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031[ルイ8世]

031

[ルイ8世]


 ―――1223年8月6日、ランスのノートルダム大聖堂。


フィリップ2世嫡子ルイが、ルイ8世としてフランス国王に即位。

彼は36歳となっていました。

そしてこの日、ランスにて戴冠式を挙行しました。


豪華な青のマントを授けられ、笏を受け取ると、

王冠が被せられ、ルイは正式に国王ルイ8世となりました。


「私は父の意向を受け継ぎ、先ずは南仏への王権拡大に尽力したい。」


端整な顔付きに似ず、ルイ8世は武に優れており、

直ぐに南仏の平定を掲げて動くようになります。

亡き父フィリップ2世は、領地の確保に多大に貢献し、

偉大な王と称えられ、尊厳王とも呼ばれるようになっていました。

嫡子の新王ルイ8世はカペー家の伝統に違えて、父との共同統治時期を持ちません。

本来、王位は世襲であるという規則など無いので、後継者は選挙で決める事でも良かったのです。

しかし、王が自分の息子を後継者に指名し、生前から戴冠させて共同統治する事で、王としての実行力も身につけさせる、

カペー家は代々このやり方で世襲王朝を実現させていたのです。

ルイ8世はこの共同統治期間を持ちませんでしたが、

今やカペー家の血統が王位に誰よりも相応しいと国内外に周知されており、

だからこそルイ8世も滞り無く国王に戴冠できたのでした。


ブランシュとシャンパーニュ伯ティボー4世の厭な噂もありましたが、

ルイ8世王とブランシュとの間には、

嫡男ルイ(1212-)、ロベール(1216-)、アルフォンス(1220-)の他、

早生した者も含めれば10人以上の男女を儲けていました。


重鎮であったブルゴーニュ公爵位はウード3世(1166-1218)からユーグ4世(1213-,10歳)に代替わりしていました。

最も信頼出来たブルゴーニュ公爵は、まだ子供。

王室を支えるのは、同じく重鎮だったドルー伯。

ドルー伯ロベール2世も1218年暮れに亡くなってしまいましたが、

嫡男ロベール3世(1185-,38歳)はそれを良く継いでいました。

その弟ピエール・ド・ドルー(1187-,36歳)は、ブルターニュ女公アリックス・ド・トゥアール(1200-1221)が亡くなってからは、

嫡男ジャン(1217-,6歳)が成人するまでの間ブルターニュ摂政を務める事になります。

また余談となりますが、ブルターニュ公はプランタジネット家が所有していた時代の名残でアングルテール王国内のリッチモンド伯(リッシュモン伯)を名乗っていましたが、

この頃には既に自称に過ぎません。


フランス王国は既に教会からの信頼を勝ち得ていました。

アングルテール王国はもとい、ローマ帝国の帝権よりもフランス王国を重要視するような動きになりつつありました。

勿論それは、そもそも皇帝であるホーエンシュタウフェン家のフリードリヒ2世が殆どフランス国王の傀儡であった影響でもあります。


   「陛下。この案件ですが。」


突然ずかずかと書類を持参したのは、シャンパーニュ伯ティボー4世(1201-,22歳)でした。


「ん……、ティボーか。。。」


ルイ8世は露骨に嫌な顔をしました。


   「この、“ユダヤ人からの借金の禁止”の項は、反対意見が多数です。

    これでは一部の諸領主のみに有利となり不満の種となりましょう。

    他にもいくつか意見させて頂きたい内容がいくつかあります。

    こちらに、

    既に諸侯達の意見書を用意してありますので、

    一読願います。」


ティボー4世が書類を差し出すと、ルイ8世はサッと奪い取り、

さっさと帰れと言わんばかりに顎で突き返しました。


 (あいつめ……、この頃はますます図に乗りやがったな……)


