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089[アナーニ条約]

089

[アナーニ条約]


 1295年冬。


  ―――フィレンツェ。


「て、、敵襲!!!黒党の軍です!!!」

「屋敷が包囲されました!!」

「なんだって?!卑怯な!!!!」


   「教皇の命令は絶対である!

    反発する市民らを確実に従わせるのだ!」

   「我ら黒党こそが正義なのだ!!!」


「戦え!!傲慢な貴族どもに屈するな!!!」

「戦おう!!!」―――……‥‥


     ・・・‥‥……―――


  ・・・‥‥……―――白党の議会。


「白党の仲間が、また捕らわれただと……?」

「教皇不服従罪だと?!」

「呆れたものだ……!!」


白党員代表の議会は怒りに燃えていました。


「黒党の理念は全く理解出来ん!!」

「教皇とそれに付き従う貴族を信頼する事は出来んぞ。」

「彼らは階層社会に捕らわれている!

 高位貴族の考えには納得出来ない!」

「フィレンツェはこれまで通り独自の政治体制でも十分に発展と維持が出来る!」


「我々の理念こそが理想に近づけるのです!

 多くの貴族は教会収入を目的に教皇庁に近づこうとしています。」


小貴族出身のダンテ・アリギエーリ(1265-)も白党の要職に就いていました。


教皇派(ゲルフ)都市の代表格であるフィレンツェ。

カンパルディーノの大勝利以後、

教皇と高位貴族と強く結び付こうとする派閥・黒党(ネーリ)と、

富裕市民層を中心とした自立政策を掲げる派閥・白党(ビアンコ)の対立が深くなっていました。

この対立が深くなり、軍事的な対立に発展して来ている中でのボニファティウス8世の教皇就任。

黒党は教皇からの支援を受け、白党との溝をさらに深めていきました。


  ・・・‥‥……―――


 ローマ市。

コロッセオの直ぐ北に位置するトラヤヌスの記念塔(コロンナ)広場。

その近くに、コロンナ家の宮殿はあります。


「新教皇ボニファティウス8世に疑問を持つ者はいますか。」


一族の会議で議題となったのは、

前教皇ケレスティヌス5世の不可解な退位についてでした。

この会議に集まった者たちは、言葉には出さないものの、

その表情を見れば、そのほとんどの者が、

昨年暮れの教皇交代劇に疑念を抱いている事は明らかでした。


「枢機卿全員の判断で教皇選挙(コンクラーヴェ)で当選した教皇が、

 こんなにも早くに、

 しかも法律を新たに加えてまで退位しなければならない理由はなんだったのか。」

「ケレスティヌス5世聖下は明確なアンジュー家贔屓だった。

 だから、反仏派の人間が何か裏工作をしたのでは……。」

「それは誰なのか。」

「教皇に決まっているだろう!

 彼は自分が教皇になる為に師を追い落としたに違いない!」

「そんな手の込んだ事するかね?」

「いや、実際、当初彼はケレスティヌス5世聖下の即位に反対していた。」

「という事は、新教皇は反仏派なのか?」

「反仏派なのならば、それは我々にとっては好都合なのではないか??」

「そんな事はあるまい……。

 シチリア戦争についてはこれまでと同様の施策だという。」

「シチリア政策を推進するのも、カペー家贔屓を継続しているとは到底思えない!」

「教皇庁の考えは明らかでしょう!

