第四十四話
一通り島を案内する一行。
島内の視察は滞りなく進み、要所要所で奏多が綿密に練り上げたシステムやホスピタリティの数々を説明すると、翔は終始無言で頷きながらも、その鋭い眼光の奥に確かな手応えを宿していた。
そして、見学の締めくくりとして用意されたのは、最上階に位置する特別VIPルーム。
全面ガラス張りの窓からは青く輝くエメラルドグリーンの海が一望でき、室内には南国の心地よい潮風が通り抜けている。
「お疲れ様です、会長。まずは長旅の喉を潤してください」
綾部が丁寧にグラスを差し出すと、翔は無言でそれを受け取り、ゆっくりと一口含んだ。
さらに、今回のオープンに合わせてスカウトされた一流シェフ特製の、島で採れた最高級食材をふんだんに使ったフルコース料理が次々とテーブルに並べられていく。
目の前に並ぶ皿の美しさと、広がる芳醇な香りに、さすがの翔も「ほう……」とわずかに目を細めた。
「……見た目だけでなく、素材の鮮度を生かした素晴らしい構成だな。これだけの腕利きを、この短期間によく口説き落としたものだ」
「ありがとうございます。すべては、この島に来てくれたお客様に最高の感動を提供するためですから」
奏多が胸を張って答えると、隣に控えていた綾部がふっと涼やかな笑みを浮かべ、瑠璃も誇らしげに小さく胸を張る。
ピリついていた緊張の糸もようやく緩み、穏やかな空気が流れたその瞬間――。
「瑠璃〜! 奏多くん、お久しぶりーー! もうちゅーはした? もしかしてもっと先のこともしちゃったのかしら?」
その声は、VIPルームの重厚な空気を一瞬にして粉砕した。
扉を勢いよく開け放ち、南国風の華やかなリゾートドレスに身を包んだ女性が飛び込んでくる。
天宮麗華。瑠璃の母親であり、天宮翔の妻。そのあまりに直球すぎる下世話な発言に、室内の時が完全に停止した。
「お、お母様!? な、なにを言ってますの!? しし、ししし、してませんわよ!!」
瑠璃の顔が瞬時に茹でダコのように真っ赤になり、バタバタと両手を振って全力で否定する。
隣で奏多も、冷や汗を流しながら必死に両手を横に振った。
「さ、流石にそれは誤解です、奥様……!」
「あら、奏多くん。そんなに慌てなくてもいいのに。ねえ?」
麗華が悪戯っぽくウインクをすると、背後で天宮翔が低く唸った。
「……麗華。お前、なぜここにいる」
翔の顔からは先ほどの威厳が完全に消え失せ、額にはうっすらと脂汗が浮かんでいた。
「あら、あなた。抜け駆けなんてズルいわよ。娘の彼氏が作ったリゾート初日なんだから、夫婦揃ってお祝いするのが普通でしょ?」
麗華は事もなげにそう言うと、真っ直ぐに奏多の前に歩み寄り、両手でその手をギュッと包み込んだ。
「奏多くん! 瑠璃のSNS見てたわよぉ! もう、お似合いすぎちゃって! で、どうなの? うちの子、ちゃんと甘えさせている? それとも、奏多くんがリードしてあげてるの?」
「……奥様。ここは公の場です。お言葉にはご配慮を」
綾部がすかさず冷ややかなトーンで割って入ろうとするが、麗華はまったく意に介さない。
「固いこと言わないの、綾部ちゃん! 若いんだから、燃え上がるのは当然じゃない! ねえ、奏多くん?」
「はい、その……色々とご心配をおかけしてます……っ!」
天宮グループの絶対的トップである翔すら頭が上がらないらしい麗華の猛烈なプレッシャーに、奏多は完全に気圧されながらも、引きつった笑みを浮かべるしかなかった。
「で、あんたはいつまで硬い顔してるのよ。今日はめでたい日なんだから、少しは背筋を伸ばしなさいよ!」
