201[トレチェント]
201
[トレチェント]
ライン川は、アルプス山脈西部を北に流れると、
ドナウ川源流を受け持つシュヴァルツヴァルト山地に突き当たる為に、
その流れを大きく西に向けられ、西進します。
高ライン川と呼ばれるこの流域を進むと、
その後バーデン辺りでジュラ山脈北部とヴォージュ山脈に突き当たり、北上させられます。
この辺りから上ライン川と呼び、
西のプファルツヴァルト山地と東のシュヴァルツヴァルト山地の合間を北上し、
ネッカー川などと合流しながら、今度はタウヌス山地にぶつかります。
ここマインツでは、
東のフランクフルト方面からやって来たマイン川と合流し、再び西に曲げられます。
今度はフンスリュック山地にぶつかるので、
フンスリュック山地とタウヌス山地の細い谷間を縫って再び北上します。
この辺りから中ライン川と呼ばれ、南仏東部から北上するモーゼル川が南西から合流します。
中ライン川はアイフェル山地とヴェスターヴァルト山地の合間を縫うと、
いよいよ平地に出る事になります。
ボン、そしてケルン辺りからは下ライン川と呼ばれてドイツ中央の平原を北北西に進み、
ナイメーヘンでは、南から流れて来るマース川とは完全には合流しないまま低地地方に入り、
マース川下流部と並走するように流れてからワール川とレク川に分流し、そしてマース川と共に北海に注ぎます。
川沿いの道は塩の道として古代から栄えました。
広大なヨーロッパの大地を縫っていく大型河川は流域が広く、
様々な文化が交流してその街道へと流れていくので、発展の早さも桁違いでした。
様々な川が流れるネーデルラント諸国はブリテン島との貿易で著しい発展を遂げています。
マース川流域のリエージュやアーヘンと下ライン川流域のデュッセルドルフ、ケルン、ボンは平地の為に交流し易く、また、
モーゼル川流域のルクセンブルクやトリーアからは、
ヴォージュ山地の峠を東に越え易く上ライン川沿いのシュトラースブルクにアクセスし易い為、
互いに文化交流が進み、様々な文化が南北に行き交いました。
もちろん古来から西欧の主要舞台は北海ではなく、温暖な地中海からでした。
地中海に浮かぶ島々から発達した文明が、次第に内陸部へ入り込んでいくようになりました。
ローマ人は先ず外敵のいないテヴェレ川中流に居を構えてから外側に発展していきましたが、
イタリア半島南部統一後は、半島基部西部から半島東岸のアドリア海に注ぐポー川流域を抑えようとしました。
その後、バレアス海、アドリア海、エーゲ海、そして北アフリカ海を制圧して、
さらにアナトリア半島などを制圧してから、やっとガリアへと進出しようとしました。
地中海西部に注ぐローヌ川は、アルプス山脈西部北麓から西側に向かって流れ、
ライン川を大きく北に曲げたジュラ山脈の南部が今度はこのローヌ川を南に曲げます。
アルプス山脈を避けるようにジュラ山脈地帯を西流すると、
リヨンで真っ直ぐ南流するソーヌ川と合流します。
ソーヌ川と合流したローヌ川は、ヴィヴァレ山地、さらにその南のセヴェンヌ山地の東側を南下し、
アヴィニョンを通過してアルルから地中海に注ぎます。
北から南へ流れるソーヌ川の起点であるラングル高地は、マース川流域及びモーゼル流域と背中合わせであり、
険しい山塊は無くほぼ平らな高原である為、互いにアクセスし易い環境にありました。
よって、ソーヌ川を登るとマース川とモーゼル川に進み易い事を意味し、
ソーヌ川の支流のドゥー川の起点はバーゼルに近く上ライン川にアクセスし易い。
つまり、地中海のローヌ川を上り、ソーヌ川、ドゥー川からライン川流域に進むと、
ネーデルラント、つまり北海へとアクセスする事が出来るのです。
ネーデルラントを抑えたローマ帝国は、海岸沿い西に拡大すると、
ノルマンディーに流れるセーヌ川流域も一挙に支配する事になります。
セーヌ川とマルヌ川の起点は、
南流するソーヌ川流域と北流するマース及びモーゼル川流域を隔てるラングル高地から北西に流れ出ている川で、
セーヌ川とマルヌ川はパリで合流、ノルマンディー公国のセーヌ湾に流れます。