重臣の代替わりが続く中で、

いつの間にか宮廷で強く発言が出来るようになっていたのが、

シャンパーニュ伯ティボー4世。

若年ながら彼は、王妃ブランシュの良き話し相手であり、

相談相手であり、政治の話も調子が合い、

ルイ8世よりも、政界に於いて信頼出来る人物となっていました。

ブランシュと性格が合うのは、ルイ8世よりも、ティボー4世でした。

彼は次第にルイ8世に対して反抗的な態度を取るようになってきていました。


「トゥールーズへ向かう!!」


新国王ルイ8世は、

この鬱憤を晴らすかのように、再び南仏ラングドックへ向かいました。


 ―――……‥‥


   ―――……‥‥・・・


 レスター伯子息アモーリとシモンのモンフォール兄弟の指揮するアルビジョワ十字軍は、統率力に欠けていて劣勢。

本来のトゥールーズ伯レイモン7世によって十字軍は撃退され、1224年までに多くの領地を奪われてしまっていました。


   「兄上!!カルカソンヌ城が奪われたというのは?!」


顔を真っ赤にしたシモンがアモーリに怒鳴りこんできました。


「ああ……。レイモンがついに入城したらしい……!」


   「くそっ!!

    兄上!なぜ早く俺の隊を利用しなかった!!

    カルカソンヌが取られたら、もう先が無いぞ……!」


「案ずるな。国王軍が間も無く合流する。

 これで、アルビ派は排除出来る事だろう。」


   「兄上?!

    なんと愚かな!

    それでは南仏はどうなる?!

    先王はモンフォール家にトゥールーズ伯領とプロヴァンス候領を与えてくれた!

    それを!国王軍が鎮めたというならば、

    先の話が立ち消えになるではないか!!」


シモンはアモーリに食ってかかりましたが、

アモーリはもう十字軍を指揮する自信を持っていませんでした。

彼らは軍の統率が出来ずに苦戦を強いられていました。


この代わりに、フランス国王ルイ8世が直々にトゥールーズへやってきたのです。


「アモーリ殿、これまで良く耐えてくれた。

 アルビジョワ十字軍は、新しく国王となった私が指揮を執ろう!!

 全て任せて頂きたい。」


   「陛下、何も出来ず誠に申し訳ありませんでした。

    ラングドックの支配権は全て委任します。」


こうしてアモーリは忠誠を誓ってすべてをルイ8世に託すと、

モンフォール兄弟はラングドックから撤退しました。


  ……このままで終わるものか!……


自領のモンフォールに退いた二人。

弟のシモン(1208-,15歳)の自分自身の領土の拡大という野望はここで一旦挫かれてしまう事になったのでした―――……。


南仏ラングドックの支配権を譲り受け、十字軍の指揮権を委託された国王ルイ8世。

ブリテン島での戦いは結局は敗戦でしたが、

彼の軍の強さは証明済で、ルイ8世の下に就きたい傭兵団も多く、

そしてなにより、教会からの協力も得ます。


 1225年、ルイ8世は軍をまとめてトゥールーズに赴くと、

先ずはレイモン7世を、教皇ホノリウス3世の名の下で破門にします。

彼はラングドックを拠点とし、アルビ派を次々と屈服させていきました。


・・‥‥……―――教皇庁。


   「ルイ8世は、なかなか出来る奴じゃのぅ。

    アルビ派をどんどん駆逐していくわい。

    よし、彼に十字軍の全指揮権を任せる事にしよう。」


1225年のルイ8世の活躍を見た教皇庁は、彼の軍力を再確認しました。


 1226年1月。

ルイ8世は、ブールジュでの教会会議の結果、老教皇ホノリウス3世によって正式に十字軍の主導を任される事になります。

大義名分を得たルイ8世は、さらに多くの援軍を得ます。

こうして南仏のアルビ派を締め上げていくと、さらに拡大して、

ブルゴーニュ公領との架け橋となるオーヴェルニュ伯領、そしてアラゴン王族領であったプロヴァンスまで占領しました。

ルイ8世は、そうして次々とアルビ派の領地を奪取。

ラングドックでの支配権を確立していきました。


「アヴィニョンが粘るか……。」


殆どが国王軍に街を解放していましたが、

トゥールーズとプロヴァンス候領の中間の都市アヴィニョンが未だにカタリ派に味方し、

硬く城門を閉じていました。

市は市壁に囲われており、堅牢な造りとなっていました。

アヴィニョン市は南北を流れるローヌ川を見下ろす都市で、

ローヌ河口のあるプロヴァンスからアヴィニョン、そしてリヨンから北は合流するソーヌ川を上ってディジョンへと続き、

ブルゴーニュ公領とブルゴーニュ伯領に続く交通の要衝でもありました。

1226年春、ルイ8世はそのアヴィニョンを包囲。

3ヶ月の包囲の末、7月30日についにアヴィニョン市を開城させました。


「アヴィニョン市にはアルビ派に加担した罰を与える!!