麗華がバチーーーン! と景気よく翔の背中を叩くと、翔は「ぐぅっ……!?」と情けない声を漏らしてよろめいた。
一国の経済界を揺るがす大物が妻の一撃に沈む光景に、室内のスタッフたちはざわめいたが、当の麗華はすっかり満足げである。
「ほら、二人ともそんなに緊張しないで。ねえ二人とも? お母さんとお父さんにも、瑠璃と奏多くんのこと、たくさん聞かせなさい?」
麗華の優しい、しかし有無を言わせない笑顔に促され、瑠璃はおずおずとタブレットを取り出した。そこには、二人が歩んできた思い出の数々が保存されていた。
VIPルームの巨大なソファに、天宮一家と奏多が腰を下ろす。本来ならばビジネスの最終プレゼンの場になるはずだった空間は、麗華の登場によって完全にアットホームな家族の団欒へと塗り替えられていた。
瑠璃は恥ずかしそうに頬を染めながらも、アルバムアプリを起動し、両親の前にタブレットを置いた。
「え、えっと……これは、奏多様が初めてわたくしに焼いてくれた、クレープの時の写真で……」
「あらあ! 可愛い! 瑠璃ったら、鼻の頭にクリームつけてるじゃないの。奏多くんが拭いてくれたの?」
麗華は目を細め、嬉しそうにタブレットをスワイプしていく。
画面には、照れ隠しにそっぽを向く奏多の横顔や、瑠璃が強引に腕を組んで撮った自撮り、プロジェクトの合間に第七管理室のオフィスで居眠りする二人の姿などが次々と映し出された。
「……。」
翔は黙ってその写真を見つめていた。ビジネスの場で見せる冷徹な経営者の顔はそこにはない。
ただの、娘の成長に戸惑う不器用な父親の顔だった。
「それで、これが……奏多様と一緒に花火を見た時の……」
「素敵ねえ……。あなた、見てごらんなさい。瑠璃のこんな幸せそうな顔、私たちが見たことあった?」
「……ああ」
翔は短く応えると、ゆっくりと奏多に向き直った。
「……奏多」
翔の眼差しは、先ほどまでの「経営者」としての査定する目ではなく、「父親」としての真剣な目に変わっていた。
「お前が事業家として優秀なのは、今日一日でよくわかった。だが……男として、娘を任せられる器かどうかは、また別の話だ」
翔の重々しい言葉に、瑠璃が不安そうに奏多の袖をきゅっと強く握りしめる。しかし、奏多は怯むことなく、まっすぐに翔の視線を受け止めた。
「……っ。分かっています。口先だけで立派なことを言うつもりはありません」
奏多は一歩前に出ると、力強く言い切った。
「俺が守るのは、この島と事業の成功だけじゃないです。瑠璃がこれから先、どんな壁にぶつかっても、隣で笑っていられる未来を俺が絶対に作り続けます。」
そのまっすぐな決意の籠もった言葉に、翔はわずかに目を丸くし、やがてふっと息を漏らした。
「……まったく、大した度胸だな。だが、その意気込みは悪くない」
翔はふっと肩の力を抜くと、そのまま穏やかな声で続けた。
「……もっとも。どうやら、私がこれ以上口を挟む余地は、もうないようだな」
「当たり前でしょ! もう、あなたったら素直じゃないんだから」
麗華が再び翔の背中をバシンと叩く。翔は今度こそ盛大に顔をしかめたが、不思議と文句は言わなかった。
「奏多くん。これからも、うちの瑠璃をよろしくね。……あ、でも避妊だけはちゃんとするのよ? お母さん、まだおばあちゃんになる心の準備はできてないんだから!」
「お、おかあさまぁーーっ!!」
麗華の発言に固まる奏多と、瑠璃の悲鳴ような声が響きわたった。




