002[分割されたフランク王国]
002
[分割されたフランク王国]
―――1122年、アキテーヌ公ギョーム10世の元に、女子が誕生しました。
アリエノールと名付けられ、兄のギョームと共にアキテーヌで育ちました。
その四年後、祖父ギョーム9世は亡くなり、父がギョーム10世としてアキテーヌ公爵位を継ぎました。
音楽や文学も盛んで芸術面でとても華やか。
ワインでも有名なこの土地で、アリエノールは高い教養を受けながら天真爛漫に育っていきます。
祖父の血を受け継いでいたようで、彼女はトロバイリッツ(女性のトルバドゥール)でした。
さらに時は経ち1130年。
優雅な暮らしをしていた彼女ですが、アキテーヌ公の跡継ぎである長兄ギョームが早世してしまいます。
その為父ギョーム10世は、娘のアリエノールを跡継ぎにすると決めました。
アリエノールは、アキテーヌ公領、ガスコーニュ伯領、ポワティエ伯領などの相続権を持つことになりました。
嫡男が亡くなり、頼れるのは娘のアリエノールのみ―――。
そんな中、実はギョーム10世自身の体も既に弱ってきていたのでした―――。
「……陛下…。もう私は長くありません…。
公領を相続させる心算だったギョームも既に亡く、長女は…
まだあの娘は8歳なんです…。
私の弟は遠くアンティオキアに居るし、他に頼れる身内もありません。
ですから、国王ルイ6世陛下。
どうか、あの娘の後見人になって下さいませんでしょうか!」
「アキテーヌ公殿っ。本当に良いのですか!
ありがとうございます!
嬉しい限りです!」
今や弛んだ頬を震わせながら、カペー朝フランス国王ルイ6世(1081-)は大いに喜びました。
「安心してください。
公領を受け継ぐ娘さんの事は、しっかりとお守りします。
貴方のような方が私の味方となってくれるととてもありがたい!
私も貴方と同じく、長男を亡くしたばかりで気が滅入っていた。
私は次男のルイとの共同統治を始めたばかりだが……。
そういえば、あの子も、アリエノールさんと殆ど同じ歳だ。
二人共いい年頃ではないですか。
これは、良い縁談となるかも知れないぞ。」
ルイ6世は半ば涙ぐみながら何度も頷いたのでした――……‥‥・・
フランス国王ルイ6世とアキテーヌ公は協議し、国王の後継者であるルイと、アキテーヌ女公アリエノールの婚約が決められました。
このアキテーヌ公領というのが、南フランスの殆どを占める領域で、
実にフランス国王領の5倍にも及ぶのです。
この女性継承者との結婚は、その広大な領土の継承権を持つ事とほぼ同義でした。
―――王たる者が、あんなに腰の低い……―――
―――しかしアキテーヌ公が突然臣従を誓ってきた!―――
実はこの出来事は、フランス国王位を持つ者にとって、とても奇跡的な出来事だったのです。
・・‥‥……―――ただただ森が生い茂るのみのヨーロッパ半島。
鉄製の農具が発達し人口が増加、
11世紀は、ようやく森林の開墾事業が始められた時代でした。
ルイ6世の治世初期は、国王の権威そのものがたいへん脆弱なものでした。
当時のフランス国王領といえば、パリ伯領とオルレアン伯などのイル=ド=フランス領を有するのみ。
『分割して統治』が当たり前だったローマ帝国期以来、周囲には小さな領土の指導者(公や伯)がたくさんいました。
かつてクロヴィスによって首都に定められていたパリも、分割に分割を重ねた今となっては、辺境地。
つまり当初のパリ伯も、辺境の領主の一人に過ぎませんでした。
国王というのは名ばかりの物で、事実は、
臣下とされている伯爵各々の方が「この土地は王によって統治を任されているんだ!」と威張っているくらいでした。
つまり、国王位ほど面倒で窮屈な肩書は無かったのです。
―――だからかつて、パリ伯ユーグ大公は、常に裏方に徹していたのです。
―――衰退したローマ帝国は、330年にコンスタンティノポリスに遷都。
395年に東西に分裂し、そのうち西ローマ帝国は、
東側からイタリア半島が東ゴート族に、
ガリアがフランク族に、
そしてイベリア半島が472年にヴァンダル族や東ゴート族によって侵略され、滅びました。
その後イタリア半島は6世紀に東ローマ帝国のものとなり、
イベリア半島は、西アフリカに進出していたイスラム勢力ウマイヤ朝が8世紀に侵入。
756年に後ウマイヤ朝が誕生し、その滅亡後も、
