042[ラテン帝国滅亡]
042
[ラテン帝国滅亡]
―――1258年から1266年にかけて。
アングルテール王国が第二次バロン戦争の只中にある時、
大陸では勢力図の大きな変化が訪れていました。
そしてその大陸中央部の対立構造は、ヨーロッパ半島内にも影響を及ぼすようになってきていました―――……‥‥・・・
―――……‥‥
―――……‥‥・・・
1258年。
この年、フランス国王ルイ9世はアラゴン王国とコルベイユ条約を結び、
さらにアングルテール王国とパリ条約を結んだ事で、西欧諸国の問題が次々と解決されていました。
―――帝国議会。
「ローマ王はカスティリア国王アルフォンソ10世に決定したのだ!
皆もこの意見に従って貰いたい!」
ヴィッテルスバッハ家のライン宮中伯及び上バイエルン公ルートヴィヒ2世(1229-)はカスティリア国王を推薦。
「コーンウォール伯の方が適任であろう!
なぜ兄上は外国の王を推薦するのか!
選帝侯の趣旨を理解していないのか!」
これを否定するのは、下バイエルン公ハインリヒ13世(1235-)でした。
「静粛に!
選帝侯たる両バイエルン公はなおも争うのか!
ローマ王は選帝侯全員の意見が一致せねば選出出来ない。
よってカスティリア国王の選出もまだ決定とは言えない。
再度、誰が適任なのか話し合う必要がある!」
教皇アレクサンデル4世は苦渋の決断でした。
(フリードリヒ2世皇帝亡き後は全く帝国に統一性が無く、
ローマ王の選挙権のある選帝侯らも適当な人物を選出できずに争ってしまっている……。
これでは帝国は安定せずに諸領邦国家の独立が相次ぎ、
フランス王国にドイツが食われ兼ねない……!
いかにしてフランスの勢いを封じれば良いのか……!)
選帝侯は、マインツ大司教、ケルン大司教、トリーア大司教の三つの高位聖職者と、
世俗領主のライン宮中伯を含めた4人と定められていました。
ところが兼ねてより発言権の高いヴィッテルスバッハ家のバイエルン大公オットー2世(1206-1253)がライン宮中伯を兼ねるようになります。
1253年にオットー2世が逝去すると、
長男のルートヴィヒ2世が遺領を継承しました。
しかし、翌1245年、シュタウフェン家のローマ王コンラート4世の死によってローマ王が空位となると、
ルートヴィヒ2世と弟ハインリヒ13世が対立。
よって、1255年、バイエルン大公領は上下に二分される結果となります。
このバイエルンの混乱に乗じて、
1257年、ボヘミア国王オタカル2世がバイエルンに進軍しました。
その時は兄弟は協力してボヘミア軍を撃退します。
しかし蟠りは残ったままで、ライン宮中伯と分割されたバイエルン公は両方に選帝侯の権利が付されていました。
「シュタウフェン家の遺児コッラディーノを教皇派の連中に奪われてなるものか……。
コッラディーノを我々がしっかりと育てる事で、
赤髭帝やフリードリヒ2世帝の築いてきた帝国再建を目指さねば!」
シュタウフェン家の遺児でシチリア国王コッラディーノは、ライン宮中伯ルートヴィヒ2世に保護されていました。
ところが、コッラディーノが死去したという噂が拡がりました。
―――……‥‥・・・
―――1258年8月10日、シチリア王国パレルモ。
「神聖ローマ皇帝及びシチリア国王コンラート4世の遺児、
コッラディーノの死を受けて……」
大聖堂にて厳かに話し始めたのは、シチリア摂政マンフレーディ(1232-)。
マンフレーディはコンラート4世(1228-1254)の異母弟で、
1252年に産まれた嫡男コッラディーノが成人するまでの間、
摂政としてシチリア王国の統治を任されていました。
そして、コッラディーノが死去したというので―――
「この度、兄の意向を受けて、私がシチリア国王となる。」
マンフレーディがシチリア国王に即位、戴冠する事になりました。
ところがマンフレーディはこの時、
密かに勝ち誇った顔を浮かべていたのです―――……
・・・‥‥……―――
‥‥……―――ローマ教皇庁。
「どこでどう間違えてコッラディーノが死去したなどという嘘が拡まったのか!!」
「誤報であるにも関わらずに、マンフレーディは強引にシチリア王に即位してしまった!