 市壁を完全に破壊しつくせ!!

 完全に武装解除せよ!!」


こうして、アヴィニョンはフランス王国の手に渡りました。

大概の場合、秋冬は軍役は行わずに自国に戻るものでした。

夏のうちに戦闘行為が終了した軍。


「今年は早めに王宮に戻るとするか。」


ルイ8世は、秋が本格化する前に帰途につくことにしました。


「では、アヴィニョンの警護を頼んだぞ。」


無論、完全撤兵ではなく、十字軍の本隊を残していくのです。


ところが、直後、思いがけない報告が彼の元に届きます。


「なに???軍がアヴィニョンを撤退した???何故?!」


    「はい……。

     シャンパーニュ伯ティボー4世殿の命令であると……。」


「ティボー?!!あいつめ!!なぜ勝手な事を!!!!

 直ぐに奴を呼び出せ!!!!」


パリへの帰り道の途中でティボー4世を呼び出し、

激しく口論したと言われています。

この時は仲介が入り、事無きを得たものの―――


オーヴェルニュのモンパシエ城に滞在中、

ルイ8世は急な発熱に襲われます。

数日間彼は魘され、ついには、意識不明に陥ってしまいます。


   「陛下が、、、!!!」

   「陛下ぁぁっ!!!!」

   「どうして、突然???!!!」


 1226年11月8日、国王ルイ8世、崩御――――――。

    恐らく死因は、戦地の水を飲んだ事による赤痢。

    来春産まれる予定の未子シャルルの顔を見る事なく帰らぬ人となりました―――


   「毒殺か?!」

   「シャンパーニュ伯の仕業に違いない!」

   「陣払いの事で口論していた!」

   「日頃から彼は対立していたぞ!!」

   「シャンパーニュ伯は危険だ!!」


シャンパーニュ伯ティボー4世による毒殺説が噂されました。


「ティボー4世が立場をわきまえずにそんな愚行に及ぶはずがないでしょう!!」


王妃ブランシュはこの抗議を擁護しました。

ティボー4世がパリへ到着すると、

直ぐに亡き国王の嫡男ルイが、ルイ9世として国王に即位。


 ―――1226年11月29日、ランスのノートルダム大聖堂。


ルイ9世の戴冠式が行われました。

ルイ9世は、まだ12歳。

もちろん、母親のブランシュが摂政となりました。


   「シャンパーニュ殿は先王と対立していて毒殺に及んだ!」

   「そのような者を王室に置く訳にはいかぬ!!」


戴冠式には、暗殺の嫌疑のあったティボー4世の出席を許されませんでした。

諸侯はティボー4世を敵視しました。


 ところが……。

ブランシュは言いました。


「これから私は幼き国王ルイ9世の摂政となり、

 シャンパーニュ伯ティボー4世と共にこの国家の政治をより良いものにしていこうと考えています。

 皆にも、反乱など起さずに協力していただきたい!」


そう、国で一番の権力者である太后ブランシュが、

ティボー4世を重臣として傍に置き続けると宣言したのです。

幼い王の摂政になった母ブランシュが、全てを取り仕切りました。

そして、何かしら処分を受けてもいい筈のティボー4世には罰は与えられず、伯位は維持されました。

ティボー4世は、さらに宮廷内で影響力を高めていくようになっていました。


   ――――なぜティボーがその地位を維持できる?!

   ――――先王を殺したのは彼だろう?

   ――――黒幕は、どう見たって母后ブランシュだ。

   ――――あの二人は、昔からデキていたからな。。。


宮廷では不穏な空気が流れ始めていました。

こうなると、地方豪族らが不満を持つようになっていきます。


   ―――そんな乱れた王室に頭を抑えられるなんて御免だ!

   ―――幼君の王室からの脱却を!!


