032[第六回十字軍]
032
[第六回十字軍]
それより少し昔……、ドイツ―――。
「ペラギウスが無謀な作戦を考えたからいけない!!」
「いや!エルサレム王ブリエンヌが途中で退去したのが悪い!」
「そもそも皇帝フリードリヒ2世が出撃しなかったのは何故だ!!」
第五回十字軍が成果なく終了したのは1221年の夏でした。
原因は多々あるものの、教皇グレゴリウス9世(当時は就任前で司教ウゴリーノ)は、
再三の出陣要請に応じなかった皇帝フリードリヒ2世(1194-)を批難し、破門をちらつかせていました。
次なる十字軍の編成は、前回の第五回十字軍の直後、1221年秋から計画されました。
・‥‥‥‥‥―――ローマ。
「皇帝フリードリヒ2世よ!!
お主は何故、再三の十字軍参加に応じぬのだ!」
司教ウゴリーノは、フリードリヒ2世に対して怒りの文書を送り付けました。
対してフリードリヒ2世は、「ドイツは大軍を送ったではないか。」と返答。
「違う!皇帝が直接来いと命じた!!
何故お主が正式に戴冠出来たのか、全く理解していないようだな!
お主を神聖ローマ皇帝として戴冠する、
これをホノリウス3世猊下がお認めになったのは、
お主が直々に十字軍の指揮を執るという契約の元だ!
この契約で、お主が十字軍でドイツを不在にするからと嫡子ハインリヒ7世にドイツを委ねさせると認めたのだ!
決してイタリア政策に専念させる為では無いわ!!!」
司教ウゴリーノは、厳しくフリードリヒ2世を批判していました。
老教皇ホノリウス3世を通じて破門の脅しを掛け、十字軍の指揮を要請していました。
しかしやはり十字軍に熱心でなかったフリードリヒ2世は、中々態度を取りませんでした。
1225年になると、フリードリヒ2世は、エルサレム王ジャン・ド・ブリエンヌの13歳の娘ヨランド(イザベル)、つまり事実上の女王イザベル2世と結婚しました。
もちろんこれも、皇帝の目をエルサレムに向けされる為の政略的なものでした。
「分かりました……、
ですが、結婚したばかり。
少し時間を貰ってからにしていただけないでしょうか。」
さらに2年もの猶予を貰い、出兵を先延ばし先延ばしにしました。
その猶予、2年の月日が流れた1227年、
フリードリヒ2世はやっと十字軍を準備し始めました。
出発はその春。
十字軍の準備は着々と進んでいました―――
その最中の、1227年3月18日。
十字軍出発の直前に、教皇ホノリウス3世が崩御。
司教ウゴリーノがグレゴリウス9世として教皇に戴冠しました。
「今度こそ、皇帝フリードリヒ2世が十字軍を率いよ!」
第六回十字軍は、ローマ皇帝フリードリヒ2世を筆頭としたドイツ諸侯らが引き連れて、聖地エルサレムへと向かうことになります。
ところがその途上、というか、
まだイタリア半島にいた時に、軍内でマラリアが流行ってしまいます。
ドイツ軍はこの疫病で多くの卒兵を失ってしまいます。
「うむぅ、この様子では、先へ進むのは困難だ。
仕方ない、引き返すとしよう。」
フリードリヒ2世は直ぐに軍を引き返してしまいました。
……―――そして、ローマ。
「それで?!!
のこのこと帰って来たというのか!!!ドイツ軍は!!
フリードリヒ2世よ!!
お主!その態度もいい加減にしろ!
もうホノリウス3世のような生ぬるい事はしない。
フリードリヒ2世は破門だ!!!」
教皇グレゴリウス9世は、ついにフリードリヒ2世を破門にしてしまいます―――…‥。
・・‥…――むむむ。
フリードリヒ2世は頭を抱えました。
「遂に破門されてしまったか…。
仕方ない、来春は、もう一度軍を出そう。
しかし、大々的な戦闘は避けたいものだな。
スルタン・アル=カーミルは、
ずっと十字軍に対して和平を訴えてきていたから、
なんとか交渉次第では……―――…。」
フリードリヒ2世は重い腰をあげ、再びエルサレムへと向かう事にしました。
・・‥‥……―――ところが、教皇グレゴリウス9世の反応は。
「フリードリヒ2世が聖地へ向かっただと?