誰かの裏工作に違いない!!」
「コッラディーノは何処へ連れていかれたのだ?!」
「これ以上マンフレーディの振る舞いは放っておけない!!」
「マンフレーディを王座から引き摺り下ろせ!!!」
大空位時代の到来で混乱していたドイツ。
コッラディーノはヴィッテルスバッハ家のバイエルン公兼ライン宮中伯の宮廷で保護されている事が、後々になって確認されました。
バイエルン公爵位は、ルートヴィヒ1世(1173-1231)からオットー2世(1206-1253)へ、
そしてルートヴィヒ2世(1229-)へと直系継承が出来ていました。
この家系はホーエンシュタウフェン家と親しく、
教皇庁に傀儡にされそうだったコッラディーノを、文字通りに保護していたのです。
「誤報である!
コッラディーノは引き続きヴィッテルスバッハ家が保護しおり、
シチリア国王位はコッラディーノにある!」
コッラディーノの生存確認が取れたにも関わらず、
マンフレーディは、
――兄はシチリア王国を俺に任せたのだ!
この俺がシチリア国王であって然るべき!!――
―――と、王位を主張し続け、教皇庁と対立しました。
「ヴィッテルスバッハ家の管理が甘いから誤報が流布されたのではあるまいか!」
「コッラディーノを渡してもらいたい!」
「引き続き私供が管理致します!
口を挟まぬよう願いたい!」
「ではそちらは勝手に王位を主張しているマンフレーディをどう対処するつもりか!」
「マンフレーディもシュタウフェン家の人間。
時間をかけて説得して、
正統な系譜であるコッラディーノの血筋に返還して貰えば。」
「正統と言ったが、既に彼は庶子ではなく嫡出と認められた身である!
正統な甥と叔父の争いなのだ。」
「これは統率力のあるマンフレーディを如何にして牽制し、
我々選帝侯に忠実なコッラディーノを王位に就けるかの問題である。」
「シチリア王国の利益を搾取する事しか頭にないのか!そなたらは!」
「そちらこそそのつもりでコッラディーノを匿っているのであろう!」
選帝侯らやライ都市同盟は、コッラディーノの扱いについても分裂していました。
「やはりローマ王にはコーンウォール伯リチャード殿で。」
「イングランド王国は、例のオックスフォード条項、
さらに拡張した条約もあるとかで、
レスター伯シモン・ド・モンフォールら議会と対立を深めています。
とても此方側に構っている場合では無いと。」
「カスティリア国王アルフォンソ10世こそ!」
「世俗諸侯の推薦だろう?」
「カスティリア国王については教皇が難色を示している。」
「そう!カスティリアとアラゴンはイベリア半島でレコンキスタに注力して貰わなければ困る!」
「他には誰か奴を抑えられる者はおらんのか?!」
「領土回復運動に注力してもらわなければならんだろう!」
ローマ王の選抜は難航していました。
誰が多くの人々に信任され、且つ、自分達の思うように動いてくれるのか。
マンフレーディは問題外。
誰が、マンフレーディの勢力を削ぐ事が出来るのか………
この頃マンフレーディは、ニカイア帝国との争いに介入していました。
ラテン帝国とニカイア帝国の争いは、いよいよ佳境に入っていました―――………
―――……‥‥
―――――ラテン帝国とニカイア帝国。
1204年、フランス人主導の十字軍が東ローマ帝国を滅亡に追い込み、
その地コンスタンティノポリスに彼らの帝国、ラテン帝国が建国されました。
その後彼らは西に勢力を拡げ、
封下国としてギリシア南部にテッサロニキ王国、ペロポネソス島にはアカイア公国を建国しました。
この一方、東ローマ帝国から亡命した有力貴族ラスカリス家はアナトリア半島側に亡命、
ニカイア帝国を建国、アナトリア西部で勢力を強めました。
1254年の時点でラスカリス朝は、テオドロス1世(1175-1222)、
娘婿のヨハネス3世(1193-1254)、
その長子テオドロス2世(1221-1258)と三代続いていました。
――身内贔屓のテオドロス2世は帝国を破滅に導く!――
文化的なテオドロス2世は政務や軍務は不得手で、
昔からの遊び仲間であるムザロンを重臣に置くなどした為、周辺貴族からの反発を買っていました。
彼の父ヨハネス3世が癲癇で亡くなったように、テオドロス2世も若くして1258年に病死。
そしてその長子ヨハネス4世(1250-)が帝位を継ぎました。
この時点でヨハネス4世は8歳。
――このままでは帝国は滅びる!