イスラム教の小国が乱立するようになります。
この為イベリア半島のキリスト教徒は、領土をキリスト教に帰する為に聖戦を繰り返すのです――……‥‥・・
・・‥‥……―――さてその一方、481年に誕生したフランク王国は、カール大帝(742-814)の時代にガリア全土(現在のフランス、北イタリア)及びゲルマニア西部までを有す大国へと変貌を遂げていました。
カール大帝は800年にローマ教皇レオ3世によってローマ皇帝として戴冠を受けました。
ここにカロリング家は“西方教会に承認されたローマ皇帝の後継者”となったのです。
この時より西方教会側のヨーロッパ西部から見た東ローマ帝国の皇帝は正統では無いと見なされ、
『ギリシア帝国』と呼称されるようになります。
ローマ皇帝の後継としてヨーロッパに広大な領土と権威を持ったカール大帝でしたが、
その死後、王国が西フランク王国・中フランク王国・東フランク王国の三つに分割統治されたのを皮切りに、
大国としてのフランク王国は、ローマ帝国よろしく、衰退の一途を辿っていきました。
分割に分割を重ね、諸豪族は王など物ともせずに我が物顔で振舞うようになっていきました。
そんな中、962年、東フランク国王ザクセン家のオットー(912-973)がローマ帝国の継承者として“勝手に”認められ、ローマで教皇によって戴冠を受け、『皇帝』となります。
オットー1世は、旧中フランクの地の征服に腐心しました。
一方、西フランク王国はカロリング家のロテール(941-986)に引き継がれていました。
ロテールが父ルイ4世から王位を継いだのは、まだ13歳の時でした。
これを後見したのが、パリ伯ユーグ(897-956)でした。
―――パリ伯ユーグ(ユーグ大公)はロベール家の出で、アンジュー伯爵位を受け継いでいました。
西フランク王国に於いて、スカンジナビアからやって来た海賊(ヴァイキング=ノルマン人)との戦いに功労したロベール家は、これまでに3人西フランク国王を輩出しました。
それが彼の父ロベール1世と、その兄ウード、そして姉の婿のラウール。
しかしユーグ大公は王に即位する事はせずに、裏方に徹する事を選びます。
936年にラウールが死去すると、ユーグ大公はカロリング家のルイ4世を支持、裏でルイ4世を操るようになります。
彼は対外政策として東フランク(ドイツ)国王に即位したばかり(936年)のオットー1世の妹ヘートヴィヒと結婚し、938年/940年に息子ユーグが誕生しました―――……‥‥・・
しかし実はこの結婚は、カロリング家との仲を悪くしていました―――。
954年に西フランク国王ルイ4世が亡くなり、王位はその13歳の息子のロテール(941-986)に渡ります。
もちろんユーグ大公がこれを後見しており、王国の鍵は尚も彼が握っていました。
ところがその二年後にユーグ大公が亡くなります。
フランク大公兼パリ伯を継いだのが、子のユーグがまだ16,7歳の時でした。
「国王とは名ばかりでしがらみも多く、さらに王位ではない大ユーグのせいで完全に傀儡となってしまっていた。
しかしその大ユーグはもういない。
いっそ王位は若年のユーグに譲り渡してしまおう。」
ロテールにとって最大の後見人である大ユーグが亡くなると、諸侯は一転してユーグを担ぐようになりました。
ただし、もともとカロリング家となんの血筋の無い、合羽を羽織った子供を王に即位させる為には、それなりの神懸かり的な要素を必要としました。
この為彼は、『ランスで聖油を塗られて戴冠』させられる事で、
神聖な存在に創り上げ、王位に就けられてしまいます。
しかし実際には王位はロテール。
ロテール派諸族は、旧フランク王国の首都アーヘンを皇帝オットー2世(オットー1世の子で955-983)から奪う等、その力を発揮します。
ロテールとオットー2世はその後講和を結び、983年の皇帝の死後には、その息子の後見人にまで選ばれるほどでした。
諸侯の反乱は続きました。
カロリング家は、ユーグ派との対立が顕著になっていました。
ところがロテールが986年に亡くなると、その息子はルイ5世(986-987)。
単独統治を開始した19歳のルイ5世は、怠惰王とも渾名される人物。
ルイ5世は“狩猟中の事故”で、治世僅か一年で死去しました。
斯くして、諸侯達に推挙されたユーグ・カペーが、正式に西フランク国王となりました。