馬鹿な。奴はもう破門された身だ!
いくら十字軍を名乗っていても、俺は認めないぞ!」
教皇は、フリードリヒ2世の率いる十字軍を、正規軍として見ていませんでした―――。
教皇が皇帝に敵意を剥き出しにし始めたこの頃、
教皇は、フリードリヒ2世の前妻の子ハインリヒ7世を傀儡にしようと企んでいました。
フリードリヒ2世は既に1220年に協同統治者としてローマ王位をハインリヒ7世に渡している為、
ハインリヒ7世は実質的にはドイツの統治者となっていました。
教皇庁はハインリヒを傀儡にして、ドイツとイタリアを手っ取り早く支配しようとしていたのです。
ハインリヒ7世は、皇帝に対する、教皇に都合の良い対抗馬にされていたのです。
この為、教皇と皇帝の対立は、子と親の対立にも置き換えられ、
教皇派と皇帝派(ホーエンシュタウフェン派)という対立構造を明確化し、武力衝突すら起きている状況でした。
またホーエンシュタウフェン派はヴェルフ派と対立関係であったので、ヴェルフ派は教皇派を支持。
この為軍事面ではヴェルフ派が教皇派の中心となり、
教皇派がヴェルフ党とも呼ばれるようになっていました。
教皇派と皇帝派は、それぞれイタリア語ではゲルフとギベリンと呼ばれます。
皇帝のイタリア政策は今に始まった事ではありません。
ホーエンシュタウフェン家のバルバロッサの時代から、それに対抗するべく多くのコムーネが同盟を組むようになっており、
1164年にヴェネツィアなどが参加するヴェローナ同盟、
これがさらに拡大して1167年にロンバルディア同盟が組織されていました。
皇帝に対抗するこのロンバルディア同盟は教皇庁と結びつきました。
この曲がりなりにもまとまった反皇帝派に、ハインリヒ7世までも利用されていたのです。
「ハインリヒの奴め……!!
もう許しては置かぬ……!
シチリア王国は力尽くでも奪い返す!」
―――1228年夏。
フリードリヒ2世は、イザベル2世との間に無事に子が誕生すると、
教皇に脅されながら(という胸の内で)軍をエルサレムまで連れてやって来ました。
「さて。問題をどのようにして早く片付けるか。
シリアでもたもたしている時間は無い。
さっさと帰国して、イタリア政策の続き…、
我が子の力を牽制しなければならん……。
早くシチリアに戻って、ヴェルフ党との権力闘争に決着をつけなければならぬ…!!」
――………
一方、十字軍が対峙するアイユーブ朝スルタン・アル=カーミル。
彼はもともと十字軍に対して好戦的ではありませんでした。
この頃カーミルは相続地を巡り弟達と争っており、周辺諸侯の反乱も起きていました。
対立が深まる事によって、キリスト教国との接近も必要視されてきていました。
さらに、アジア圏で勢力を拡大していたモンゴルの動きも注意せねばならず、十字軍の相手など出来る余裕は無かったのです。
――我々アイユーブ家も、十字軍フリードリヒも、戦いは望んでいない。
早期の、平和的解決を望む。――
両者はそれぞれが戦いを望んでいないことが分かると、武力ではなく、和平交渉が始まることになります。
二人はアラビア語で書簡を交わしながら交渉を続けました。
こうして、1229年2月、ヤッファにて協定が結ばれました。
その協定とは、
・岩のドーム以外のエルサレムの領地の統治権はフリードリヒ2世に譲る。
・しかし、イスラーム思想も理解する者はキリスト教徒でも岩のドームへ入る事が出来る。
・もしキリスト教軍がエルサレムを攻撃する動きを見せた場合、神聖ローマ皇帝は、ムスリム君主を守る義務を負う。
・エルサレムに軍事施設を建築してはならない。
―――というものでした。
――私はフリードリヒという良き友を得た!