パレオロゴスに帝位を返還せよ!!――
パレオロゴス家のミカエル8世・パレオロゴス(1225-)。
彼はそもそもコムネノス朝、アンゲロス朝の血を受け継ぐ本来最も帝位に近い血筋の人間でした。
にも関わらず1204年の混乱で堕ち、
ラスカリス朝の治世下では傭兵隊の隊長に過ぎない地位となっていました。
歴任の軍将ストラティゴープロスを中心として、
多くの支持を得たミカエル8世は、1258年、摂政ムザロンを暗殺し、
コンスタンティノポリス総主教との協力でラスカリス家の後見人となって皇室を掌握しました。
さらに専制公の称号の承認されてヨハネス4世の共同皇帝に即位しました。
共同皇帝を名乗ってはいてもほぼ彼の独占状態で、
これは事実上ニカイア帝国の乗っ取りでした。
「我らの故郷コンスタンティノポリスを奪い返そうではないか!!」
さて、ニカイア帝国とは別に東ローマ帝国の亡命政権が存在していました。
アンゲロス・コムネノス家はバルカン半島西岸に根を下ろしてエピロス専制候国を建国しており、
1224年にはテッサロニキ王国を滅ぼして勢力を増大させていました。
バルカン半島南海を制したエピロス専制候国と、アナトリア半島西岸を制したニカイア帝国。
両国はコンスタンティノポリスを挟んで東ローマ帝国の正統な後継国を主張して争う関係にありました。
ところが1230年代、エピロス専制候国は北に接するブルガリア帝国への侵攻に失敗して衰え、ニカイア帝国に圧倒されてしまいます。
北西のマケドニア帝国への侵略を開始するもこちらも敗退して1256年に和睦。
1257年、エピロス専制候国はニカイア帝国に対抗するべく、
シチリア摂政マンフレーディ、及びアカイア公国と同盟を結びました。
三国の軍力が全て結集すれば、ニカイア帝国軍よりも勝ると言われていました。
そんな頃に、ラスカリス家が衰退してミカエル8世パレオロゴスによるクーデターが起こりニカイア帝国で政権交代がありました。
「この混乱期を逃す手は無い!
共にニカイア帝国を討ち滅ぼそうぞ!!」
ところでマンフレーディは、最初の妃のサヴォイア伯の娘ベアトリーチェとはコンスタンサ(1249-)一人娘を残して57年に死別していました。
1259年、エピロス専制候国との同盟関係をさらに強固にすべく候女ヘレナ・アンゲリナ・ドゥーカイナと再婚します。
そして1259年9月、エピロスを主導とした連合軍とニカイア帝国はペラゴニアで戦いました。
ところが三ヶ国の同盟関係は、ニカイア帝国が共通の敵である事以外に協調性は薄く、戦いに挑む前から不安要素を抱えていました。
よって、連合軍はミカエル8世の統率力及び軍将ストラティゴープロスの軍力によって完敗しました。
軍は四散し、テッサロニキはニカイア帝国に支配され、
ラテン帝国は東西からニカイア帝国に追い詰められる恰好となります。
――三国で歯向かっても、ニカイア帝国には勝てないのか?!?!――
この戦いは、ニカイア帝国の脅威を認知させました。
ニカイア帝国ミカエル8世が次に狙うのは、
もちろんコンスタンティノポリスのラテン帝国。
ラテン帝国では、幼くして帝位に就いたボードゥアン2世・ド・クルトネー(1217-)の治世が続いていました。
「やはり、こちらに刃を向けるか!敵の侵攻に備えるのだ!!」
コンスタンティノポリス市が強固であるのは、
西側の強大な城壁と、金角湾の地形とそれを守る海軍力にありました。
1260年夏、ラテン帝国はニカイア帝国によって攻撃を受けましたが、
その強固な要塞が機能してなんとか勝利を収める事が出来ました。
「ニカイア帝国軍を、我らは撃退出来たぞ!」
――あのニカイア帝国を撤退させた!!――
――ラテン帝国軍は強靭である!!――
このラテン帝国の勝利は、バルカン半島中にニカイア帝国の脅威が知れ渡った直後でもあり、
それに勝ったという事実は、周辺各国にも影響を齎しました。
ボードゥアン2世はミカエル8世と一年間の休戦を結ぶ事に成功しました。
しかしこの勝利は、最も恐れるべき敵軍将ストラティゴープロスが、
既にエピロス専制候国の捕虜となっていた事が影響していたのでしょう。
・・・‥‥……―――
・・・‥‥……―――
それから一年と経たない、
1261年7月24日深夜―――
皇帝ボードゥアン2世は宮廷の自室で就寝中でした。
「何事だ……?」
外の騒ぎに気が付き、飛び起きました。
――ぐわっ!大変だ!!――
――まずいぞ!逃げろ!!――
騒動がただ事では無いと悟り、急ぎ自分の剣を持ちました。
「何事だ?!」
その時従者が駆け込んできました。
「敵襲です!!
