのだ。

 誤解を怖れずにまとめれば、優斗は近代文学特有の、思索を重ねる自分に無意識に陶酔し、そうでない者を見下すような傾向に辟易していた様子。相手が自分よりも考えが足りない、といったような思い込みは慎むべきでというもっともな意見を披瀝し、その嫌悪感は作品の主人公自身にも及んだようだ。

『罪と罰』で言えばラスコーリニコフがそれに当たるが、『カラマーゾフの兄弟』では主人公が兄弟である分、その嫌悪の対象がぼやけ、拒否感なく読み進められたと言うことだろう。

 ……しかし、自分としては前回のような議論を期待していたので、物腰柔らかい今回の優斗の態度に、微妙な違和感があった。


「じゃあ、兄弟の中ではアリョーシャがよかったんじゃない? 終盤の演説とか」


「まあ、ハイライトだったとは思うけど」


 と、文庫本のページを繰って確認する様子。本を読んでいる姿が怖ろしく様になる造作だ。


「……何か一つ素晴らしい思い出があれば、それがその後の一生の救いになるっていうのは、ピンと来なかったかな。そんな思い出まだ一つもないって、思ってしまって」


「そっか。……私も、少し前まではそう思ってた、けど……」


「けど?」


「こうして古城君と話すようになってからは、ちょっと分かったかも」


 これだけ言うだけで、相当の勇気を振り絞ったのだった。


「そう」


 またあの、柔らかい笑い方。らしくないとは思いつつ、私ごとき腐女子、気を抜けば墜とされてしまいそうで、慌てて話題を逸らす方向を探る。


「……それで、これなんだけど」


 大いに気後れしながら、私は今回の主題である原稿を鞄から取り出した。完成したら読ませると約束していた、自作の漫画原稿だった。


「もうできたんだ、すごい」


 対して、優斗が無邪気に顔を輝かせるのが眩しい。普段の態度がひねくれているだけに、素直に喜ぶ笑顔の破壊力たるや、すさまじいの一言だった。


「その、気になったことがあったら、遠慮なく言ってね」


「うん、ありがとう」


 つくづく、どこまでも屈託のない態度で揺さぶってくるのはもう勘弁して欲しかった。

 ともかく、自作の原稿を人に見られるのは、それが初めての経験だった。

 乾燥が気になって、読んでいる彼の一挙手一投足をつい凝視してしまう。緊張から、自分の心音がやたら大きく聞こえた。窓の外、グラウンドで野球部が練習していて、金属バットが硬球を打つ明るい音が、やけに遠く感じられた。

 やがて、自分でも会心の出来と思えたギャグシーンで彼が思わずふふ、と笑いを漏らしたところで、ようやく手応えを感じ、どうにか彼が読み終えるまでの時間を耐えることができた。


「うん、いいね。すごく面白い」


 また、破壊力抜群の笑み。どうしても反応が気になっていただけに、特に効いた。


「……本当?」


「話もいいけど、すごく丁寧に書いてあるね。主人公のキャラもすごくいい」


「そう、よかった……あのね、聞いて欲しいことがあって」


「うん?」


「ずっと伝えたかったことがあって。もし、この原稿を気に入ってもらえたら、勇気を出せるかなって、思ってたの」


「う、うん」


 私のシリアスな口調を察して、優斗も居住まいを正す。


「……聞いてくれる?」


「……うん、分かった」


「ありがとう。じゃあ、言うね。古城君――」


 これまでの戦いで多少なりとも培ってきた自信、それをもってなお足りない勇気を、呼吸を整えて絞り出す。


「――解釈違い。やり直して」

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