 彼らは自身でシチリアを支配し制海権を取得したいだけなんですよ。」

「アンジュー家も利用して……、という事か。」

「フィレンツェの黒党(ネーリ)との接触も考えられる。」

黒党(ネーリ)白党(ビアンコ)との争いを煽る組織が存在するという噂も耳にした。

 それが教皇庁である可能性は充分に有り得る。」

「戦争が継続すれば金回りが激しくなる。

 シチリアの事もフィレンツェの事も、

 結局利益の事しか考えていないのではないか!」

「とにかく、近頃の教皇庁の施策は全くもって納得出来ません!」

「我々一族は一丸となって教皇庁に意見しましょう!」


コロンナ家は、ボニファティウス8世に疑念を抱き、警戒するようになっていました。


  ―――……‥‥・・・


 1295年晩冬。


カスティリア王国トレド。


国王サンチョ4世(1258-)は、専属医師の報告を受け、ゆっくりと目を閉じました。


「長く、無いのだな……。」


医師は王の威圧感に脅えながらも、その問いを肯定しました。

サンチョ4世は、致命的な病気を患ったようでした。


  ………ふぅ……‥‥・・・


サンチョ4世は、マリーン朝とグラナダ王国との戦争を継続しながら、

つまり領土回復運動(レコンキスタ)を継続しながら、

一方でポルトガル王国との軋轢も絶えていませんでした。

また、自身の即位の経緯から、フランス王国との仲も改善されないままで、

その為に、1291年にアラゴン国王に即位したハイメ2世(1267-)との連携強化に努めてきました。

1293年には大学を創設するなど、学問にも力を入れ始めていたサンチョ4世でしたが、

もう、命は短いらしい。


「もう春だというのに、私の命はもう僅かなのだな……。

 マリアよ。後を継ぐフェルナンドの面倒を頼んだぞ。」


王妃マリア・デ・モリナは声にならない声でこれに返事をしました。

サンチョ4世と王妃マリアとの間には、

イサベル(1283-)、フェルナンド4世(1285-)、

ペドロ(1290-)、フェリペ(1292-)と一女三男を残しました。


 1295年4月25日、トレドにて、

カスティリア国王サンチョ4世(1258-1295)崩御。

同日、まだ幼い長男フェルナンド4世が国王に即位しました。

その母マリアは摂政としてフェルナンド4世を支える事になります。


「亡き夫サンチョ4世は、

 ずっとその父アルフォンソ10世を死に追いやった事を悔いていました。

 デ・ラ・セルダ家から恨みを買っているのも仕方がないと思っています。

 私は夫が始めてしまった戦争を、

 少しずつでも解決して和平していこうと思っています。」


カスティリア諸侯は、

まずポルトガル王国とアラゴン王国との連携強化に努める事にしました。

ところがこの施策や政治体制には不満の声もあり、いくつかの派閥を産む結果に繋がっていくのでした。


  ・・・‥‥……―――


 ―――ノルウェー王国。


スコットランド王国の有力貴族ロバート・ブルース(1274-)は、

1295年3月31日付の本国からの書簡を手にしていました。


「父が……、もう……。」


   「はい。

    ブルース家の勢力喪失は十二人評議会にとってのかなりの痛手です。

    ロバート殿、

    エイリーク2世陛下との問題も落ち着いているかと思われます。

    何卒、早急な帰国をと言われております。」


ロバートは重く頷きました。


「分かった。スコットランドには早く戻った方が良いな……。」


彼の父、かつてのスコットランド王国摂政たるアナンデール卿ロベール・ド・ブルースの危篤の報を受け、

春にはスコットランドに帰国する事になります。


「イングランド王国の支配から脱却する為に、

 俺は十二人評議会を牽引しエドワード王と戦ってやる!!」


ロバート・ブルースは5月にようやく帰国し、

スコットランドの国政の中心的存在として復帰を果たすことになります。


       ―――……‥‥・・・


 1295年春、グウォグフ公国。


「どういう事だ!!

 プシェミスウ2世は後継者を俺と定めたはずだ!!

 おのれ!奴め!

 約束を違えるというのだな!!!許せぬぞ!!」


グウォグフ公ヘンリク3世(1251-)は、

ヴィエルコポルスカ公プシェミスウ2世(1257-)に裏切られ、

新たにその地の後継者と定められたクヤヴィ公ヴワディスワフ(1260-)と対立していました。


 一方の、ヴィエルコポルスカ公国。


ヴィエルコポルスカ公プシェミスウ2世は以前、グウォグフ公をレグニツァ公から離反させ、

グウォグフ公は裏取引の末にレグニツァ公を捕縛しその領土を奪いました。

ところがグウォグフ公が独自展開しようとした為にプシェミスウ2世はグウォグフ公を見限ったのです。

プシェミスウ2世はクヤヴィ公ヴワディスワフと結託し、

諸司教らを懐柔してポーランドの再統一事業を進めていました。

さらに、国内で最大の権力を誇るグニェズノ大司教が味方についた事から、

事態は急展開を迎えました。


   「ポーランドの統治者として相応しいのは

    紛れもなくプシェミスウ2世殿である!」


 1295年6月26日、グニェズノ大聖堂。

グニェズノ大司教と複数の主要司教らが揃う中で、

ヴィエルコポルスカ公プシェミスウ2世が入場しました。


   「ポズナン公でありヴィエルコポルスカ公プシェミスウ2世は、

    このポーランドを統一し、

    元の一つの王国に戻す事を誓いますか。」


「はい。我が手によってこの地は再び王国として蘇り、

 平和を取り戻す事を誓います。」


宣誓の言葉を受けて、グニェズノ大司教と諸公国大司教の6人はポーランド王冠を取り、

その王冠をプシェミスウ2世に被せました。


   「これを以て、プシェミスウ2世はポーランド“国王”となった!!