私は彼の帝国が硬くこれを守ると信じエルサレムを開け渡そう!
我々も、約束が守られている限り、
硬くこれを守り帝国と友好である事を主張しよう!――
ここに、両者は10年の休戦条約を結ぶ事になったのです。
5月、フリードリヒ2世は、エルサレムに代官を置いて、ドイツに帰国しました。
協定の通りに、エルサレムには、カーミルの父アーディルが破壊した城壁が再建される事はありませんでした。
・・‥‥…―――ところが、この平和裏な解決に、教皇側は不満でした。
「何故戦わずに帰ってきた!!
キリスト教徒であれば、ムスリムは殲滅すべきだった!!
あれだけムスリムが弱気なのであれば、
戦えば、旧エルサレム王国領を全て手に還せたはずだ!!
だいいち、破門されている者の業績など認めるものか!!」
そして1230年。
フリードリヒ2世を批難したグレゴリウス9世は、ついに彼に対して軍を差し向けました。
フリードリヒ2世は、その軍を撃破―――。
「エルサレムの巡礼を約束してくれた皇帝に軍を送った?」
「そんな馬鹿な話があるか!今度の教皇はなんてヒドイ奴なんだ!!」
「フリードリヒ2世は兵を失わずにエルサレムの問題を片づけた英雄だぞ!!」
民衆はこの事件に対し、教皇庁に不信感を抱くようになります。
こうして教皇の信意は落ちていき、逆に皇帝の評価は上がっていってしまいます。
「むむ……。フリードリヒに軍を送ったのはまずかったか……。
彼を認めなければ、教皇権に傷が………。」
そして、この声によって、フリードリヒ2世は無事破門を解かれたのでした。
教皇庁が世俗領に介入している事に民心は不快感を示し始め、
教皇権が揺らぎ始めていました―――……‥‥
・・・‥‥……―――
・・・‥‥……―――
―――1230年5月、ウィンチェスター。
「陛下、では参りましょう。」
馬車の中のアンリ3世が頷き、軍は宮廷を後にしました。
ダービー伯の息子でチェスター伯であるウィリアムが護衛するこの軍。
アングルテール国王軍がついに渡仏する事になったのです。
ブルターニュやラ・マルシュなどサン=ポル伯を中心とした、
フランス王国の政治体制に反発する同盟軍の動きに乗じて、
アンリ3世は英国政府の反対を押し切って渡仏を決めたのです。
パリは、このアングルテール王国の動きを察知しないはずはありません。
摂政ブランシュはティボー4世に援軍を与えました。
「他国の介入を許してはならぬ!
国王の名の下、我々諸侯は団結せねばならない!」
ティボー4世はまず、反王室同盟の切り崩しに取り掛かります。
「名家ともあるシャティヨン家が王に対立するとは情けない!
ブロワ伯を受け継ぎながらも王室に逆らうのか!
君たちが煽るがゆえに、王位継承権のあるフィリップ・ユルプル様の蜂起に繋がってしまった。
血族の争いは敵国に隙を作るのみで何も理にならない!
王国の為を思うならブランシュ様の決定に従いなさい!」
ティボー4世の言う事は至極当然。
サン=ポル伯は、「アングルテール王国が動くとなれば」と直ぐに王室側に寝返りました。
面白く無かったのは、同盟を解除されたブルターニュとラ・マルシュ。
最も強力とされるサン=ポル伯の寝返りによって即時の軍事行動が不可能となり、
せっかく渡仏したアングルテール王国軍も活動出来なくなります。
そして秋になりました。
「本国から、
これ以上フランスに留まっていても無駄、
速やかに帰国するように、との通達が来ています。」
「ふんっ!」とつまらなそうにしていたアンリ3世。
「分かった。
ここは居心地が悪い。直ぐ帰る。
そうだ。
チェスター伯よ。
せっかくだ、あの者を国に連れていってやろう。」
「あの者……?
