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3.師走のつごもり

 さらさが冬ごもりのために源三郎の許を去ってから、ひと月あまりが過ぎた。


 さらさのいない日々は味気ないものだった。

 ひとり暮らしには慣れているし、そもそもさらさは家事が得意ではない。だから生活そのものにはこれといって支障はない。

 しかし、このさびしさはどうしたものか。

 春まで待てば、さらさは帰ってくるだろう。だがその春は、果てしなく遠い。


 いっそ、さらさを訪ねてゆこうか。

 さらさが籠っているのは村の外れ、梓淵と呼ばれる水辺だ。さらさが眠りに就く前に見送りに行ったので、場所ならよくわかっている。


 だが、淵まで行ったとて何になろう。

 さらさは今、眠りに就いている。顔を合わすことができるわけでも、言葉を交わすことができるわけでもない。いやむしろ、そばに行くことで、さらさの眠りを妨げることになりはすまいか。無理に起こすようなことになっては、我慢して別れて暮らしている意味がなくなってしまう。


 結局、春まで耐えるしかないのか。

 何よりも大切なのはさらさの健康と身の安全だ。さびしさに負けてそれを揺るがすようなことはあってはならない。

 今はただ、春を待とう。秋までに集めておいた薬草を薬研で砕いて調合したりと、やるべき仕事はいくらでもある。


 そうおのれに言い聞かせはするものの、やはりさびしさを覚えずにはいられない源三郎であった。



 ********************



 大晦日の夜のこと。

 ひとり夕食の膳をかき込んでいた源三郎は、外から呼びかける声があるのに気づき、顔を上げて耳を澄ました。


「源三郎さま……私でございます……」


 まさか、さらさなのか。

 胸を躍らせ、源三郎は戸口へと向かう。

 戸を引き開けると、はたして、そこにはさらさの姿があった。


「さらさ!」


 戸口から踏み出し、駆け寄ろうとする。だが、その寸前で、何かがふと源三郎を引き留めた。


――私がここを離れれば、冬ごもりのいらぬ輩が、よい機会が訪れたとばかりに押し掛けてこないとも限りませぬ――


 さらさの言葉がよみがえる。

 今、目の前にいる女は、本当にさらさなのだろうか。

 そうだ。今宵はとりわけ冷え込んでいる。この寒気の中、蛇であるさらさがこんな平気な顔で出歩けるものだろうか。


「源三郎さま……早く中に入れてくださいませ」


 さらさは――さらさの顔をした女は、いかにもかなしそうな様子でそう言った。


「そなた、本当にさらさなのか?」

「どうしてそのようなことをお訊ねになられるのです」

「そなたがまことさらさならば、わが手を借りずに、わが家に入るがいい。別れ際にさらさは言った。その家のあるじが招かなければ、もののけは家の中に入ることができないのだと」