北海のブルージュから、リール、アラス、アミアン、そしてパリへはほぼ平地であるので移動し易く、ラングル高地からもアクセスし易いのです。
パリとモーゼル川沿いのメッスがランスで結ばれ、
パリとソーヌ川沿いのディジョンがトロワで結ばれ、
アラス、ランス、トロワが一直線に結ばれており、ソーヌ川沿いのディジョンに進めるのです。
ソーヌ川とローヌ川を南流させているセヴェンヌ山脈は、
その北からロワール川が中仏を北上し、途中から東へ向かってブルターニュ公国のナントに向かいます。
同じセヴェンヌ山脈の西側からはガロンヌ川が流れており、
ピレネー山脈北麓からの流れを集めてアキテーヌ公国のボルドーへと流れています。
流域毎に別々の勢力が隆盛している事が良く分かるかと思います。
人の生活にとって、特に食糧の保存に必要不可欠なのは塩でした。
よって、人の集まる所と海の間には非常に早くから道が整備され、
文化が発達すれば都市が出来、次第に都市同士を結ぶ幹線道路が作られるようになります。
ただし幹線道路は、川の氾濫を避けるように尾根伝いである事も多いのはどこの国でも同じで、
必ずしも大河沿いに大都市があるわけではありません。
大型河川の周囲には、古代ローマ人が作ったローマ街道が網の目に張り巡らされていました。
古代の人が作ったローマ街道は、今も利用され続けています。
「全ての道はローマに繋がる」とは良く言いました。
世界中の都市がローマを通して繋がり、文化交流が行なわれ、
様々な技術が生まれ、そして発展していきました。
北海から大都市を繋いでいくと、
ロッテルダム、ユトレヒトなどのネーデルラント各都市から、
マース川流域を南に、リエージュ、ナミュール、シャルルロワ。
リエージュから平地を横移動するとアーヘン、そしてライン川沿いのケルンに到達します。
ケルンからアイフェル山地を越えてモーゼル川沿いのトリーアに向かい、
モーゼル川を上って、ルクセンブルク、メッス、ナンシーへと向かい、
そこからさらに南はラングル高地を乗り越えてディジョン、
そして東のプザンソンから流れるドゥー川とマコンで合流、
少し先に進むとリヨンに到着します。
ケルンからそのままライン川を上って、ボンからコブレンツへと進むと、
マインツ、その少し先はフランクフルト、
そしてマンハイム、カールスルーエ、シュトラースブルク、フライブルク、
そしてバーゼルに到着します。
バーゼルから先は東に進むとドナウ川流域のウルムやアウグスブルク、
西に進むとドゥー川沿いのプザンソンに進め、
さらに進むとアルプス西麓から流れるローヌ川と合流するリヨンに到達。
そしてアヴィニョンを過ぎるとアルルに出、
モンペリエとマルセイユの地中海の港に通じます。
ケルン-リヨン線とフランクフルト-バーゼル線の二つの縦ラインは、
特に古代ローマ人達の流通の源となり、いち早く発展しました。
ローマ帝国がキリスト教を公認して伝える時も、この街道を北上しました。
ローマ帝国が崩壊して、ローマがフランク王国を後継国と認めた時もこの街道は利用されました。
地中海世界が中心だった古代とは違い、フランク王国の時代となり、
そしてそれが分裂すると、セーヌ川流域の西フランク王国と、ライン川流域の東フランク王国は、
マース川及びモーゼル川流域とソーヌ川及びローヌ川流域を領有する中部フランク王国を巡って争い、
東フランク王国が神聖ローマ帝国へと発展していく過程で、
権力の中心は凡そこの上ライン川流域に集中しました。
教会も多く建てられ、教会都市街道としても栄えるようになります。
神聖ローマ皇帝は、その名の通りローマを支配下に収めるべく、
「イタリア政策」と呼ばれるローマ遠征を度々行ないました。
ドイツ地方からイタリア半島の中腹にあるローマへ陸路で行くには、
アルプス山脈を越えて行かなければなりません。
ローヌ川流域から海沿いに進むには遠回り過ぎるので、
ゴッタルド峠を越えてミラノからピアチェンツァ、そしてジェノヴァに進む西ルートか、