ストラティゴープロス軍!ニカイア帝国!!
突然市内に現れました!!!」
「ストラ………、、
市内に?!?!突然?!?!どういう事だ?!?」
「時間がありません!!早くお逃げを………!!!」
鉄壁の守りの筈のコンスタンティノポリス市。
にも関わらず、突然市内に敵兵が現れたというのです。
しかもあのストラティゴープロスの軍ともなれば、
市内は忽ち大混乱に陥りました。
「ここは、、ここはラテン帝国の首都だぞ!
ニカイア帝国に奪われる訳には……!!!」
そう言っている間にも、次々と敵兵は宮廷に押し寄せており、
味方の兵は次々と殺されていました。
不意打ちゆえに味方の兵力も乏しく、勝算は皆無といって良い。
「に、、逃げなければ!!!」
ボードゥアン2世は王冠などの財産を持ち出す時間さえなくコンスタンティノポリスを逃亡、命からがらに港から脱出しました。
「おのれ!!ニカイア帝国め!
いつか必ず首都を取り戻してみせる!!!」
そしてコンスタンティノポリスは、忽ちニカイア帝国に掌握されてしまいました。
ストラティゴープロスは既にエピロス専制候国から返還されていた事に加えて、
さらに、ニカイア帝国は休戦中であるラテン帝国の海軍、
つまりジェノヴァ人傭兵と協定を結んでいたようです。
クレタ島をはじめにエーゲ海の制海権がほぼヴェネツィア共和国にあり、
これに対抗するべく新たな交易ルート確保を目論みジェノヴァはヴェネツィアと衝突したばかり。
おそらくその1258年よりも前からニカイア帝国と繋がりを持っていたと思われます。
ストラティゴープロス軍は抜け道を使って市内に進入したようで、
彼らにとって、その後の戦闘は赤子の手を捻るようなものでした。
こうしてニカイア帝国軍がコンスタンティノポリスを乗っ取った事で、
57年間続いたラテン帝国は滅亡、
パレオロゴス家による東ローマ帝国が復活したのです。
「これより我はローマ皇帝である!!」
ミカエル8世パレオロゴスはローマ皇帝を宣言し、
ニカイア帝国の共同皇帝であるヨハネス4世の目をくり抜いて幽閉、
1261年8月15日、単独の皇帝として即位しました。
かくして、ギリシア帝国が復活したのです―――……
・・・‥‥……―――
・・・‥‥……―――
―――――エジプト。
エジプトからシリア・パレスチナ地方では、
マムルークの支配が及んでおり、残存する十字軍国家を脅かす存在となっていました。
アイユーブ朝最後のスルタン・トゥーラーン・シャーが1250年に義母シャジャルによって殺害されたのち、
シャジャル政権は、アイユーブ朝のマムルーク(奴隷傭兵隊)のうちのバフリーヤ(特別訓練隊)と対立しました。
そして1254年、シャジャル政権のマムルーク・アイバクがバフリーヤを危険視し、その筆頭アクタイを殺害。
バフリーヤのバイバルス(1220-)らはアイユーブ家の王族ナーセルを頼ってダマスクスへと亡命しました。
しかしアイバクがシャジャルを超えて権力を拡大しようとすると、
1257年、アイバクはシャジャルによって暗殺され、そのシャジャルもアイバク配下のクトゥズによって殺害されました。
クトゥズはアイバクの遺児を擁立して新たな政権を握りました。
マムルークによる新政権マムルーク朝が誕生したのです。
クトゥズは、エジプトから追い出したバフリーヤのバイバルスとの対立が続き、
