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過去は過去、そして今

午後の光がカーテンの隙間から差し込み、散らかったままのベッドや床に投げ出されたブランドバッグを無慈悲に照らしている。


桐谷美羽は高級マンションの一室で、ソファに座ったまま身動きが取れなくなっていた。手の中のスマートフォンは、まるで意思を持っているかのように震え続けている。


「なんで……なんでこんなことに」


唇が勝手に言葉を紡いだ。画面をスクロールするたび、心臓が締め付けられる。


『金持ちアピールしてたけど借金だったの?笑』

『元彼のお金で贅沢してた女じゃん』

『詐欺師と付き合ってた詐欺女』


コメント欄は罵詈雑言で埋め尽くされていた。フォロワー数が目に見えて減っていく。一万二千から、一万、九千五百——数字が崩れ落ちるように下がっていく様子を、美羽は呆然と見つめることしかできない。


「嘘ばっかり書いて……違う、違うの……」


画面に向かって呟くが、誰も聞いていない。颯太郎の借金問題が週刊誌に取り上げられたのは三日前。それ以来、美羽のSNSは炎上状態だった。


誰も、美羽の味方はいない。


スマートフォンが再び震えた。仕事用のメールアプリからの通知だ。震える指でアプリを開くと、コスメブランドの担当者からのメッセージが表示される。


『桐谷様 いつもお世話になっております。誠に恐縮ではございますが、今回の件を受けまして、来月のPR案件はキャンセルとさせていただきたく——』


最後まで読めなかった。続けて、アパレルブランドから、エステサロンから、同じような文面のメールが次々と届く。


「案件キャンセル……また……」


美羽はスマートフォンをソファに投げ出し、両手で顔を覆った。膝を抱えてうずくまる。インフルエンサーとしての仕事、華やかな投稿、羨望の眼差し——全てが音を立てて崩れていく。


友人だと思っていた同業者たちからの連絡は、炎上が始まった日からぱったりと途絶えていた。颯太郎は一週間前から行方不明。


「誰も、誰も味方がいない……」


美羽の声は、広すぎる部屋に虚しく消えていった。


窓の外を見つめる。沈みかけた夕陽が、オレンジ色の光を部屋に投げかけていた。


ふと、三年前の記憶が蘇った。


蒼太と一緒にいた日々。毎月のようにねだったブランドバッグ。記念日でもないのに連れて行ってもらった高級レストラン。美容院代、ネイル代、エステ代——全部、蒼太が黙って払ってくれていた。


「ソウちゃんは、何も言わずに全部してくれてた……」


『ソウちゃん、このバッグ欲しいな』

『……わかった』

『え、いいの? やったー!』


あの頃、蒼太の顔をちゃんと見ていただろうか。彼がどんな気持ちで財布を開いていたか、考えたことがあっただろうか。


蒼太は何も言わなかった。「つまらない」と言われても、「刺激がない」と言われても、ただ黙って頷いていた。そして最後には、美羽が一方的に別れを告げた。


「私は、何を返してたんだろう」


声に出してみて、答えがないことに気づく。何も返していなかった。当たり前のように受け取って、当たり前のように文句を言って、当たり前のように捨てた。


美羽は重い体を引きずるようにして、洗面所へ向かった。鏡の前に立つ。


そこに映っているのは、かつてのキラキラした自分ではなかった。目の下には隈が濃く浮かび、肌は荒れて、髪もパサついている。高い化粧品を買う余裕はもうない。エステに通う金もない。