インスブルックからブレンナー峠を越えてヴェローナからヴェネツィアに進む中央ルートか、
若しくは東欧諸国の場合はドナウ川沿いのウィーンを経由する東ルートの場合もありますが、
大まかにはこの西ルートか中央ルートのどちらかのルートを選択する事になります。
このブレンナー峠からヴェローナに向かう街道の真北の延長上には、
バルト海に面したポメラニア地域のシュチェチン港があります。
シュチェチンから街道を南下すると、
ベルリン、ライプツィヒ、イェーナ、ニュルンベルクと続き、
ドナウ川沿いのアウグスブルクとミュンヒェン、そしてインスブルック、
ブレンナー峠からヴェローナとヴェネツィアへ。
そしてローマへと向かうには、ボローニャからアペニン山脈を越えてフィレンツェに入る事になります。
これらの都市の中でも、
パリ、フランクフルト、エアフルトから、ヴロツワフ、クラクフと通じる東西の街道と交差するライプツィヒは大きな発展を遂げ、
この南北と東西の街道は帝国街道とも呼ばれています。
いずれにしてもアルプス越えと言うのは難関であり、
これらの峠道を領有する貴族は、次第に権力を持つようになります。
峠を領有するヘルヴェティア地方やチロル地方は周辺各国から服属を迫られる為に軍事強化され、
街道沿いの地方都市の権力の増大は目立つようになります。
中央集権化が進むミラノ、そしてさらにフィレンツェにもその傾向が現れ出していたのでした。
・・・‥‥……―――……‥‥・・・
やあ。ジョヴァンニ。久しぶりだね。
手紙ありがとう。やはり君の詩はとても素晴らしいよ。
フィレンツェも大変だったみたいだね。
そっちの教皇派と皇帝派の軍事闘争も一応収束したみたいで良かったよ。
いや、本当に良かったと言えるのだろうか……?
ミラノ大司教位の方も、結局、
偽教皇ニコラウス5世に着いたジョヴァンニ・ヴィスコンティは、
ノヴァラ司教に落ち着いたみたいで一件落着と言ったところのようだよ。
出頭したニコラウス5世は今もアヴィニョンに収容されているらしい。
念の為に伝えておくと、
ミラノ僭主のアッツォーネ・ヴィスコンティは、
彼は僕と同年代で若い党首だけれど、
叔父であるノヴァラ司教ジョヴァンニ・ヴィスコンティがそれを支えられる状況となったので、
その父ガレアッツォの遣り方を巧く引き継ぐ事が出来るようになった。
これから益々ヴィスコンティ家がミラノで台頭するようになるだろうね。
フィレンツェの件もジェノヴァの件も、結局はナポリ国王が介入したらしいけれど、
ミラノに関しても、フランス王国はヴィスコンティ家を無視できなくなってきた感じを受ける。
もしヴィスコンティ家が正式な大貴族になって爵位を受けようものならば、
フィレンツェにも追随するような貴族が現れるかも知れない。
君も情勢を良く見ておくと良い。
銀行家としても医師としても名を見る事が多くなったメディチ家なんかは、
動きを注視した方が良いかも知れないな。
おっと……。僕がそんな事を口出しするなって話かな?
じゃぁ僕の近況を話そうか。
僕は、ある程度僕のやるべき仕事が完成したんで……
え?仕事じゃなくて趣味じゃないかって?
いやいや。僕のは仕事だよ。
最近のラテン語は古代語とだいぶかけ離れていて、
昔の素晴らしい文学を読めない人が多くなって来ているだろう?
そう言う人達にも、古代の様々な作品に親しんでもらえるように、
世界中の人達が理解出来るようにしてあげなくちゃいけないと考えている。
これまで口語的に様々な形に変化してしまったラテン語を、
元の綺麗なラテン語に復元する取り組みだ。
僕の仕事は、古代ラテン語で書かれた素晴らしい文学作品を、
きちんと読める形に整理し直す事だ。
今に伝えられていない古代ギリシアや古代ローマの発展が何だったのか、
あの豊かな文学や文芸はなぜ興ったのか、そしてなぜ廃れてしまったのか。
それを研究することで、今のこの荒んだ世の中を変えられるかも知れない。
それを知る為に、それを伝える為に、僕は世界各国を旅しているんだ。
え?何?モンペリエ大学とボローニャ大学で六年も学んだ法学はどうしたかって?