これを匿っているアイユーブ家と対立しました。
そしてこの頃、アイユーブ朝には東からも敵が迫って来ていました。
1258年2月10日、バグダードに首都を置くアッバース朝が、
モンゴル帝国の西征軍フレグの攻撃によって陥落、滅亡しました。
モンゴル帝国はオゴデイ家の第3代皇帝グユク(1206-1248)死後、
北西部を支配するジョチ家と南西部を支配するトルイ家が共謀してオゴデイ家とチャガタイ家を陥れ、
1251年にトルイ家の長男モンケ(1209-)を第四代皇帝としていました。
モンケは、次弟のクビライ(1215-)に南征軍の指揮を任せて南宋攻略を命じ、
三弟のフレグ(1218-)には西征軍を任せてイラン・シリア方面の攻略を命じていました。
そのフレグが、アッバース朝を滅ぼしてさらに西進、アイユーブ朝とマムルーク朝を圧迫し始めていたのです。
―――……‥‥・・・
「バイバルス殿……、モンゴルの侵攻はもう止められません……!」
アイユーブ家のナーセルはモンゴルに対して貢納するも、フレグの意にそぐわず却下され、モンゴルは進軍を続けてきていました。
モンゴルを警戒するナーセルとは裏腹に、
亡命中のバイバルスは、エジプトの政権奪還を求めていました。
「クトゥズにカイロを奪われたままではいけない!」
バイバルスは、1258年4月にカイロを攻めるも、
こうした状況も影響してか、前年に引き続き失敗しました。
一方カイロのクトゥズは、
「モンゴル侵攻に対処出来る指導者がいなければならない!」
として、1259年11月、自身がスルタンに即位しました。
しかしエジプトではクトゥズの台頭に意を唱える者が増えてきており、
「私がスルタンでいるのはモンゴル軍を打倒する為の一時的なものである。」
と宣言せねばなりませんでした。
その後、さらなる脅威にさらされていたアイユーブ家は、フレグに対して降伏を申し出ていました。
「ナーセルがモンゴルに降伏だと?!許せぬ!!」
バイバルスは激怒するも、ダマスクスは領土の安堵も約束されている事から、
市内ではバフリーヤの存在を煙たく思う者が増えていきます。
結局バイバルスらバフリーヤはダマスクスには居られなくなり、
エジプトへの帰還を余儀無くされました。
「バフリーヤの帰順を許そう。
共にモンゴル帝国のフレグの侵攻を食い止めようではないか。」
カイロのクトゥズは、エジプトの情勢はもとい、
モンゴル軍の脅威に直面していた事からもバフリーヤを受け入れる事にしました。
1260年1月、モンゴルのフレグ軍はさらにメソポタミア、
さらに西進して、アレッポまでも陥落させました。
アレッポの直ぐ西北はアンティオキア公国でしたが、
フレグ軍は内陸部を南下、内陸部とは山嶺で隔たれた海岸沿いのトリポリ伯国は素通りしてシリア中西部へと向かいました。
――このままではダマスクスまで侵略するつもりだぞ?!――
――住民は避難せよ!エジプトに逃げられるだけ逃げろ!!――
同年2月、アレッポから南下したフレグ軍はダマスクスを陥落させ、
ナーセルは捕らえられてしまいます。
「アイユーブ家はフレグに降伏したはずだ!」
「安堵を約束していたのでは無かったのか!
和睦だなんて罠に決まっている!
使者など殺してしまえ!!!」
バイバルスはフレグより送られて来ていた和睦の使者を殺害して断固モンゴルと戦うと主張。
「バイバルスの言う事は尤も!!