もちろんこれは、力を持ったカロリング家を押し潰し、
神懸った王……しかし政治の事など全く分からない子供……の下で、
“王によって与えられた土地を支配している”という事実を創り出す為に仕掛けられたものでした。
絶大な権力を誇った大ユーグの枷が外れると、諸豪族は思うまま振る舞う群雄割拠の時代となります。
国王はパリ伯領しか領土を持たず、
周囲には、ガリア北部に根付いた宿敵ノルマン人による世襲家『ノルマン家』、その東にはシャンパーニュ伯領も有する『ブロワ家』、その西隣には分化しアンジュー伯領を基盤にエルサレムも有する『ガティネ家(アンジュー家)』、ガリアとゲルマニアの中間部に君臨する『ブルゴーニュ公家』、海を隔ててブリテン島と独自の友好を結び北海やローマ帝国とも結ぶ要衝ガリア北東部の『フランドル』、半島西端の『ブルターニュ』、南部には国王などものともしない『アキテーヌ』や『トゥールーズ』などなど、多くの有力貴族が存在していました。
南仏の他家による干渉を嫌う傾向は、北フランスと全く違う言語を話していた事からも分かります。
ローマ帝国時代に話されていたのはイタリック語派の俗ラテン語。
帝国の崩壊後は、各地で独自に言語は変化していきます。
“俗”とは口語を意味する言葉で、民衆ラテン語ともいいます。
俗ラテン語は変化し、西ロマンス語、南ロマンス語、東ロマンス語などに分類。
南ロマンス語がイタリア語に、東ロマンス語はバルカン半島の言葉に変化していきます。
西ロマンス語圏のうち北部では、フランク族の流入によって、同じ印欧語族を起源とするも独自であるゲルマン語派と混ざり合います。
このうち北西部のガリアで発達した言語はガロ・ロマンス語で、細かく言えばやはり地方毎に独立した言語を持ちます。
中でもイル=ド=フランスで話されていたのがフランシア語。
代表格なのがワロン語で、リエージュ、ブラバン=ワロン、リュクサンブールなど東部の地域で話された言語。
これら北フランスで話された言語は、肯定を意味する返事“はい”を『oïl』と言い、ここから『オイル語』と呼びます。
これに対し、南フランスでは『オック(諸)語』が話されています。
これはオイル語と同様、肯定の返事である『oc』から取られています。
南ヨーロッパでは民族の性質上ゲルマン語派の影響は少なく、イタリック語派、そのうち西方のイベリア半島ではカタルーニャ語などが属するイベロ・ロマンス語が話されるようになります。
このうちの一種が南仏で話されたオック語ですが、もちろんオック語も大まかに大別された呼び名に過ぎません。
オック語はさらにガスコーニュ語、北オック語、南オック語と3つに大別され、もちろんさらに細かく方言が存在します。
オイル語よりも、どちらかと言えばカタルーニャ語に近い言葉です。
このオック語の範囲というのがロワール川以南なので、オイル語の一種のフランシア語を話すパリ周囲の範囲が本当に狭い事が分かると思います。
西フランク王国がユーグ・カペー(カペー朝)に引き継がれた時をもって、
便宜上『フランス王国』の誕生となります。
カペー家は、周囲の、言語も異なる他国とも呼べる領主との友好関係を築こうとし必死になりながら、細々と血を繋げていたのです。
ようやくパリとオルレアンが繋がったのが1068年、3代後のフィリップ(1世)(1052-1108)の治世の時でした。
その息子、ルイ6世(1081-)は、今は肥満王とも言われてしまう体躯の持ち主ですが、それは老年の今の話。
これは若かりし頃は全てが筋肉でした。
つまり、彼は昔は派手にフランス中を駆け回った武勲の持ち主だったのです。
同じく武人である寵臣ラウルと共に、フランス王国としての地盤を固める事に尽力します。
一方政治面では、彼の幼少の頃からの親友で、サン=ドニ大修道院院長のシュジェールを重用。
ルイ6世は軍を率いて各地の反乱を抑え込み、有能な聖職者であったシュジェールは、巧みな政治能力で諸侯達をまとめ上げ、抑制に成功。
おまけにフィリップ王の不倫問題で拗れていた内乱と教会問題も解決し、さらに、この反乱に便乗したザーリアー朝最後のローマ皇帝ハインリヒ5世からの侵攻も食い止めました。
この“ローマ帝国”とは、後に『神聖ローマ帝国』と呼ばれる古代のローマ帝国とは別物。
先述の通り、ローマ帝国の後継を自称し、