もちろん大学で学んだ事は古ラテン語研究に非常に役に立っている。
そうだ。僕への戒めのためにも、このダンテ先輩の言葉を記しておこう。
―――本質を理解する為には、
ただ、考えるだけではいけません。
口で伝えるなり、紙に書くなり、
絵や彫刻によっての表現でも構いません。
何かを知りたい、そう思ったら、
先ず何かを表現、創造することです。
それが、理解へと繋がるのです。―――……ダンテ
君もこの言葉に心を打たれただろう?僕もそうだ。
そしてこれを上に立つ者、民を束ねる者、
政界にも理解してもらう事で世界は変わるはずなんだ。
それをどのように伝えたら良いか。
だからこうして世界中に散った言葉の欠片を拾い集めている。
もう5年、6年経つね。
実はそろそろその仕事も完成形に近付いて来ているんだ。
そう、だから、そろそろアヴィニョンに戻って整理しようと思っている。
父の葬儀で戻ってから、もう4年くらいアヴィニョンには戻っていないしね。
嗚呼、あの時見かけたラウラは、今どこで何をしているんだろう?
君は何か聞いていないかい?
って言っても、あれだけの情報では何処の誰かも分からないよね。
アヴィニョンに戻ったら、
僕はジョヴァンニ・コロンナさんのところで雇ってもらう事になっている。
だから、君は、うん、ジョヴァンニと言う名前は多いね、
そう言えばフィレンツェにも有名なカッシャ産まれの音楽家がいたね。
君はもう知り合ったのかい?
まあそれは別の機会に聞こうかな。
今後はアヴィニョンのコロンナ家に手紙をくれれば僕に届くはずだ。
じゃあ、また、君の素敵な詩を期待しているよ。
ペトラルカ
・・・‥‥……―――……‥‥・・・
1331年某日、フィレンツェ。
手紙を受け取ったジョヴァンニ・ボッカッチョ(1313-)は大きく息を吐き出しました。
彼はちょうど、ファサードの工事中のサンタ・マリア・ノヴェッラ教会の見えるベンチに座っていました。
ボッカッチョは、小さな薬局から大きく発展しているその教会をふと見上げました。
「そっか……。ペトラルカさんは、
アヴィニョンに戻るんだ……。」
ボッカッチョは少し複雑な思いでした。
アヴィニョン教皇庁は、北イタリアでは完全にフランスの傀儡機関と思われており、
かつてのバビロニア捕囚に擬えてアヴィニョン捕囚とも揶揄されていました。
「アヴィニョンか………」
ベンチに座ってぼーっとしていると、声をかけて来る人がいました。
「ボッカッチョ君じゃないか。
どうしたよ?そんなに浮かない顔して?」
「あ、ピエーロさん!
え、、そんな、変な顔していました??」
「おう!そうだな。
何か難しい事でも考えていたのかい?
思い詰める前にちゃんと書き出して放出しないと!
いつも言われているだろう?」
「あ……、はい。そうですね。」
「その手紙が原因か?」
「はい。ペトラルカさんからです。」
「おお!ちょっと良いかい?」
手を出したピエーロに、ボッカッチョは手紙を差し出しました。
読んだあと、ピエーロもまた難しい表情をしました。
「君も成長すれば分かるだろう。
生きる為には金が必要になる。
その為には、父親のツテがあるアヴィニョン教皇庁で働かなければならない。
私もね、実は、フィレンツェを離れようと思っているんだ。」
「え?もう発ってしまうのですか?