これ以上奴らの思うままにさせるものか!!」
クトゥズもバイバルスと意見が合い、共に軍備を進めました。
ダマスクスが奪われ、カイロでマムルーク朝が戦争の準備を始めるとなると、
中間に位置するエルサレム王国の対応が注目されました。
中間とは言え、エルサレムはマムルーク朝支配下にあり、
実際はシリア中西部のアッコン、ティールを中心とした海岸のいくつかの街に限られています。
エルサレム王国首都アッコンにいる摂政ブリエンヌ伯ユーグは、
「かつて十字軍は、モンゴルはイスラームを共通の敵とする仲間であると勘違いしていたが、
本当の脅威はモンゴル帝国だとつくづく感じた。
我々に軍力は無いが、マムルーク軍の通過や補給の確保に協力しよう。」
エルサレム王国は、本来であれば、モンゴル軍がキリキア・アルメニア王国と軍事同盟を結んでおり、
キリキアがアンティオキア公国と同盟関係にあったので、
モンゴル方とならなければならない立場でした。
しかしマムルーク朝に従わなければ直ぐに攻め滅ぼされる危険があった為、
中立という立場を取らざるを得ませんでした。
そして体裁的には中立としながらも、
マムルーク朝に対して協力の意思を示し、軍の駐屯を許可しました。
「モンゴル帝国は皇帝モンケの訃報を知って停滞している!
フレグ不在のこのうちに我々から先制攻撃を仕掛ける!!」
マムルーク軍は夏に偶然衝突したモンゴル軍に対しても勝利を収めたので、勢い付いていました。
8月末日、エルサレム王国アッコン近郊に駐屯していたマムルーク軍。
「クトゥズ様!!モンゴル軍を捕捉!
ティベリアス湖の南でヨルダン川を渡るつもりかと!」
「よし!我々も南下を!
アイン・ジャールートへ急げ!!」
ゴリアテの泉ことアイン・ジャールートへ移動したマムルーク軍。
9月3日、ヨルダン川を渡河したモンゴル軍を捕捉。
敵軍には、キリキア・アルメニア王国軍も含まれていましたが、総兵数はマムルーク軍に比べると格段に少ない。
数の少ないモンゴル・キリキア連合軍を、横帯となったマムルーク軍が包囲しました。
「突撃ぃぃっ!!!」
とモンゴル軍に向かって行ったのは、
モンゴル軍よりも遥かに少数のみを連れたバイバルス率いる先鋒隊。
相手を少数と見たモンゴル軍は前面突破を試みるも、
戦略的撤退で導かれたまま、後方に控える大軍に取り囲まれます。
この戦いは、マムルーク軍の見事な戦略によって大勝しました。
軍司令官の戦死でモンゴル軍は壊滅。
四散した残党を蹴散らしながら、ダマスクス及びアレッポを解放しました。
「ムスリム世界の王はこの俺だ!!」
最強の敵と思われたモンゴル軍を撃退したこの戦いはムスリム世界において意義が大きく、
マムルーク朝に於けるシリアの支配を確固たるものにしました。
ダマスクスをクトゥズ直轄とし、北部のアレッポ総督の位はバイバルスに与えるという話が持ち上がりました。
ところがこの話は何故か立ち消えとなり、別の者に与えられる事になりました。
10月後半になり、クトゥズとバイバルスらマムルーク軍はカイロへの帰途につきます。
その途上も残党狩りを行ないました。
10月24日の事。
シリア支配がほぼ確定して機嫌の良かったクトゥズは、バイバルスの様子が気になっていました。
「ん?バイバルス、何か言いたそうだな?」
「あ、いや……、
恥ずかしい限りなのだが、
先日の残党狩りで捕虜にした中に気になる女が居てな……。」
「おお。軍将たるものが恋か。
どの女か言って見ろ。
いや、確かに、中に一人絶世の美女が居たな?」
「はい、その通りです。」
「良いぞ、構わん。あの女はバイバルスにくれてやる。」
「おお!実に寛大な!
有難き幸せ!