まさか………、
モンフォールの事でございますか?」
「そうだ。あの者の野心、気に入った。
我が国に仕えて貰おう。」
「承知致しました。
父に居所を教えて貰います。」
こうして、シモン・ド・モンフォールはブリテン島に渡る事になりました。
アングルテール国王軍が帰国した後の冬、1231年にもなると、
反フランス王室同盟軍の動きも完全に鈍り、
ブランシュが直々に主導する王軍が優勢となりました。
また、ティボー4世率いるシャンパーニュ軍はブルターニュへ侵攻し、
ピエール・ド・ドルーの寄るサン・トーバン・コルミエ城を包囲。
「ブルターニュ公よ!
素直に負けを認めるならば、
其方の父の偉勲に免じて城の保有は認める。
速やかに降伏せよ!」
1231年6月24日、サン・トーバン・コルミエ条約締結によって、
3年間、1234年7月までの休戦が結ばれる運びとなります。
摂政ブランシュ・ド・カスティーユとティボー4世による政治体制に不満を持つ者は絶えませんでした。
ところが二人の摂政が小さな反乱を抑えている一方で、
国王ルイ9世は内政を強化しつつありました。
ルイ9世は、母に対する風当たりが強い事も理解しており、
早く親政する必要がある事も理解していました。
「なんとか、僕がこの国をまとめなければ。
母の監視下から逃れて、強くならないと……!」
―――……‥‥・・・
―――……‥‥・
ところ変わって。
―――イベリア半島。
カスティリア王国と国境争いを繰り広げていたポルトガル王国は、
アフォンソ2世(1185-1223)から息子のサンシュ2世(1207-)、
及びその弟アフォンソ3世(1210-)に代替わりしていました。
サンシュ2世は内政が不調で、貴族と教会の争いに悩まされていました。
ポルトガル王国が本格的にカスティリア王国からの独立に向けて動き出すには、まだまだ力不足でした。
カスティリア王国では、アルフォンソ8世(1155-1214)とアングルテール王女エレノア(1162-1214)との間の嗣子エンリケ(1204-1217)に変わって長女ベレンゲラ(1180-,54歳)が摂政となっていました。
また、彼女の妹ウラカはポルトガル国王アフォンソ2世妃、
ブランシュがフランス国王ルイ8世妃となっています。
摂政ベレンゲラはレオン国王アルフォンソ9世(1171-1230)と結婚しており、
二人の間には1201年にフェルナンド3世が産まれていました。
エンリケが若くして事故死した時、摂政ベレンゲラが女王となるよりは16歳に成長していたフェルナンドの王位を望む声が大きく、
フェルナンドがカスティリア国王となりました。
1230年に父であるレオン国王が亡くなるとレオン王位も継承し、
カスティリアとレオンは再び、フェルナンド3世の下で同君連合王国となりました。
フェルナンド3世はホーエンシュタウフェン家のドイツ王フィリップ(1177-1208)の娘ベアトリスと結婚しており、
アルフォンソ(1221-)を初めに七男三女も産まれていました。
カスティリア王国はこのように周辺各国との婚姻政策によって、イベリア半島一の大国に成長していました。
ナバス・デ・トロサの戦いの後もレコンキスタは積極的に行われており、
ムワッヒド朝やハフス朝は殆ど瓦解し多くのタイファがカスティリア王国に吸収されていました。
アンダルス地方の軍事指導者ムハンマドは1232年にナスル朝を興しました。
ナスル朝は当初はハフス朝支配下にありましたが、
カスティリア国王フェルナンド3世との関係を築く事でイベリア半島に残る事を認められ、
ナスル朝(後のグラナダ王国)はムスリム君主国でありながら、
キリスト教国カスティリア王国の封建家臣に似た立場でイベリア半島に領土を維持する事になります。
これと同じ頃、アラゴン国王ハイメも領土拡大を進めていました。
1229年からバレアレス諸島の攻略を始めてマヨルカ島を占領。
さらに1232年にはバレンシア地方の攻略も開始していました。
フランス王国とは国境を巡って争っている関係でしたが、積極的な敵対行動は控えている状況でした。
・・‥‥……―――1234年、ナバラ王国。