まだ来たばかりだというのに……。」
「確かにフィレンツェは住みやすい。居心地が良い。
だが、清貧論争は今なお続いている。
アヴィニョン教皇庁の権力が強いと、なかなか活動しにくいんだ。」
「アヴィニョン教皇の……
フランシスコ会の異端裁判はまだ続いているのですか?」
「どうだろう。だが、法王が生きている限りは続くかも知れないな。
私もアッシジの産まれだから、あまりこの辺りから離れたくは無いのだが、
とにかく、金を稼ぐ為には、良いパトロンと巡り会わなければならない。」
「パトロン……。
それが、、自由な制作活動と言えるのですか?」
「………。
心豊かにならなければ良き想像力も生まれない。
その為にはまともな生活をする事がもっとも近道だ。」
「ううん………」
ボッカッチョは遠い目をしていました。
後に巨匠と呼ばれるようになるこのピエーロは、
30代半ばにしてようやく音楽制作活動に軌道が乗ってきた頃でした。
11世紀から13世紀にかけて、
トルバドゥールがフランス北部に伝わって『トルヴェール』と呼ばれたように、
北イタリアでは、それは『トロヴァドーレ』と呼ばれて伝わって来ていました。
その文化は14世紀最初期までは、殆どパリの音楽と同じような道を歩んでいました。
ところが1320年代に入ると、ペトルス・デ・クルーチェ(1270頃-1347以前)やヨハンネス・デ・ムリス(1290年代-1344)らによって新しい音楽語法が開拓されていくようになります。
しかしこれはジャック・ド・リエージュ(1260頃-1330以降)ら保守派と対立し、
音楽史上初めての音楽論争が勃発しました。
もちろんこの論争は、保守派が時代の波に飲み込まれ、新しい音楽技法(=アルス・ノヴァ)が優位に立つようになります。
そしてこの波は、イタリア半島にも到達しました。
新しい音楽技法の実践的開拓者であったフィリップ・ド・ヴィトリ(1291-)はフランスの宮廷と深く結びついており、
それはアヴィニョン教皇庁との深い関わりをも意味します。
アルス・ノヴァはフランス北部とアヴィニョン教皇庁を中心に拡大しました。
ミラノでは主に教皇派が主導である為、
教皇庁を介して新しい音楽技法が取り入れられていたのです。
しかし多くのイタリア諸国では、フランスとは異なった発達をしていくようになります。
フランスがリズム(特にギョーム・ド・マショー(1300-)のイソリズム等)を重んじ、
多重の旋律を複雑に重ね合わせるモテットが流行していったのに対し、
イタリアでは自然で美しい旋律が好まれたのです。
南仏のトルバドゥール達の音楽を受け継いだトロヴァトーレ達の活動が盛んとなっており、
北イタリアの富裕層達はそんな吟遊詩人達の音楽を欲していたのです。
「あの吟遊詩人たちのような流れるような歌を作ってくれ。
フィリップ・ド・ヴィトリやギョーム・ド・マショー(1300-)らが提唱したような、
複雑にリズムを組み合わせたような難しいフランス物ではなくて、
ゆったりとした、自然な旋律のものが良い。
詩は、そうだな。ペトラルカの詩を使ってくれ。」
そんな需要に応える作曲家達は、多声音楽を作曲する事が増えていきました。
その主な理由として挙げられるのは、
彼らにとって音楽は感覚的である事が第一で、やはり歌が基本であり、
そして言葉がしっかり聞き取れる事が重要でだったからでした。
イタリア人達はフランス王国の宗教音楽とは好みがまるで異なっており、
次第にアルス・ノヴァとは異なった進化を遂げていくようになります。
フランシスコ会の清貧論争が1316年に即位したアヴィニョン教皇ヨハネス22世(1244-)から弾圧を受け、
攻撃対象であったフランシスコ会のスピリトゥアル派と
神聖ローマ皇帝ルートヴィヒ4世が擁立した対立教皇ニコラウス5世とが結びつき、
論争の終結とニコラウス5世の廃位が1330年である事とは無関係とは言えないでしょう。
このフランスとは異なるイタリアの1300年代の音楽は、
すなわち、300を意味する『trecento』――と呼ばれるようになっていくのです。
「フィレンツェを出て、ピエーロさんは何処へ行くのですか?」
「さあ。まだ分からないが、
とりあえずボローニャ大学に仲間がいるので、頼ろうと思っている。」
マギステル・ピエーロは、当時フィレンツェで活躍した作家の一人として数えられていない為、
フィレンツェでの活動は殆ど無かったかと思われます。
ピエーロはその後、ミラノのヴィスコンティ家の宮廷に出入りするようになりますが、それはまだ少し先の事でしょう。
残されたボッカッチョは、工事現場から呼ばれている事に気が付きました。
「おーい!早く戻れよ?」
「はい!すみません!ガッディさん!」
慌ててボッカッチョは仕事に戻りました。
「次はあれと同じものを早急に作らなくちゃいけない。
手伝ってくれ!