ティボー4世の事もあり、国内では諸侯の反乱が相次ぐようになってしまいます。


   「ティボー4世は一族の恥!!」

   「ブランシュはやはり王国にとって毒であった!」


サン=ポル伯ユーグ5世・ド・シャティヨンを始めとしたシャティヨン家が声を大きくしました。

サン=ポル伯は、シャンパーニュ伯家宗家であるブロワ家を継いだ女伯マリーの夫であり、ブロワ伯領を有していました。

サン=ポル伯はシャンパーニュの他の領主を勧誘し、

さらに、ブルターニュやラ・マルシュの諸領主と反王母同盟を結びました。


ブルターニュ公はドルー家出身のピエール・ド・ドルー(1178-)。


「王室の風紀を乱す女狐は許さぬ!!」


ラ・マルシュ伯はユーグ10世・ド・リュジニャン(1185-)。


「フィリップ2世陛下の正しき政治を取り戻せ!!」


実はこのラ・マルシュ伯、

亡き父が過去に婚約したアングレーム女伯イザベル・ダングレーム(1188-)と1220年に結婚しており、

アングレーム伯領を得ていました。

イザベルにとっては、再婚であり、

既にアングルテール王国に5人の息女を設けていながら、アングレームに帰国していたのです。

ブルターニュ公領を得たドルー家分家と再興するリュジニャン家、

そしてシャンパーニュ領内を束ねるシャティヨン家が同盟を結び、

ブランシュ・ド・カスティーユの政治に対抗、

宮廷内での対立は激しさを増し、遂には大々的な武力衝突まで始まってしまいます。


   「そんなひよっこに王位を渡してなるものか……!

    俺だって正当なフィリップ2世王の血を受け継ぐ者だ!