是非とも手に接吻させてください!」
クトゥズは勝ち誇ったように笑い、バイバルスに手を差し出しました。
バイバルスはその手に手を伸ばし、掴み取って引き寄せ、
隠したナイフをクトゥズの首に突き刺しました。
そのまま斃れ混むクトゥズを避け、
バイバルスはそのまますくっと立ち上がりました。
血液が大量に噴射するクトゥズは、もう抵抗する事が出来ません。
そして、ゆっくりと動かなくなっていきました。
事件の前に、既にクトゥズの周囲にはバイバルス派の人間を配置しており、
滞りなく暗殺を可能にしていました。
「スルタンが死んだ。
カイロへ直ぐに戻り、私がスルタン位を継承する。」
バイバルスが、マムルーク朝のスルタンに戴冠しました。
唐突なクーデターでした。
バイバルスはバフリーヤ出身である為、クトゥズまでとを区別し、
バブリー・マムルーク朝とも呼ばれます。
バイバルスはイラク地方の支配をアッバース朝王族によって安定化させる為、
ダマスクスに亡命していたアッバース朝王族のムスタンスィル2世をカリフ(ムスリム最高権力者)に擁立、
陥落させられたバグダードの復興を命じてバグダードに派遣します。
「幸いにしてモンゴルは内戦が起こっていてこちらには手を出せない。
今のうちにマムルーク朝の支配域を確かなものとし、
いずれ復活するモンゴル軍の侵攻に備えるのだ!」
モンゴル皇帝モンケは1259年8月11日に死去していました。
モンケはその前年、南征軍のクビライを危険視してその任を更迭し、
自ら南宋攻略に当たっていたところ、病死したのです。
悪環境の戦地で病を患ったされていますが、クビライ派による毒殺も疑われます。
モンケの突然死によって、同母弟のクビライとアリクブケが継承争いを始めました。
そして1260年、クビライが強引に皇帝に即位します。
フレグも継承争いに参加すべきところでしたが、彼の支配域でも問題が発生していました。
北接するジョチ家のジョチ・ウルスと軋轢が生じたのです。
「我がジョチ・ウルスから送った遠征軍が、
次々と謀反の咎で殺害されていると聞く!!
これは如何なる事か?!
話を聞けば謀反の様子は皆無であったというでは無いか!!
そして我が身内の相次ぐ不審死!
そちらで毒殺したのではあるまいか!」
ジョチ家当主の、ジョチの三男ベルケはフレグに猜疑心を抱き、
日に日に対立が深刻化していきました。
このように疑われている為に、フレグはクビライとアリクブケの争いに介入出来ずイランに留まらざるを得ません。
「ジョチ家のキプチャク汗国とはついに敵対関係になってしまった……!
この場所を離れるわけにはいかなくなった。
もう弟達も信用は出来ない。
私はこの場所に私の政権を樹立する。」
1260年秋、フレグはモンゴル帝国より独立してフレグ・ウルス(イルハン朝)を建国。
北のジョチ・ウルスと対立関係となりました。
バブリー・マムルーク朝にとって直接の敵であるフレグ・ウルスが、
その北のジョチ・ウルスと敵対関係になった事で、
バイバルスはジョチ・ウルスのベルケに接近しました。
ベルケは生まれた頃からムスリムとしての教育を受けていたようで、
モンゴル帝国の皇族の中でいち早くムスリムであった人物である為、
この国交も纏まりが早いものでした。
これに対してフレグの母や長子のアバカはキリスト教徒であり、
キリスト教に理解があったとも言われています。
キリスト教世界では、ムスリムを共通の敵とするモンゴルが味方であるという認識があり、
早くからコンタクトを取っていましたが、その影響もあってフレグの身内の者がキリスト教徒だったのでしょう。
こうした影響もあってジョチ・ウルスとフレグ・ウルスは敵対し易い環境であったはずで、
その結果バイバルスはベルケとは協力関係となり、
ベルケとフレグの戦争に於ける戦争避難民の受け入れまで行うようになります。
バイバルスはジョチ・ウルスだけでは無く、ルーム・セルジューク朝の政争にも介入します。
アナトリアに残存するルーム・セルジューク朝では、
カイホスロー2世嫡男カイカーウス2世とその実弟クルチ・アルスラーンの政争が続いていました。
1261年8月、フレグ・ウルス軍の協力のもとでクルチがカイカーウスを追放。
クルチがクルチ・アルスラーン4世としてスルタンに即位。
これでルーム・セルジューク朝の政権はフレグ・ウルスが握ったも同然になります。
追放されたカイカーウス2世は、アナトリアからの退去を余儀無くされます。