    “国王”として戴冠された君主は、

    ボレスワフ2世(1042-1082)以来216年振りとなる!」


  「ポーランドはついに統合された!!」

  「ポーランドに栄光あれ!!」


  ―――ポーランドに栄光あれ!!!―――


「私が平和な王国を創り上げてみせるぞ!!!」


ポーランド国王プシェミスウ2世は大きく手を拡げてその存在をアピールしました。

クラクフこそボヘミア王国領となっていたものの、

事実上のポーランド統一の快挙は、民に統一的精神をもたらす事になります。


無論、グウォグフ公とクヤヴィ公ヴワディスワフは争う事になるのは言うまでもありません。


  ・・・‥‥……―――


   ―――ボヘミア王国プラハ宮殿。


このポーランドでの出来事、

ボヘミア王国も見逃すわけにはいきませんでした。

国王ヴァーツラフ2世(1271-)は唸りました。


「まさか本当に奴がポーランドを統一するとは思わなかった……。」


5年前、ヴァーツラフ2世がプシェミスウ2世からクラクフ公国を奪った時、

クラクフ公国の統治を認めさせる代わりに、

プシェミスウ2世のポーランド統一事業には口を挟まないと条約を交わしていました。


「結局グウォグフ公はヴィエルコポルスカ公に踊らされていただけだったようだな。

 だが……、

 ヴィエルコポルスカ公の卑怯な手はいずれ明るみに出るに違いない。

 その時まで、もう暫く待つ事にするか……。

 それに、レグニツァ公を重い病に堕とし込んだ罪も重いぞ……。」


ヴァーツラフ2世はまた唸りました。


  「父上っ!ポーランドを攻めないのですかっ?」


彼は、ヴァーツラフ2世とユッタ・フォン・ハプスブルクとの長男ヴァーツラフ3世(1289-)。


  「ゔぃえるなんとかは友を裏切るような悪い奴なんでしょう??

   倒してしまえばいいのに!」


「うむ。その心意気も大事だが、

 ただ敵を討てば平和となるとも限らない。

 民の心をうまく掴み、時機を読まなくてはならない。」


  「民の心……。」


「そう。ポーランドは、このままとなる事は無いだろう。

 捕らわれていたレグニツァ公は劣悪な環境から重病を患い政務が執れない状況で、

 レグニツァ公国は教皇庁の保護下に入った。

 この問題に教会が目をつけているのは明らかだ。

 教会を味方に付けておけば、好機は巡ってくる。

 それに後継者に定められているクヤヴィ公ヴワディスワフだが、

 奴も結局、利益に溺れてプシェミスウ2世と結託したに過ぎない。

 奴の支持率も高が知れている事。

  我が息子よ、プシェミスウ2世とヴワディスワフに対する反乱が起こった時、

 それが我がプシェミスル家の出番だ。」


ヴァーツラフ3世は、大きく頷きました。


   ―――……‥‥・・・


 ―――オーストリア公国ウィーン。


その頃、オーストリア公アルブレヒト(1255-)は内政に努めていました。

というのも、ウーリやシュヴィーツを中心とした誓約同盟の強固な同盟関係にはなかなか対処出来ずにおり、

その間にシュタイアーマルク公領やウィーン市民らの反乱が発生。

アルブレヒトはこれらの対処に追われていたのです。


「ちくしょう……!!