領土が西ローマ帝国側である為に『西方帝国』、もしくは単に『帝国』と呼ばれていました。
この頃の『帝国』の『皇帝』というのは、ドイツ(ローマ)王が、ローマ教皇によって戴冠される事によって初めて名乗れる称号。
ドイツ王は、豊な地中海都市を欲してイタリア政策を推し進め、ドイツの統治は疎かになりがちでした。
その為ドイツでは、諸侯がそれぞれ小さな領地をもち、連邦国という体制を持っていました。
また、ミラノやフィレンツェ、ヴェネツィアやジェノヴァといった都市は、それぞれ商業や海洋国家として独自に発展させて力を付けていました。
これらは帝国傘下ではあるものの、ほぼ、独立体制をとっていました。
こうした背景から、『東フランク王国』や『中フランク王国』は、早い段階から“フランク人の”という名前を外し、独自の道を進んでいくようになりました。
皇帝ハインリヒ5世の父皇帝ハインリヒ4世は、ローマ教皇と叙任権を巡って闘争を繰り返し、その末に『カノッサの屈辱』を経験します。
『叙任権闘争』は、ハインリヒ5世によって、相互の妥協を持って、1122年に『ヴォルムス協定』が調印され一応の決着がついていました。
その皇帝ハインリヒ5世は1125年、39歳という若さで生涯を閉じてしまいます。
夫に先立たれた妻のマティルダは、ここぞとばかりに実父ノルマンディー公アンリにルーアンに呼び戻されてしまいました。
・・‥‥……
「マティルダはアングルテール王の継承者だ。
再婚相手を探さないといけない。
今はガティネ家のアンジュー伯との友好を考えている。
やはりアンジュー伯を相手に……。」―――……‥‥・・
一方。
皇帝亡き後のドイツでは、諸侯に支持されたズップリンブルク家のロタール3世が一代限りの帝位に就きました。
その後12年の月日が流れ、1137年、このロタール3世が逝去。
彼には息子が居なかったため、ドイツ諸国は相談した結果、翌年選挙を行いました。
最有力だったヴェルフ家のザクセン公兼バイエルン公ハインリヒを圧して、弱小貴族だったホーエンシュタウフェン家のコンラート3世が選び出されました。
これは、教会の人間や諸侯が皇帝を傀儡にしたかったが故でした。
ただし、教皇による戴冠は行われていない為、ドイツ王のままでした―――……‥‥・・
話は、フランスに戻ります。
ルイ6世やラウル、シュジェールらがフランス王国の地盤を固めたとはいえ、領土が増えたわけではありませんでした。
つまり、フランス王国はイル=ド=フランスやオルレアンしかその範囲では有りませんでした。
それが今、
「我が娘アリエノールの後継を、是非陛下に……」
これまで全く臣従する姿勢を見せていなかったアキテーヌ公がフランス国王を頼ったのです。
この出来事は、フランス王国にとってどれほど重大なターニングポイントとなったか……。
もちろんこれはルイ6世の頑張りが、国王たる権力がようやく認められたという事に他なりません。
―――1137年。
病床にあったアキテーヌ公ギョーム10世がついに逝去。
唯一の相続人アリエノールは、アキテーヌ女公となり、その広大な土地を相続することになりました。
この時アリエノールは、15歳になっていました。
アリエノールは、国王ルイ6世の息子、ルイ7世との結婚が決まっていました。
既に、彼女の持つ広大な領土も、フランス国王預かりの下にアリエノールに与えられる事になっています。
これは父ギョーム10世が生前に国王と取り決めたこと。
滞り無く、二人は1137年7月にボルドーで挙式しました。
息子の結婚でやっと安心したのでしょう。
体調を崩し気味だったルイ6世国王は、新婚の二人の帰還を待たずして、8月1日、パリで56歳の生涯を閉じました。
夫ルイ7世は、ついにフランス王国の単独の国王となりました。
アキテーヌ女公アリエノールは、ここにフランス王妃となったのです。
・・‥‥……―――
―――その二年前。
アングルテール王国では1135年に国王アンリ(1068-1135)が逝去。
彼は生前、娘の元ローマ皇后マティルダ(1102-)を呼び戻し、これを後継者に定めていました。
さらにアンリは、フランスの有力貴族アンジュー伯のジョフロワ4世をその再婚相手に選んでいました。
ところがこの再婚は、島民からの反感を買っていました。
「何故マティルダの再婚相手をアンジュー家から?!