やり方は彼が教えてくれる。分かるよな??」
「はい!!よろしくお願いします。」
呼び出した彼の名はタッデオ・ガッディ(1290-)。
画家でモザイク作家であるガッド・ガッディ(1239-1312)の息子です。
ジョット・ディ・ボンドーネ(1267-)の下で修行する傍ら、
ジョットと共に建築についても学んでいる最中でした。
そして、ガッディの横で挨拶したのはヤコポ・デル・カセンティーノ(1297-)。
カセンティーノで生まれ、アレッツォで画家としての勉強をしていた時にガッディと出会い、
そして修行の為にフィレンツェに出向く時に、弟子のカセンティーノも付いて来ていたのでした。
若年のボッカッチョもその手伝いをしていたとしたら、面白いかも知れません。
カセンティーノは、おそらくこのフィレンツェで、
山奥のフィエーゾレから出稼ぎに出てきて女性と知り合い、
そして既に6歳になる息子フランチェスコがいました。
その小さな男の子は、フランチェスコ・ランディーニ(1325-)。
この時のフランチェスコは、元気に野原を駆け巡り、街を遊び回る、
普通の遊び盛りの男の子だった事でしょう―――……
・・・‥‥……―――
―――……‥‥・・・‥‥……―――
1331年秋。
オーストリア公国ウィーン。
オーストリア公オットー陽気公(1301-)が寛ぎながら読んでいた本は、
『ヴァインガルテン写本』と呼ばれる本で、
15cm×11.5cmの大きさ、158枚綴と、手軽に持ち運びが可能なサイズの本でした。
収録内容は、神聖ローマ皇帝ハインリヒ6世(1165-1197,ホーエンシュタウフェン家)作に始まり、
12世紀から13世紀にかけて総勢31名のミンネゼンガーの代表作を集めた詩集です。
ハルトマン・フォン・アウエ(1160-1210)、
ハインリヒ・フォン・フェルデケ(1150-1184)、
ヴァルター・フォン・デア・フォーゲルヴァイデ(1170-1230)、
ヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハ(1160/80-1220~)などで、
作者不明の詩も幾つか収められています。
生没年はいずれも活躍時期から考えて凡そこのくらいと言ったものが殆どですが、
どの作者も12世紀後半から13世紀前半に活躍しており、
宮廷愛詩の黄金時代の集大成とも呼べる本でした。
これは、1280年頃までに編纂された『ハイデルベルク歌謡写本』がやや大振りの本であった事に対して、
手軽に手配が可能な傑作集とも呼べるもので、
その黄金時代初期の作品をざっくりと読める非常に手に取りやすい本でした。
また、ハイデルベルク歌謡写本やこのヴァインガルテン写本が傑作選だったのに対し、
1300年頃に編纂された『リーデック写本』が、
新星のように現れたバイエルン出身のナイトハルト・フォン・ロイエンタール(13c前半)など、
当時の流行歌を多数生み出した者達の作品が集められた写本と比べても、
広い範囲を扱ったヴァインガルテン写本は特別な書籍とされるようになっていました。
ちなみにそのナイトハルトは、通常宮廷愛を描くミンネザングを、
農民や牧歌的に置き換えた事でも人気を博し、
当時のオーストリア公フリードリヒ2世・フォン・バーベンベルク(1211-1246)やザルツブルク大司教にも気に入られたので、
このような特集本が作られたのではと考えられます。
しかしそれらの写本も既に1世紀程昔の作品集です。
これらの本よりも後代の作者、つまり13世紀後半から14世紀に至るまでも網羅するような本の作成が
チューリヒのマネッセ家の依頼によって制作が進められています。
1270年代から少しずつ編纂されており、それが1304年に完成、
しかし今に至るまで補筆を重ねています。
この本は『マネッセ写本』と呼ばれ、
大判で、137枚もの細密画が付された大変豪華な写本となっています。
収録作品の作者は『ハイデルベルク歌謡写本』と同じくハインリヒ6世に始まり、
シチリア王及びエルサレム王コッラディーノ(1252-1268)、
ボヘミア国王ヴァーツラフ2世(1271-1305)などの王、
マイセン卿やブランデンブルク卿などの帝国の人物から、
アンハルト公、ブラバント公、伯爵からその他の侯爵と続き、
ハイデルベルク歌謡写本と同じく100年前の作者が大半ながら、
14世紀現在に至るまで、存命作者の作品まで、
実に140人もの作者、6,000もの詩篇が収められた大型の装飾写本でした。
「チューリヒで完成されたと言うマネッセ写本も、いずれ手にして見たいものよ。
このヴァインガルテン写本は持ち運びしやすく簡単に多くの作者の代表作が読める事が売りだが、
マネッセ写本の大きさはこの二倍で、140人もの作者の作品が収められているらしい。
絵も沢山あって豪華な作りらしい。
今はどの宮廷に置かれているのだろう。」
前代の『ハイデルベルク歌謡写本』を“小”ハイデルベルク歌謡写本と呼ぶようになるのに対し、
このマネッセ写本は『大ハイデルベルク歌謡写本』と呼ばれるようになります。
「良い御身分だな、オットーよ。」
車椅子に乗せられて現れたのは、
オーストリア公アルブレヒト2世賢公(1298-)でした。
「………、兄上。」
オットーは、顔を引き攣らせました。
「今日は……、気分がよろしいようで……。」
「お陰様でな。」
昨年1330年春、宮廷内の会食中、
オットー陽気公の妃エリーザベト・フォン・バイエルンは突然昏睡状態となり、そのまま死去するという事件が起こりました。
同席していたアルブレヒト2世賢公もまた危篤となるも、奇跡的に命を取り留めていました。
半身不随状態で一人で動く事は出来ないものの、脳に異常は見られませんでした。
よって、“誰の陰謀かは判明していないものの”、
アルブレヒト2世賢公は弟オットー陽気公と共にウィーンの政界には支障なく参画出来ていました。
「文学や音楽に耽るのも良いが、まさか、
まだ知らぬわけではあるまい?
