3.師走のつごもり
さらさが冬ごもりのために源三郎の許を去ってから、ひと月あまりが過ぎた。
さらさのいない日々は味気ないものだった。
ひとり暮らしには慣れているし、そもそもさらさは家事が得意ではない。だから生活そのものにはこれといって支障はない。
しかし、このさびしさはどうしたものか。
春まで待てば、さらさは帰ってくるだろう。だがその春は、果てしなく遠い。
いっそ、さらさを訪ねてゆこうか。
さらさが籠っているのは村の外れ、梓淵と呼ばれる水辺だ。さらさが眠りに就く前に見送りに行ったので、場所ならよくわかっている。
だが、淵まで行ったとて何になろう。
さらさは今、眠りに就いている。顔を合わすことができるわけでも、言葉を交わすことができるわけでもない。いやむしろ、そばに行くことで、さらさの眠りを妨げることになりはすまいか。無理に起こすようなことになっては、我慢して別れて暮らしている意味がなくなってしまう。
結局、春まで耐えるしかないのか。
何よりも大切なのはさらさの健康と身の安全だ。さびしさに負けてそれを揺るがすようなことはあってはならない。
今はただ、春を待とう。秋までに集めておいた薬草を薬研で砕いて調合したりと、やるべき仕事はいくらでもある。
そうおのれに言い聞かせはするものの、やはりさびしさを覚えずにはいられない源三郎であった。
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大晦日の夜のこと。
ひとり夕食の膳をかき込んでいた源三郎は、外から呼びかける声があるのに気づき、顔を上げて耳を澄ました。
「源三郎さま……私でございます……」
まさか、さらさなのか。
胸を躍らせ、源三郎は戸口へと向かう。
戸を引き開けると、はたして、そこにはさらさの姿があった。
「さらさ!」
戸口から踏み出し、駆け寄ろうとする。だが、その寸前で、何かがふと源三郎を引き留めた。
――私がここを離れれば、冬ごもりのいらぬ輩が、よい機会が訪れたとばかりに押し掛けてこないとも限りませぬ――
さらさの言葉がよみがえる。
今、目の前にいる女は、本当にさらさなのだろうか。
そうだ。今宵はとりわけ冷え込んでいる。この寒気の中、蛇であるさらさがこんな平気な顔で出歩けるものだろうか。
「源三郎さま……早く中に入れてくださいませ」
さらさは――さらさの顔をした女は、いかにもかなしそうな様子でそう言った。
「そなた、本当にさらさなのか?」
「どうしてそのようなことをお訊ねになられるのです」
「そなたがまことさらさならば、わが手を借りずに、わが家に入るがいい。別れ際にさらさは言った。その家のあるじが招かなければ、もののけは家の中に入ることができないのだと」
「ああ、源三郎さま……私をお疑いになるなんて……」
さめざめと女は泣き崩れる。
「そなたはさらさではない。そうだな?」
源三郎が問い詰めた、まさにそのとき。
「なんというずうずうしい真似を! この女狐が!」
鋭くそう叫んだ者があった。
声のするほうに顔を向けると、さらさの顔をした女がもうひとり、息を切らしながらこちらをにらみすえていた。
駆けつけてきたのだろう。髪は乱れ、呼吸も荒い。月明かりの下ではその顔色までは定かではないが、いかにも苦しそうだ。
「さらさ! さらさなのか!」
大声で源三郎は叫んでいた。
「源三郎さま!」
新たにやって来た女は走り出すと、苦もなくするりと家の中に入り込み、ひしと源三郎に抱きついた。
「なんと……こんなに冷えて」
「夢うつつに感じたのです。わが家の周りにめぐらせておいた結界に触れたものがあったと。急いで来てみれば案の定……」
「ではこの者はやはり」
「ええ、私ではございませぬ。源三郎さまを狙う女狐です」
「女狐……とは、その……やはり、獣の狐なのか」
「そうです。あれは双つ尾の小ずるい狐。この山に住まうものたちの中では、頭抜けた力を持つ女怪なのです」
「おのれ、こしゃくな蛇娘が……」
女は口惜しそうにさらさをねめつける。
さらさもまた負けじとばかりに女をにらみつけ、常になく激しい口調で言った。
「私が冬ごもりしている隙に源三郎さまに近づこうなど、盗人たけだけしいにもほどがある。しかも私の姿を借りて源三郎さまをたばかろうとするとは」
「何とでもお言い。欲しいもののためには手段など選んでおられるものか」