 ハンガリーに構っている場合ではなくなってきたぞ。

 先ずは自分の国を安定させないとマズイな……。」


オーストリア公国は、国内での反乱鎮圧に奔走していました。

オーストリアがこういう状況であった為、オーストリアとハンガリーは一時休戦。

ハンガリー国王アンドラーシュ3世は、

ハンガリー王位を請求するカルロ・マルテッロ対策に集中する事が可能となっていました。


 ―――ハンガリー王国ブダ。


報せを受けたアンドラーシュ3世(1265-)は、鼻で笑いました。


「ポーランドがヴィエルコポルスカ公によって統一されたぞ。

 これによってボヘミア国王ヴァーツラフ2世の気はポーランドに向いた筈だ。

 さらに、オーストリアも内訌に苦戦中。

 これは我が方にツキが巡って来たぞ!

 ここで一気にケリをつけようではないか!

 全軍、西国境に集結せよ!アンジュー家を今度こそ打ち滅ぼしてくれる!!」


アンドラーシュ3世は1291年にハプスブルク家と講和した後、

ケーセギ家の寝返りで一度捕らえられるという失態を犯したものの、

こちらとも講和を結び、残るアンジュー家派氏族との戦いを続けていました。

母トマシナ・モロシーニも軍に号令出来るほどの人物でアンジュー軍と戦います。

ボニファティウス8世就任後は反仏派の動きも活発になり、

1295年からは特にアンジュー家との戦いは激化していました。


この状況を打開すべく、フィリップ4世は教皇庁に相談を持ちかけました。


「教皇庁はカルロ2世によるシチリア支配を認めています。

 にも関わらず未だにフェデリーコ2世が居座っています。

 これについては1291年にアラゴン国王アルフォンソ3世と条約を交わしました。

 このタラスコン条約を、現アラゴン国王ハイメ2世に確認させてください。」


フランス国王フィリップ4世はアラゴン王国と1291年に結ばれたタラスコン条約の更新を打診しました。


 1295年6月初旬。

ローマ教皇ボニファティウス8世一行はローマ市を出発し、

海沿いから離れた山間のカッシーノへと続く街道を進みました。

目的地は、そこよりも半分も行かない所にあるソーラへの道の分岐点よりも手前の小さな集落。

 アナーニは、ローマから東南東約65km程で、

街道からそれた標高400m前後の尾根上に発展した集落でした。

ボニファティウス8世一行は、そのアナーニにある修道院へと向かいました。


「おお、よく見える。」


アナーニからは、ローマからでは遥か遠く微かに見える程度の山々、ジェンマ山塊がその雄大さを見せていました。

また東を向けば、中央アペニン山脈が客観的に一望出来ました。


「いつ見ても良い景色だ。」


  「聖下はこの近くの出身でしたね。」


「うむ、そうだ。

 今日はコルノ・グランデは見えないか?」


  「ヴェリーノ山はあちらでしょうか……?」


「見事だろう。実に素晴らしい場所だ。」―――………


 1295年6月20日、アナーニ。


フランス国王フィリップ4世、ナポリ国王カルロ2世、

マヨルカ国王ジャウメ2世、アラゴン国王ハイメ2世、

そして教皇ボニファティウス8世が会談しました。


「以上の項目を確認しました。

 私アラゴン国王ハイメ2世は、

 教皇聖下とフランス国王陛下との約束通り、

 シチリアへ軍を送る事を約束すると共に、

 カスティリア王国との和平に努めます。」


アナーニ条約が調印されました。

ところがこの条約は、シチリア摂政フェデリーコ2世は無視された形で結ばれました。

当然、フェデリーコ2世はこれを認めず、対立しました。

とは言え、これを確認した事からシチリア島はアラゴン王国に任せられ、

カルロ2世自身はその援護とナポリ王国内に専念出来る事になります。

故に、その嫡男カルロ・マルテッロはハンガリーへの遠征を安心して行えていたのですが―――


 ―――ハンガリー王国国境付近、アンジュー家の陣地。


総大将であるカルロ・マルテッロ(1271-)のもとには、

芳しく無い報告ばかりが届いていました。


「くっ……、またしても奪われたか…!!」


その母、本来のハンガリー王位請求者である

マーリア・ドゥンゲリア(1257-)も苦渋の表情を浮かべていました。


  「もう一度兵を調達するのよ!

   どこからでも良いわ!とにかく人を集めよ!」


夏、環境の悪い中でもアンジュー家の戦いは続きました。

ところが厳しい状況は続きました。


  「うっ……。これは酷い事になったわ……。」


軍内には、疫病が拡がっていました。

死者も少しずつ増えていました。


  「カルロ、これから夏はさらに厳しくなるわ。

   被害は拡大するでしょう。

   ここは一度退いた方がいいでしょう。」


「ですが!!母上!!

