#365 封印術士ネリスの献身3/錬金術師の置き土産4
「立ち話もなんだし、寄っていく?」
冷静に考えれば家主は私ではないので言えた義理ではないのだが、何故だかもう少し話したくなって、私はノアをシンシアの店へと誘ったのだった。
「え、どうしよう。いいのかな?」
短いながらこれまで見聞きした様子とは裏腹に、しおらしい反応を返された。てっきり嬉しそうに飛びついてくるものと思ったのだが、彼女の言うところのパパ――十中八九リュートにとって大切な場所であることが、ノアにも分かっているのだろう。
「留守を任されたんだけど、私も気後れしちゃって。一緒に来てくれると心強いんだけど」
「……じゃあ、お邪魔します」
控えめにカウベルを鳴らし、入っていく私に輪を掛けて慎重に、おずおずとノアは足を踏み入れる。
私の経験で言えば、憧れの偉人ゆかりの史跡に行ったときに近い感覚だろうか。ここがあの、と嬉しさがある反面、それ以上に、自分なんかが足を踏み入れていいのだろうか、空気を汚していいのだろうかという罪悪感がまさるのだ。
「あ、匂いがする。パパと、それに――」
しかし、入ってしまえば感動が先に立つのだろう。色素の薄い頬を紅潮させ、瞳を潤ませて喜んでいる。
それに、と言いかけて呑みこんだのは、おそらくシンシアを想定してのことなのだろうが、果たしてノアがシンシアをどれだけ知っているのか、そうだとして、彼女の中でどういう位置付けなのか。
興味は尽きないが、ノアにとって大事な時間に水を差すのも憚られ、とりあえず店舗部分の片隅に見つけたホウキなど手に取ってみる。
私自身、この店に自分の手を入れることは憚られたが、掃除を初めて見ると存外にほこりっぽい店内の様子が気になり、あそこもここもと、しばらく熱中してしまった。
「ノア……?」
しかし、気がつけば彼女の姿が店舗部分に見当たらなかったのは、我ながら油断という他なかったが。
呼び掛けても答えなかったノアは、奥の工房部分にいた。
これまで足繁く通った店舗部分と違って、工房部分は本当に〝関係者以外立ち入り禁止〟といった感じが強いが、ノアのただならぬ様子に、思わず足を踏み入れてしまう。
泣いていたのだ。
「……私、知ってる。この場所……」
激情に絞り出されてというよりも、コップから溢れた水がこぼれるような、そんな涙の流し方をしていた。
その目はやや焦点を失いながら、何故か今もコポコポと何かが沸き立っている大きな錬金釜を見つめている。
どこか頼りない足取りでその釜に歩み寄り、釜の縁に手を当て、大事そうに撫でさすった。生まれたての子犬にでも触れているような手つきだった。
かと思えば、今度は工房を見渡し、何かを探している風だ。明らかに目的意識を持った行動に、言い知れぬ不安を感じた。
この子は、何者なのだろう。あまりの無邪気さに毒気を抜かれてしまったが、端から正体不明なのだからもっと警戒して然るべきだったのだ。
「……あるはずなんだ。何か記録が……」
これまでにない鋭さをもったノアの視線があちこちへ飛び、工房の隅、おそらくはシンシアの居室だっただろう部屋へと至る扉で止まる。
その足が迷いなく、その部屋の方へと向いた。
「何をしてるの……?」
さすがに、シンシアのプライベートスペースへと踏み込ませるのはためらわれ、しかし何だが凄味をもって行動しているノアを積極的には止められず、中途半端に声がけするに留まった。
遠慮なくシンシアの部屋に踏み込んでいくノアに対し、さすがに入室は憚られ、開いたドアの外から見守る形になった。
そこからのノアの行動は、何か霊感のようなものに導かれているとしか言えなかった。それほど見事に、一度で〝正解〟を引き当てたのだから。
聞き取れた限りでは記録がどうとか言っていたのに、本棚には向かわず、衣装箪笥に向かい、そして、その引き出しを開けた。
中から出てきたのは。
「何をしてるの……」
何と言うか、扇情的な意匠の、下着だった。
シンシアはああいうの履いてたんだとか、それを手に取り、真剣に見つめるノアは何がしたいんだとか、置き去りにされた脳が忙しい。
ノアはその下着を持ったまま、引き出しをさらに探った。
やや置いてけぼりではあったが、やがてノアが何やら木の板を取り上げたのを見て、そこだけは腑に落ちるものがあった。二重底になっていて、何かが隠されていたのだ。
こちらの世界で一般的な羊皮紙をまとめた、ノートのようだった。
その表紙を見て、大きく見開かれたノアの手から、下着が落ちる。
その震える手が一ページ、また一ページと忙しなくノートをめくり、その度にノアの感情は深まっていくようだった。怖れか、焦燥か、認めたくない事実が浸透してくるのを、必死に押しとどめているような。
「そっか、そうだったんだ……パパ……」
――その時、店舗のカウベルが鳴り、
「ごめんくださいませ」
その、低く落ち着いた女性の声を聞いたノアの反応は劇的だった。
ノートを取り落とし、その文面に深く集中していた意識を強制的に引き上げられたように、我に返り、焦りをにじませた顔でこちらを見る。
「ごめんママ、ちょっとだけそこに匿って」
「え」
またしても、置いてけぼりである。
仔細を尋ねる暇も与えず、ごめんね、とノアはそれだけ言って、怪奇現象を起こした。
イメージ的には西遊記だったか、名前を呼ばれて返事した人が瓢箪に吸い込まれるように、ノアの姿が私の背に負った封印の杖に吸い込まれて消えたのだ。
……もしかして、自分で封印された?
「もし、お留守でしょうか」
「あ、はい、ただいま」
あとから思い返してみれば、店員として応対するような立場でもないのだが、状況に流されるまま律儀に返事してしまったのだった。
そして店舗に戻り、声の主を一目見れば、その人がノアの言っていた人物だとすぐ分かってしまったのだった。
なるほど、その服は聖女として活動していたセシリアの物に似ていて、この世界での高位聖職者が着るローブそのものだった。
その上からでも分かる豊満なプロポーションと、艶美ながら憂い秘めた顔立ちは、失礼ながらノアがくたびれた人妻と評した、その通りの容貌に見えた。
「失礼ですが、人を探しておりまして。銀色の長い髪で、肌の白い少女を見ませんでしたか?」
「……いえ」
はっきりと嘘をついてしまった。オリヴィアあたりなら、嘘をつけない分、かえって上手いかわし方を身につけているかもしれない。
「そうですか。では、もし見掛けたらお伝えいただけますか? あなたの父君が、最後の希望を解き放ったと」
――――!
何故だか、封印の杖の〝中〟にいるノアが、驚きに息を呑む気配が伝わった気がした。
「――それと私、未婚でして。いずれ来たる我が主君に、すべて捧げると決めておりますので」
では、と優雅に去る後ろ姿を呆気にとられて見送りつつ、もしかしてノアの言っていたことをどうやってか聞き届け、根に持っていたのだろうかと思った。
――急いでパパのところに行かないと……あれ? ママ、一つ聞いてもいい?
――何?
何故かこの時はそつなく意思疎通できてしまったが、文字を思い浮かべるくらいに強く念じれば、相手に伝わるらしい。というか、封印の杖にこんな仕様があるなんて知らなかったし、もしかしたらノアだけ特別にできていることかも知れないが、とにかくこの時は色々と余裕がなかった。
――これ、どうやったら出られるの?
――知らない。