我々ノルマン家とはずっと敵対していたというのに!」
「アンリ王の考えることはわからん!」
ノルマン家の長年敵対関係であるガティネ家との婚姻に反対の者が多くいたのです。
「アンジュー家は認めない!!」
「モード様を今更呼び戻して何になります!」
「征服王には他にも娘がいる!
その後継者がいるじゃないか!!」
「そうだ!直系の者を国王にしようではないか!!」
亡きアンリの政策は様々な反感を呼んでおり、様々な派閥を誕生させていました。
・・・‥‥……―――
―――フランス王国北部、ブローニュ伯国。
その名が示す通り、ユリウス・カエサル(?-43)がブリテン島を攻める際に拠点とした要塞都市があったボローニャ。
ブリテン島との海峡が最も狭いカレー村からは南に35kmほど進んだ場所にボローニャ港があります。
大陸との流通に便利なボローニャ港を中心としてその海岸線一帯を支配したのが、
ブローニュ伯爵でした。
そんな英仏貿易に最重要な土地の領主でしたが、
ブローニュ伯ウスタシュ3世(1060-1125)は男子を残しませんでした。
跡取りであるブローニュ女伯マティルド・ド・ブローニュ(1103-1152)と結婚したのが、
ブロワ家のエティエンヌ・ド・ブロワ(1096-)で、彼が実質のブローニュ伯爵でした。
「おい、今アングルテールでは、
アンリ王が亡くなってから、諸侯たちの間で相続問題が起きているらしいぞ。」
「このままだとアンジュー家に王位が渡ってしまう事になる!許せるか?!」
「アンリ王には庶子もいっぱい居るから、国王を決めにくいんだろ。」
「エティエンヌ、お前はどうするつもりだ?
お前はギョーム征服王の娘アデラの息子だ。
女系だが、お前の方が継承者として順位が高いんじゃないか?」
「ああ。その通りだ。」
その男は低く頷きました。
「貴方の兄のティボー4世殿はブロワ伯爵位とシャンパーニュ伯爵位で満足なんだろう?」
「ならば弟であるお前は、外を目指すべきなんじゃないのか?」
「ああ!分かっている!」
その男はニヤリと笑いました。
彼の父はブロワ伯エティエンヌ2世・ド・ブロワ(?-1102)。
彼の母はアンリ王の姉アデル・ド・ノルマンディ(1067-1137)。
そして彼の兄ティボー4世(1090-)は既にシャルトル伯とシャンパーニュ伯としてパリ伯領の周囲の土地を領有していました。
故に兄のティボー4世はブリテン島にはあまり興味を持っていなかったのです。
「なあ。どうなんだ?お前はこのまま黙っている心算か?」
その男は、すっと立ち上がりました。
「ふっ…。黙っているわけが無いだろう!?
俺はすぐにロンドンへ渡航する!
俺がアングルテール王となるべきなのだ!!」
その男の母はアンリ王国の姉アデル。
アングルテール国王ギョーム征服王(1027-1087)の孫にあたり、
アンリ王よりも本来は王位継承権が上位なのです。
「俺こそがギョーム征服王の直系!!
ブリテン島の支配者に相応しいのはこの俺だ!!」
エティエンヌは叔父アンリの後継を主張し、挙兵しました。
エティエンヌはロンドンに侵攻し、カンタベリー司教を強引に説得させ、アングルテール国王に即位しました(英名スティーブン)。
しかし、アンリ王に後継者に定められて帰国したマティルダと対立しました。
モード派(マティルダ派)の諸侯達は次第に巻き返し始め、島全土に抗争が拡がります。
……こうして、アングルテールはモード派とエティエンヌ派の対立を中心にした無政府時代へと突入していったのでした―――……‥‥・・