 まだ戦える者も多い!」


  「全滅してもいいの?!

   一度ナポリに戻って体制を整えるのよ!」


ところが疫病は、既にカルロ・マルテッロの体を蝕んでいました。


1295年8月12日、ナポリにて。

ハンガリー王位請求者カルロ・マルテッロ(1271-1295)逝去。


  「ああっ……!なんて事になってしまったの……!!」


     「父上っ!!父上……!!!」


ハンガリー王位請求者は、

故カルロ・マルテッロとクレメンツィア・フォン・ハプスブルクとの長男

カルロ・ロベルト(1288-)となります。

ところが問題はそれだけではありません。

カルロ・マルテッロの死は、同時に、

アンジュー家の当主継承者も失った事になるのです。


「くっ……!!我が子が……、病で斃れるとは……!!」


カルロ2世は歯を食いしばり怒りました。

長男カルロ・マルテッロが病没してしまった為、

ナポリ王位継承者は、

聖職者である次男ルドヴィコ(1274-1297)では無く三男ロベルト(1277-)となります。


 ・・・‥‥……―――


 ―――ローマ市、コロンナ家の宮廷。


「……なんと………」


報告を聞いたコロンナ一族は、深い溜息を吐きました。


「カルロ・マルテッロが死んだと言うことは、継承者は三男ロベルト。

 まだ二十歳かそこらです。」

「アンジュー家の兵力は一段と衰えてしまいますな……。」

「我々は常にシチリア戦争ではアラゴンに味方してきた。

 だが、アンジュー家が弱体化するとなると、

 教皇庁の思惑通りにシチリアが教皇庁の物となってしまう。

 それは絶対に避けなければならん!!」

「教会の力ほど厄介なモノはないからな。」

「では、我々がすべき事は?」

「ケレスティヌス5世聖下の退位はどうも不可解です。

 ボニファティウス8世の不正を暴くべきです。」

「カエターニ猊下、いやボニファティウス8世が脅迫したのでは?!」

「前々から彼の横柄な態度は気に食わなかったが、

 やはり彼が仕組んだ可能性があるだろう。」

「院の周辺の人物に、何か本当の退位の理由を知る者はいないのだろうか。」

「ボニファティウス8世の即位に不正が無かったかどうか…。」

「彼の仲間が全ての情報を遮断している可能性もある……。」

「カエターニの教皇登位は不正がある!」

「訴えましょう!!!」

「コロンナ家は教皇ボニファティウス8世と戦いましょう!!」


コロンナ家はボニファティウス8世を否定し、対立するようになっていきました。


 1295年秋頃、

教皇を辞任したケレスティヌス5世(1210-1296)は、

ローマから東南東に60km以上の田舎の山城、フモーネ城に移る事になりました。

この隠居所を提供したのは、ボニファティウス8世であったという事。


・・・‥‥……「聖下。無事に前教皇をフモーネにお連れしました。」


「うむ。」


教皇ボニファティウス8世は頷き、口元を緩めました。


「コロンナ家や他の連中に怪しまれるような行動はとっていないだろうな?」


    「ご安心ください。全て巧くいきました。」


「よし、よくやった。」


その後、ボニファティウス8世の取り巻きの何名かは行方を眩ましました―――……


 ・・・‥‥……―――


    ・・・‥‥……―――


    ―――ヴェネツィア。


「実に、24年振りか……!」


沢山の土産を持って、旅の男達はヴェネツィアに帰還しました。


「父上……、無事に、ヴェネツィアに帰ってきましたよ。」


マルコ・ポーロは父ニコーロの遺品を握りしめて、

故郷の地に帰って来た事を噛み締めていました。

父ニコーロ、叔父マフェオと共にモンゴル(げん)の国を旅して24年。

数々の苦難を乗り越え、ようやく故郷に帰ってきました。

ニコーロはその故郷を目前に死去してしまいました。

ポーロらは多くの情報を得たものの、その知識は(げん)の皇帝クビライ(1215-1294)に利用され、

周囲から妬まれるほどに彼らは重用されました。

クビライは1260年に元を建国して以来中国大陸統一事業を進めると共に、

運河開通などの交通整備を進めて、東西の貿易を盛んに行いました。

そんな時に現れたポーロらの持つ知識は大変有用だったのです。