北部国境でポーランド王国が勝ったようだが?」
アルブレヒト2世賢公の問いに、オットーは本を閉じて、頷きました。
「ええ。そうです。
しかし、それはあくまで、
フランス王国に指摘されてルクセンブルク軍が撤退したからです。
ルクセンブルク家が敗退したわけではありません。
それに、ドイツ騎士団も完全に敗退したわけでは無いでしょう?
局地的な会戦で負けたのでしょうが、
副団長も逃げ延びたようですし、
組織そのものに影響はないでしょう。」
「本当にそう思っているのなら、甘いぞ。
カジミェシュ王子の快進撃がポーランド中に広まれば、
それは騎士団の大敗北かのように噂が広まる。
実際にそうで無くても、人々は噂を信じ、騎士団を甘く見ることとなる。
騎士団の敗北を演じさせたのはヨハン王の策略か?」
「そこまでは知らない。
ボヘミア王国が、
単純にポーランド領を奪わせない為に、
ハンガリー軍に攻撃されたから退いただけだろう?」
「何を暢気な……。
だが……、確かに単純な男であるヨハンをそのように動かしたのがヴァロワ家だ。
ヴァロワ家がルクセンブルク家を利用したい意向なのは明白だからな。
ヴァロワ家がヴィッテルスバッハ家に対して、
今後どう対処するつもりなのか気になるところだ。」
その言葉を聞き、陽気公は仏頂面で賢公に尋ねました。
「……兄上は、
まだヴィッテルスバッハ家に依存し続けるつもりなのか?」
「依存するつもりは無いが、明確に敵対してはならぬ。
彼が強力な力を持つ事は確かなのだからな。」
「だからと言って……!
ヴィッテルスバッハ家に肩入れする事は、
ハンガリー王国と対立する事になるのだぞ。
それはヴェネツィアからの塩が止まる事を意味する。
それでは海を持たぬ我々は不利となる。」
「では聞くが、ハンガリーと親しくしたところで
ヴェネツィアがいつまでもハンガリーと友好であると言い切れるか?
アヴィニョン教皇庁はジェノヴァに近付いている。
ジェノヴァとヴェネツィアが対立した時、
アンジュー家であるハンガリー王国がどう出るか分かるか?