「ああ、源三郎さま……私をお疑いになるなんて……」


 さめざめと女は泣き崩れる。


「そなたはさらさではない。そうだな?」


 源三郎が問い詰めた、まさにそのとき。


「なんというずうずうしい真似を! この女狐が!」


 鋭くそう叫んだ者があった。

 声のするほうに顔を向けると、さらさの顔をした女がもうひとり、息を切らしながらこちらをにらみすえていた。

 駆けつけてきたのだろう。髪は乱れ、呼吸も荒い。月明かりの下ではその顔色までは定かではないが、いかにも苦しそうだ。


「さらさ! さらさなのか!」


 大声で源三郎は叫んでいた。


「源三郎さま!」


 新たにやって来た女は走り出すと、苦もなくするりと家の中に入り込み、ひしと源三郎に抱きついた。


「なんと……こんなに冷えて」

「夢うつつに感じたのです。わが家の周りにめぐらせておいた結界に触れたものがあったと。急いで来てみれば案の定……」

「ではこの者はやはり」

「ええ、私ではございませぬ。源三郎さまを狙う女狐です」

「女狐……とは、その……やはり、獣の狐なのか」

「そうです。あれは双つ尾の小ずるい狐。この山に住まうものたちの中では、頭抜けた力を持つ女怪なのです」

「おのれ、こしゃくな蛇娘が……」


 女は口惜しそうにさらさをねめつける。

 さらさもまた負けじとばかりに女をにらみつけ、常になく激しい口調で言った。


「私が冬ごもりしている隙に源三郎さまに近づこうなど、盗人たけだけしいにもほどがある。しかも私の姿を借りて源三郎さまをたばかろうとするとは」

「何とでもお言い。欲しいもののためには手段など選んでおられるものか」


 せせら笑うように女――いや、化け狐と呼ぶべきか――はそう言い放つと、今度は源三郎に向きなおり、いかにもかなしげな表情をこしらえて、切々と訴えかけてきた。


「源三郎さま、なぜにあなたさまはそこな蛇娘をお選びになったのです。蛇はひとには馴染まぬ、冷たき血の生き物。鱗に覆われたる四肢なき姿はおぞましく、冬ともなれば眠りに就かずにはおかない。そのようなものに比べれば、私のほうがよほど多くを源三郎さまに与えることができるものを。われもまたひとならざる身。されどわが血潮は温かで、まとう毛皮はやわらかく滑らか。加えて、私は味よき膳を整え、住まいを心地よく保つすべをも心得ております。もちろん、身を蕩かすがごとき閨の技も。蛇娘などよりもよほど、あなたさまの妻としてふさわしくふるまうことができますのに」

「なぜと問われても困るが……さらさはすでにわが妻、わが一部となったもの。いまさら他を求めたいなどとは思わぬ」


 静かな、だが決然とした口調で源三郎は言い切った。


「去りなさい。私は、ひとをたばかって何かを得ようとするものは好まぬ」


 源三郎の言葉に、化け狐は黙り込む。

 そしてさびしげな笑みを浮かべると、くるりと宙返りして二本の尾を持つ狐に身を変じ、そのまま彼方の木立の中へと駈け込んでいった。


「源三郎さま……」


 さらさのささやく声に、源三郎ははっと我に返る。


「ああ、すまない。すっかり冷えてしまったな。早く囲炉裏のそばへ」


 引き戸を閉めて、囲炉裏の前までさらさを導くと、源三郎はさらさの真横に腰を降ろし、ぎゅっと抱き寄せる。


「源三郎さま?」


 戸惑いを含んだ声で、あえぐようにさらさが囁く。


「会いたかった。どうしようもなく、会いたかったのだよ、さらさ」

「ええ、私もです」

「そなたのことを思えば、すぐにでも帰すべきなのだろう。だが、せめて今宵ひと夜、ここに留まってゆかないか」

「ええ、ええ、私も、そうしたいと」

「ああ、さらさ……」


 そこからはもう言葉はなかった。男とその妻は身と身を寄せて、ひとつに溶けあった。



 ********************



 明けて元日の朝。


 雪に覆われた道を、源三郎はひとり、梓淵に向かって歩いていた。

 空は曇りなく晴れ渡っていた。山道はしんと静まりかえり、人間はもとより、鳥や獣の気配もない。

 源三郎は時おり、着物の上から懐をそっと撫でる。何かをしまいこんでいるのか、懐はぽっこりと奇妙な形に盛り上がっていた。


 細い流れに沿って歩き続けると、木々に囲まれたほの暗い淵にたどり着いた。

 淵の傍らで源三郎は足を止めた。そして地面に屈み込むと、胸元の合わせをかき分けて、そっと懐を押し広げる。


「さらさ、着いたよ」


 その声とともに、源三郎の胸元から一匹の蛇がするりと雪の上に這い出してきた。

 長さは八寸あまり。さほど大きくはない緑色の蛇だ。

 雪の上に降りるや否や、蛇はたちどころに人間の女に姿を変える。

 女はむろん、さらさであった。


「源三郎さま……」


 源三郎もまた立ち上がり、人間に変じたさらさのほほにそっと自分の右手を伸ばす。


「ゆっくりとお休み。春にまた会おう」

「お名残り惜しゅうございます」

「ああ、私もだ」


 さらさの目からつうとひと筋、涙がこぼれ落ちる。その涙を源三郎は指で拭いとると、優しい声でささやきかける。


「いつ頃、そなたは戻るだろう」

「はい、梅の花の咲く頃には」

「梅か……いや、それではまだ寒すぎるのではないか。きっと雪も消えていまい」

「では、つくしが芽吹く頃には、きっと」

「ああ、そうだな。その頃には雪も消えていよう」

「待ち遠しゅうございます」

「私もだよ。だがそなたを損ないたくはない」

「源三郎さま……」

「名残は尽きないが、こうしている間にも冷えていってしまう。さあ、もうお行き」


 源三郎はさらさからそっと手を放す。

 うるんだ目でなおも源三郎を見上げていたさらさだったが、深々と一礼すると、淵の脇に生える茂みに向かって歩き出した。

 そして、赤い花をつけた椿の木の根元まで行くと、まるで吸い込まれるように、すうっとその姿は消えていった。


 源三郎は妻が姿を消していったあたりに目を向けたまま、しばらくその場に立ちつくしていた。

 だがやがてちいさく首を振ると、来る時に自分がつけた足跡の上をたどりながら、ゆっくりと炭焼き小屋へと戻っていった。


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