1270年代は南宋攻略に力を注ぎ、1279年にはそれも実現しました。

南宋攻略の最中、東部でも軍事行動を続けており、

同じ頃に征服した朝鮮半島の高麗を利用し、海の先の日本侵攻を開始。

ところが、1274年、続く1281年の侵攻も失敗。

さらなる日本侵攻を画策していると、統一された国内でも反乱が起き始めてしまいます。

クビライは一度日本侵攻を諦めざるを得なくなります。


 対する日本国では皇統が大覚寺統と持明院統に分裂する中で、

鎌倉幕府で国の実権を握っていた執権北条時宗(1251-1284)が病没。

後を継ぐ北条貞時(1272-)はまだ満12歳であった為に実権を掌握できず、

源氏将軍を擁立する動きと見られる霜月騒動(1285)や平禅門の乱(1293)に苦渋しました。

この対策として、足利家棟梁足利貞氏(1273-)を源氏嫡流と認める事で源氏の勢力を抑え込もうとしました。


 無論、日本国内の情勢は詳しく元には伝わっておらず、

元が知る情報は、かつて中国が交易していたとされる奥州平泉の話や断片的なものでしかありません。

1291年頃からは元国内の反乱を抑え込んだクビライが再度日本侵攻を計画。

鎌倉幕府は再び元寇対策に難儀せねばなりませんでした。


 ところがそのクビライも年老い、死期が近付きました。

元は再度政治不信に陥り、国内情勢が怪しくなります。

もしクビライが死去すれば、

クビライによって重用され半ば大都に拘束されていたポーロらも危険に晒される事になります。


「クビライ皇帝陛下に逆心を抱く者も少なくない……。

 もし崩御すれば、余所者である我らは直ぐに殺されてしまうだろう……!」


ポーロら一行は帰国を願い出るも、

許可されず、元から離れる事は叶いませんでした。


ところが1292年、彼らに好機が訪れました。


   「この度の皇女様とのご縁談、誠に感謝しております。

    しかし我が使節団は、

    フレグ・ウルスへの帰国途上に仇敵カイドゥの領地を通らねばなりません。

    この辺りの土地も詳しくなく、

    無事に皇女様を我が国にお連れ出来る自身がありません。

    どうか、危険地帯を通らずに帰国する為に案内役を付けていただけないでしょうか。」


フレグ・ウルスからの使節団の帰途の案内役。

ポーロらは、これに買って出ると、なんと許可が下りたのです。

こうして一行は、海路を使って無事に元を脱出。

シュリーヴィジャヤ王国のマラッカ海峡から真西に進んでセイロン島を経由し、

インド西岸を伝ってペルシア湾から上陸、多くの水夫の犠牲者を出しながらも、

1293年2月頃になんとか無事に式場であるホルムズ島に到着しました。

無事に式が終わると、彼らは当然元には戻らず、

陸路よりイランを抜け、

フレグ・ウルス支配下であるアナトリア北岸トラブゾンを経由してコンスタンティノポリスに到着。

ところが旅の途中で1294年には、

ヴェネツィアへの到着を待たずマルコの父ニコーロも死去してしまいます。

そんな辛い経験をしながらもヴェネツィアに帰郷したポーロたち。

しかし、彼らが目にしたのは、かつてのヴェネツィアではありませんでした。


「やはり……、噂に聞いていた通り、殺伐としているな……。」

「ジェノヴァがほぼ地中海を制していてヴェネツィアは財政難……。」

「1289年のカンパルディーノでの戦いは本当に惨状だったと、

 今でも民の心に深く傷が残っている。」

「1291年のアッコン陥落以来、ヴェネツィアは経済状況が酷く悪化、

 ジェノヴァはさらに強気になって、

 コンスタンティノポリスのヴェネツィア人居住区やクレタ島を襲うようになって来ている。」

「だが、ハンガリー王国の支援もあるし、巻き返しを図る動きもある!」


ヴェネツィアが半ば戦争状態にある為、

彼らに旅の思い出を語る余裕はありませんでした。


「復興は全く進んでいない。

 民の戦いはまだ続いているんだ……。

 私も、何か出来る事はないのだろうか……。」


マルコ・ポーロは故郷が戦争を継続している事を憂いました。


    ―――……‥‥・・・


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