ヴェネツィアの対応もハンガリー家の対応も今後の情勢によって変わってくるだろう。
どちらか片方に肩入れすると、いずれ必ず痛い目を喰らう。
そうならない為には双方に誼みを通じ
中立を保ちつつ力を温存させねばならない。
武力では何の解決もしない。」
「それは……、分かるが……。
ヴィッテルスバッハ家に良い顔をするのは、
私はもう納得出来ない。」
オットー陽気公の考えは明確でした。
対してアルブレヒト2世賢公は何方付かずでした。
「ヴィッテルスバッハ家に真っ向対立する力は我々には無い。
彼らはエノー伯との同盟関係がハンザ同盟と結び付く事になっている。
ドイツ騎士団もどちらかと言えばヴェネツィアとの関係が深い。」
「しかし……!!」
「何もフランスとの関係を断てとは言っていない。
双方が巧く円滑になるよう、我々は最善を尽くさねばならない。
ヴァロワ家とルクセンブルク家の繋がりは消えぬだろうから、
こちらとしても隣国であるボヘミア王国と敵対したくない。」
「もちろんだ!」
オットーは語気を強めていいました。
「オットーがルクセンブルク家との関係を強化させたいならばそれで良い。
ならば、妻を亡くしたお前がルクセンブルク家と結び、
お前がルクセンブルク家にハプスブルク家の血を混ぜていけばいい。」
「私が、、ルクセンブルク家と、、か………。」
「うむ。
お前も皇帝補佐官に任命されるほど皇帝には信頼されているんだ。
今のところルートヴィヒ4世は南方面に動きが見えない。
恐らく北海に注力したいのかも知れないな。
現状、表面上はヴィッテルスバッハ家とルクセンブルク家に明確な対立は無いから、
こちらはボヘミア王国と誼みを結んでおくのも手かも知れないな。」
「ならば……、兄上は今後、どうするつもりで?」
「ヴィッテルスバッハ家が北に集中しているならば、
こちらは西に集中すれば良い。
ケルンテン公国とチロル伯を組み込む事を考えるべきだろう。」
オットーは、兄アルブレヒト2世賢公に従うように頷きました。
・・・‥‥……―――
・・・‥‥……―――
昨年秋頃の事でした。
アルトワ伯国の田舎のイルトン村、
中年女性の小さな家を訪ねた男がいました。
「久しぶりだな。達者であったか?」
「お陰様で……。」
男の問いにこう答えた女でしたが、これもまた皮肉でしかありません。
「例の物は出来ているか?」
女はゆっくりと目を閉じて、そして机から一通の書状を取り出しました。
ボロボロの家とボロボロの服には似つかわしくない、綺麗な装飾が施された書状でした。
女は無言でそれを男に手渡しました。
男は書状を開き、中を確認しました。
「良くやった。上出来だ。」
男はニヤリと笑い、重そうな巾着を差し出しました。
女は手を翳して首を横に振りました。
「頂く必要はありません。
もう、命は無いものと思っていますので…。」
「ディヴィオン殿……!
そのような事は言うな。
必ず成功する。必ずこの領土は取り返す。
何も心配する事は無い……!」
しかし女は憐れむような目で男を見つめました。
女は巾着を突き返し、そして、男を直ぐ追払おうとしました。
女の名前はジャンヌ・ド・ディヴィオン(1293-)。
彼女の父ヘイヴト・ド・ディヴィオンは、ルシャール家の娘と結婚した事でその土地を得、
さらに彼女はアルトワ伯領内の資産家と結婚した事で多くの資産を得ていました。
それらの土地を継承した彼女は、伯国内でもそれなりの地位にあるはずでした。
ディヴィオン家は、アルトワ伯領を巡るロベール3世・ダルトワと伯爵マオ・ダルトワ(1269-1329/11)の争いでは、
終始ロベール3世に味方していました。
好奇心旺盛で高い知能を持っていた彼女は、
アラス司教ティエリー・ラルキエ・ド・イルトン(-1328/8)の庇護を受け、
アルトワ伯国に関する凡ゆる情報を学びました。
アルトワ伯国の歴史にも詳しくなり、歴代の領主の書状にも詳しくなりました。
ところがティエリーは、就任後僅か4ヶ月程で死去してしまいました。
ティエリーは娘ベアトリスしか残しておらず、
アラス司教職も王室に近しいリムーザン出身ピエール・ロジェ(1291-)が就いたので、彼女はその庇護を失いました。
噂では、アラス司教ティエリーとジャンヌが親密になっていたともされ、
そのせいなのか、ダルトワは、
ジャンヌが母から相続されるべきルシャール家の所領を守ってやる事が出来ませんでした。
そんな中、ブルターニュ公国の継承者問題が起こり、
アルトワ伯領相続権で争うブルゴーニュ伯ジャンヌ2世が突然死し、
その死がダルトワによる毒殺が噂された為、ダルトワはフランスから姿を消しました。
結局彼女は、完全に庇護を失い、元の貧しい暮らしに戻ってしまったのです。
「必ず私が財産を取り戻して見せましょう。」
男はそう言ってきていましたが、彼女は首を横に振るだけでした。
「旦那様。私のやるべき事はこれで終わりにしたく思います。
もう、会う事も出来なくなるでしょう。」
男は……、
ロベール3世・ダルトワは複雑な思いを抱いたままパリに向かったのでした。
―――……‥‥・・・
―――……‥‥・・・