4月7日、ナバラ王サンチョ7世(1154-1234)が、長寿の末に逝去。
“あの戦い”を指揮した英雄だったサンチョ7世でしたが、
早くに病床にあり、妃コンスタンス・ド・トゥールーズ(1195-1200)との間に嗣子はありませんでした。
サンチョ7世には二人の妹がいました。
上の妹ベレンガリア(1165-1230)は、アングルテール国王リシャール獅子心王の妃。
情勢の関係からブリテン島に足を踏み入れる事なく下の妹の住むシャンパーニュで暮らし、
子を作る事なく1230年に死去しました。
その下の妹ブランシュ(1177-1229)が、なぜシャンパーニュに住んでいたのかというと、
彼女の夫が、シャンパーニュ伯ティボー3世(1179-1201)であったから。
ブランシュは初めての子を妊娠中にティボー3世が死去した為、遺した子はただ一人でした―――……
―――パリ王宮。
「つまり、私がナバラ国王位継承者ということになります。」
シャンパーニュ伯ティボー4世がルイ9世に礼をしました。
「シャンパーニュ伯が、ナバラ国王となる、ということか。」
「はい。その通りです。」
ナバラ王位継承権を持つ者は現シャンパーニュ伯ティボー4世のみ。
「ナバラに帰るのか?」
「いずれは……。
陛下の縁談の話がまとまれば、一度ナバラに戻ります。」
「縁談か。
アラゴン王国はそれで納得しそうなのですか?」
「ええ、もう問題は無いでしょう。
今はカスティリア王国もレオン王国と同君となって落ち着いたばかりで、
フランス王室とアングルテール王室にも、とりあえず和平が保たれています。
私がナバラ国王に即位する事になれば、フランスとナバラは一心同体。
アラゴン国王ハイメも下手な事はしないと考えます。」
フランス国王ルイ9世とプロヴァンス伯レーモン・ベランジェ4世の娘マルグリットとの婚約は、アルビジョワ十字軍終結の折に決定していました。
当初はトゥールーズ方にあったアラゴン王国もハイメに代替わりして久しく融和的に転じていました。
マルグリットも今年13歳に成長した為、この春に結婚式を控えていました。
1234年5月27日。
20歳の国王ルイ9世と、13歳になったマルグリット・ド・プロヴァンスの結婚式が行なわれました。
ルイ9世は既に公平な判断力も備わって実行権を有しており、諸侯からの信頼を得るのには時間を必要としませんでした。
ティボー4世に対する反乱も未だに健在でしたが、
ブランシュが軍を指揮してくれていたお陰で、ルイ9世は内政を整える準備は充分に出来ていました。
「それでは陛下。」
シャンパーニュ伯ティボー4世は国王ルイ9世の手を取りました。
「これまで良く我が国の摂政を勤めてくれた。
本当に感謝しています。」
「もったいなきお言葉。
これからは、フランス王国とナバラ王国は、
このように手を取り合って共に発展していく事を願っています。」
ティボー4世は、1234年6月8日、
ナバラ王国国王テオバルドとして戴冠。
彼はこの時33歳でした。
ここにナバラ王国は、フランス王家の最大の協力者という事になるのです。
―――……‥‥
ブランシュとティボー4世の政権に反対だった者たちは……
「田舎の貴族だったくせに良い気になるな!」
「母后のお気に入りだからってフランスの宮廷でデカイ顔をするな!!」
「……い、いや、待て、今や相手はナバラ国王……。
一国の主だぞ……。」
「た、確かに。下手をしたら、フランスとナバラが…。」
「それだけでは無い、ナバラが敵に回れば、アラゴンとカスティリアの事まで考えねばならない…。」
「う…、これは…、下手に手を出せないという事か…。」
ブランシュの政治に反感を持っていた諸侯の反乱も、
ティボー4世のナバラ入りと、次第に実行権を持ち始めたルイ9世を前に沈静化。
また、王位継承権のあったフィリップ・ユルプル(1200-1234)は不慮の事故死を遂げ、
彼によって創設されたクレルモン伯爵位は子のアルベリクが継ぐ事になりますが、
実質は再び王領に戻ったようなものとなりました。
ブルターニュと結んだ休戦条約の期限は過ぎていましたが、
フランス国内の反乱は一気に収束し、国内の不安的要素は消えていったのでした―――……‥‥・・。