せせら笑うように女――いや、化け狐と呼ぶべきか――はそう言い放つと、今度は源三郎に向きなおり、いかにもかなしげな表情をこしらえて、切々と訴えかけてきた。
「源三郎さま、なぜにあなたさまはそこな蛇娘をお選びになったのです。蛇はひとには馴染まぬ、冷たき血の生き物。鱗に覆われたる四肢なき姿はおぞましく、冬ともなれば眠りに就かずにはおかない。そのようなものに比べれば、私のほうがよほど多くを源三郎さまに与えることができるものを。われもまたひとならざる身。されどわが血潮は温かで、まとう毛皮はやわらかく滑らか。加えて、私は味よき膳を整え、住まいを心地よく保つすべをも心得ております。もちろん、身を蕩かすがごとき閨の技も。蛇娘などよりもよほど、あなたさまの妻としてふさわしくふるまうことができますのに」
「なぜと問われても困るが……さらさはすでにわが妻、わが一部となったもの。いまさら他を求めたいなどとは思わぬ」
静かな、だが決然とした口調で源三郎は言い切った。
「去りなさい。私は、ひとをたばかって何かを得ようとするものは好まぬ」
源三郎の言葉に、化け狐は黙り込む。
そしてさびしげな笑みを浮かべると、くるりと宙返りして二本の尾を持つ狐に身を変じ、そのまま彼方の木立の中へと駈け込んでいった。
「源三郎さま……」
さらさのささやく声に、源三郎ははっと我に返る。
「ああ、すまない。すっかり冷えてしまったな。早く囲炉裏のそばへ」
引き戸を閉めて、囲炉裏の前までさらさを導くと、源三郎はさらさの真横に腰を降ろし、ぎゅっと抱き寄せる。
「源三郎さま?」
戸惑いを含んだ声で、あえぐようにさらさが囁く。
「会いたかった。どうしようもなく、会いたかったのだよ、さらさ」
「ええ、私もです」
「そなたのことを思えば、すぐにでも帰すべきなのだろう。だが、せめて今宵ひと夜、ここに留まってゆかないか」
「ええ、ええ、私も、そうしたいと」
「ああ、さらさ……」
そこからはもう言葉はなかった。男とその妻は身と身を寄せて、ひとつに溶けあった。
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明けて元日の朝。
雪に覆われた道を、源三郎はひとり、梓淵に向かって歩いていた。
空は曇りなく晴れ渡っていた。山道はしんと静まりかえり、人間はもとより、鳥や獣の気配もない。
源三郎は時おり、着物の上から懐をそっと撫でる。何かをしまいこんでいるのか、懐はぽっこりと奇妙な形に盛り上がっていた。
細い流れに沿って歩き続けると、木々に囲まれたほの暗い淵にたどり着いた。
淵の傍らで源三郎は足を止めた。そして地面に屈み込むと、胸元の合わせをかき分けて、そっと懐を押し広げる。
「さらさ、着いたよ」
その声とともに、源三郎の胸元から一匹の蛇がするりと雪の上に這い出してきた。
長さは八寸あまり。さほど大きくはない緑色の蛇だ。
雪の上に降りるや否や、蛇はたちどころに人間の女に姿を変える。
女はむろん、さらさであった。
「源三郎さま……」
源三郎もまた立ち上がり、人間に変じたさらさのほほにそっと自分の右手を伸ばす。
「ゆっくりとお休み。春にまた会おう」
「お名残り惜しゅうございます」
「ああ、私もだ」
さらさの目からつうとひと筋、涙がこぼれ落ちる。その涙を源三郎は指で拭いとると、優しい声でささやきかける。
「いつ頃、そなたは戻るだろう」
「はい、梅の花の咲く頃には」
「梅か……いや、それではまだ寒すぎるのではないか。きっと雪も消えていまい」
「では、つくしが芽吹く頃には、きっと」
「ああ、そうだな。その頃には雪も消えていよう」
「待ち遠しゅうございます」
「私もだよ。だがそなたを損ないたくはない」
「源三郎さま……」
「名残は尽きないが、こうしている間にも冷えていってしまう。さあ、もうお行き」
源三郎はさらさからそっと手を放す。
うるんだ目でなおも源三郎を見上げていたさらさだったが、深々と一礼すると、淵の脇に生える茂みに向かって歩き出した。
そして、赤い花をつけた椿の木の根元まで行くと、まるで吸い込まれるように、すうっとその姿は消えていった。
源三郎は妻が姿を消していったあたりに目を向けたまま、しばらくその場に立ちつくしていた。
だがやがてちいさく首を振ると、来る時に自分がつけた足跡の上をたどりながら、ゆっくりと炭焼き小屋へと戻っていった。