秩序の乱れた共通政権の無いベイリクでは彼を受け入れる事が出来ず、
結果、コンスタンティノポリスに亡命する事になります。
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コンスタンティノポリスは、
ラテン帝国を滅ぼして復活したパレオロゴス家のギリシア帝国皇帝ミカエル8世が支配していました。
「ルーム・セルジューク朝も虫の息か……。
フレグのイルハン国がその裏に付いているのだな。」
カイカーウスが対立するクルチの裏には、フレグ・ウルス。
フレグと対立するのが、ジョチ・ウルスとバブリー・マムルーク朝。
敵の敵は味方。
バブリー・マムルーク朝のバイバルスが、ギリシア帝国に接近する事になります。
こうして、バブリー・マムルーク朝、ジョチ・ウルス、ギリシア帝国が協力関係となりました。
対するのは、フレグ・ウルス、キリキア・アルメニア王国、十字軍国家、ラテン帝国………
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一方、コンスタンティノポリスから逃亡したボードゥアン2世はアテネに到着していました。
「しかし……、エピロス専制候国がニカイア政権に屈すのは時間の問題……。
なるべく早くフランスに援助を求めた方が得策かと……。」
「南イタリアとシチリア島はマンフレーディが支配している。
マンフレーディに助けを求めては?」
「ですが、マンフレーディは現在教皇庁と対立しています、、
果たして頼って良い人物なのでしょうか……。」
「シチリアかフランス……。いずれを頼りとすべきか……?」
「フランスはアラゴンとコルベイユ条約が結ばれています。
そして教皇庁はマンフレーディの対抗馬にフランス王弟を選択するという話……。
マンフレーディとの繋がりは、
フランスとの仲を悪くしないでしょうか?」
「やはり直接フランスを頼った方が良いのだろうか。
その前に、イオニア海を無事に通過出来るのだろうか?」
「クレタ島はヴェネツィア共和国が支配しているので、
先ずはクレタ島まで行ければ……。」
「今回の一件はヴェネツィアとジェノヴァの対立も絡んでいる。
ジェノヴァ艦隊に見つからないようにしないといけないな。」
「その先は……、」
「フランスを介してアラゴン海軍の力は借りられる可能性は?」
「はたして…………」
「これから……、厳しい船旅になろうな………」
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‥‥……―――アラゴン王国バルセロナ。
国王ハイメは険しい表情を見せていました。
次期国王となる嫡男ペドロの婚約者について悩んでいたのです。
「ラスカリス家の娘と婚約していたが……、
ラスカリス家は衰退してパレオロゴス家に乗っ取られてしまった……。
もはやパレオロゴス家との縁組は不可能に近い……。
ならば、地中海の覇権にもっとも近い人物といえば……、
やはりシチリア国王マンフレーディか………。」
「マンフレーディの娘を、私に?」
王子ペドロも動揺しました。
「もしマンフレーディに他に男児が産まれなかった場合、
ペドロとその娘の間の子がシチリア王となる。
南イタリアを征すれば、我がバルセロナ家が地中海の殆どを征す事になる。
ペドロにはその野望は無いのか?!」
「野望と言うよりか……、
マンフレーディは今、教皇庁から危険視されていて、
その対抗馬にフランスを選ぶ可能性もあるとか……。
それが本当になれば、
私はフランスと敵対関係となってしまう。」
「だとしてもフランスはフランス、
シチリアはシチリアだ。
決してコルベイユ条約を反故にするつもりは無い。」
フランスからの批難を案じ、
両国間で1257年に締結されたコルベイユ条約を更に確固なものにする為、
国王ハイメはフランスに対しても縁談を申し込んでいました。
1262年5月28日、17歳のフランス王太子フィリップ(1245-)に、
アラゴン国王ハイメの娘イザベル・ダラゴン(1247-)を結婚させました。
しかしその直ぐ後の1262年6月13日、
マンフレーディの娘コンスタンサ(1249-)が、
アラゴン王子ペドロ(1239-)と結婚する事になるのです。
こうしてモンゴル帝国内とマムルーク朝の対立構造が、
ラテン帝国とギリシア帝国の対立まで拡大し、
延いてはシチリア王国、フランス王国、イベリア諸国をも巻き込んで行く事になるのです―――………