    王位は渡さぬ!!!」


妻の権利よりブローニュ伯であり、クレルモン伯にもなっていたフィリップ・ユルプル(1201-)。

彼はフィリップ2世が愛した、そしてジャン王との対抗上離縁したアニェスの遺した子でした。

クレルモン伯ユルプル軍はクーシー伯アンゲラン3世・ド・クーシーが主導しました。


  ―――……‥‥


こうしたフランスの動きを、アングルテール王家も見逃してはいませんでした。

9歳で即位したアンリ3世王も20歳となっており、去年から親政を開始していました。


「母が遂に動きだすのだな。」


アンリ3世は口元を緩めました。


「父が失った領土は取り返してみせる!」


   「しかし、事は慎重に。」


軍務伯ウィリアム2世・マーシャルが冷静に応えました。

かのウィリアム・マーシャルは1219年に往生し、

子のウィリアム2世が父の遺領ペンブルック伯領を受け継ぎ、

さらに軍務伯と呼ばれる軍事における最高位にもありました。


   「我々が下手に動けば、

    反英で再度団結してしまう可能性もあります。

    誰がどう動くか、よく見極めないとなりません。」


「分かっている。

 さぁて、どう突っついてみるかな。

 先ずは、アングレームにいる母と連絡を。」


アンリ3世は不気味な笑いを浮かべました。

親政できるようになったばかりのアンリ3世は、無謀ながら外交を開始しました。


 1227年春からフランス国内では諸侯による暴動が起き始めており、それが全国的に波及。

殆どの諸侯がブランシュの政権に対立してしまいます。

幸いな事は、多くが協調性に欠けて連携出来ていない事。

その所為なのか、はたまた諸侯の反乱に阻まれた為か、

アングルテール王国からの大々的な遠征は見送られる事になりました。


諸侯の暴動を抑えつつ、ブランシュはアルビジョワ十字軍に注力しました。


「南仏を制圧して地中海を奪うのよ!」


亡きルイ8世が指導した軍は優秀で、

ブランシュが引き継いだ後も、次々とカタリ派の軍事活動を鎮圧していきました。

彼女の勢力は、アヴィニョンを中心としてプロヴァンス全土に拡大しました。

そして、何よりも諸侯の反乱が不調だった事には理由もありました。


「アルビジョワ十字軍は上々だ。

 トゥールーズ伯レイモン7世もおとなしくするだろう。

 やはりフランス国王の名が大きい。

 世俗君主の中で最も上位にあると言わざるを得ないだろう。」


教皇ホノリウス3世がこのようにフランス王国を贔屓目に見ていたのです。

教会の目もあった為にブランシュ政権反対派は積極的になり難く、

これによって南仏での活動は順調に進んでいたのです。


 しかし1227年3月18日。教皇ホノリウス3世が崩御。

79歳という、当時としてはかなりの長生きでした。

 後任は、先代の側近であった司教ウゴリーノ。

彼は、グレゴリウス9世と名乗り、教皇に戴冠しました。


  ……ついにこの時がやって来た。

    この時の為にこれまで影で努めてきたのだ。

    教皇となったからには、フランスの好きにはさせるものか……


引き継ぎや根回しにはまだ時間を掛ける必要があったので、

新任グレゴリウス9世の施策が表立つには時間を要します―――


前任教皇の影響力が尾を引いていた事もあり、

フランス王国のアルビジョワ十字軍は至って順調に進んでいました。


―――そして、1228年。


フランス王軍はついに、アルビ派の中心地トゥールーズを制圧しました。

敗北したトゥールーズ伯レイモン7世とプロヴァンス伯レーモン・ベランジェ4世は、

フランス王国と協定を結ぶ事になります。


「両者の和平の条件として、トゥールーズ伯領の東半分は王領に併合される。

 伯爵レイモン7世の唯一の相続者ジャンヌは、国王ルイ9世の弟アルフォンスと結婚する。

 また、国王ルイ9世は、プロヴァンス伯レーモン・ベランジェ4世の娘マルグリットとの婚約を決定する。」


 1229年4月、和平協定として、このような政略結婚を成功させます。

アラゴン王家バルセロナ家の血筋でもあるプロヴァンス伯の娘マルグリットが成人した時、幼王ルイ9世と結婚する事が決められました。

これが、モー条約です。


 無論、これで万事解決にはなりません。

この条約にバルセロナ家は反感を持ち、アラゴン王位を継承したハイメとプロヴァンス領を巡って争うようになります。

いずれにせよ、ラングドックの一部が王領に併合された影響は大きく、

カタリ派の活動は収束していきました―――


  ‥‥……―――


     ‥‥……―――


 そして、和平に反発する人物がもう一人………。


   「和平……だと!?

    ならば、俺たちがやっていた事はなんだったんだ!」


モンフォールに退いていたシモン・ド・モンフォールは怒りを露わにしました。


   「アルビ派を殲滅する筈だった!

    それなのにこの甘い終結とはなんなんだ!!」


息を荒げたシモンは、政府に軽く不信感を持ち始めていました。


   「ここは……、居心地が悪い。」


彼の兄アモーリは、十字軍の指揮権を取り上げられた後でも、

王国の軍務に重役として取り立てられていました。

しかし、弟の役目は軽い。

なら、自分が活躍出来る場所は―――……


   「レスターだ……」


彼の父方祖母がレスター女伯でしたが、

その相続者である父シモンは南仏に留まっていた為に正式に相続を認められていませんでした。

アングルテール王国的には、レスター伯は空位。


   「レスターで自分を試してやる……」


こうしてシモン・ド・モンフォールは、ブリテン島に渡る準備を始めました。


 一方、フランス諸侯の反乱は細々とは続いており、やっと共同体としてまとまりつつありました。

ラ・マルシュ伯やピエール・ド・ドルーの動きの活発化がアングルテール王国のアンリ3世の耳に届きました。


「よし、少し動いてみるか。」


アンリ3世は軍の派遣を決定すると共に、

1129年夏、ブルターニュから攻撃を開始しました。

ブルターニュはプランタジネット家によって統治されていた時期もあり、

ブルターニュ公国はアングルテール国王に臣従すべきと考える領主も多く存在していた為でした。


  ‥‥……―――ブルターニュ某所。

        ダービー伯の陣屋―――


   「伯爵。御目通りを願う者が訪れております。」


「む?」


60歳を過ぎたようには思えぬ筋肉質な男、

ダービー伯ウィリアム2世・ド・フェラーズは身を乗り出しました。

彼はウィリアム1世・マーシャルと共にアンリ3世の王権確立に貢献して多くを戦い、

今は王の代理人の一人に数えられる重役にありました。

ダービー伯が続きを促すと、使者は言葉を続けました。


   「はい。

    その者は、レスター伯の孫を名乗っているのです。」


「なんと……。

 ボーモン様の孫と……!」


ダービー伯は嬉しそうにその者、

シモン・ド・モンフォールを招き入れたのでした―――……


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