「遅すぎた……全部」


鏡の中の自分に向かって呟く。


蒼太に会いに行った時、隣にいたあのギャルの女。蒼太を見つめる目は、真っ直ぐで、純粋で、三年間も想い続けてきたという重さがあった。


あの子は、自分が捨てたものを大切に拾い上げたのだ。


美羽の目から涙がこぼれ落ちた。


「私が……悪かったんだ」


認めたくなかった言葉が、ようやく口から出る。美羽は崩れるようにその場にしゃがみ込み、声を殺して泣いた。


蒼太はもう戻ってこない。あの温かい日々は、二度と手に入らない。全ては自分が蒔いた種だった。




——場面は一転、蒼太のマンションの一室。


キッチンからは味噌汁の香りが漂い、テーブルには凛音の手作り料理が並んでいる。肉じゃが、だし巻き卵、ほうれん草のお浸し。どこか懐かしい、温かな食卓だった。


「ごちそうさま」


蒼太が手を合わせると、凛音が嬉しそうに「お粗末様でした」と返す。


食器を片付けながら、凛音がふと口を開いた。


「ねえ、蒼太くん」


「なに」


「この前のこと……あの人に会った時のこと、考えてたんだけど」


凛音は少し照れくさそうに視線を逸らした。


「帰り道にかっこいいって言ってくれたじゃん。あれ、後から思い出すとすごく恥ずかしい……」


蒼太は食器を置き、凛音を見た。美羽と対峙した時、凛音は一歩も引かなかった。蒼太を守るように前に出て、毅然と言い返したのだ。


「恥ずかしがることない」


素直な言葉が口をついて出る。


「あの時のお前、頼もしかった」


凛音の顔がみるみる赤くなった。


「頼もしい⁉ 私が⁉」


「ああ」


「やった……! 蒼太くんに頼もしいって言われた……!」


凛音は両手で頬を押さえ、その場でくるくると回る。蒼太は思わず小さく笑った。




翌日の昼休み、蒼太は会社の休憩室で翔真と向かい合っていた。自動販売機で買った缶コーヒーを開けながら、蒼太は美羽との一件を報告する。


「で、凛音ちゃんが『私の彼氏に近づかないで』って言ったわけ?」


「まあ、そんな感じだな」


翔真は感心したように口笛を吹いた。


「凛音ちゃん、見直したわ。お前を守れる女だな」


「そうかもな」


蒼太は缶コーヒーを傾けながら、小さく笑う。


「だから言っただろ? あの子がちょうどいいって」


「……お前はいつもそれだな」


「事実だから仕方ねえだろ」


翔真は椅子にもたれかかり、天井を見上げた。


「正直さ、美羽と付き合ってた時のお前、見てて辛かったんだよ。いつも顔色伺って、金だけ使わされて。でも今のお前は違う」


蒼太は黙って聞いている。


「柔らかい顔してんだよ、最近。幸せそうでさ」


「……そうか」


「そうだよ。だから凛音ちゃん、大事にしろよ」


翔真の言葉に、蒼太は静かに頷いた。




週末の夜。蒼太の部屋で、二人はソファに並んでテレビを見ていた。凛音が蒼太の腕に寄りかかり、何気なくチャンネルを回す。


ワイドショーの画面が映し出された瞬間、凛音の手が止まった。


『人気インフルエンサー、借金トラブルで炎上 交際相手の経営者に多額の負債が発覚』


画面には、美羽の顔写真が大きく映し出されていた。かつてのキラキラした投稿写真と、疲れ切った表情の写真が並べられている。


「……これ、あの人?」


凛音の声が小さくなる。


「……ああ」


蒼太は短く答えた。コメンテーターが何かを言っているが、二人の耳には入ってこない。凛音は複雑な表情で画面を見つめている。


嫌いだった。蒼太を傷つけた人だから。でも、こうして転落していく姿を見ると、胸の奥がざわつく。同情ではない。ただ、なんとも言えない感情が渦巻いていた。


蒼太は無言でリモコンを手に取り、チャンネルを変えた。バラエティ番組の明るい笑い声が部屋に響く。


「過去のことだから」


蒼太の声は穏やかだった。凛音は蒼太の横顔を見つめる。


「蒼太くんは、優しいね」


「別に優しくない」


「優しいよ。だって、あの人のこと悪く言わないじゃん」


「言っても何も変わらないだろ」


蒼太はテレビの画面に視線を戻す。


「あいつはあいつの人生を歩いてる。俺は俺の人生を歩いてる。それだけだ」


凛音は蒼太の言葉を噛みしめた。この人は本当に、前を向いている。過去に囚われず、今を大切にしている。


凛音は蒼太の腕にぎゅっとしがみついた。


「ねえ、蒼太くん」


「なに」


「私のこと、重くない?」


不安が滲んだ声。蒼太は少し考えてから、口を開いた。


「そんなことない」


「ホント?」


「ああ。お前がいるから、前を向けるだけだ」


凛音の目が大きく見開かれる。蒼太は照れくさそうに視線を逸らした。


「美羽と別れた時、正直どうでもよかったんだ。もう恋愛なんかしなくていいって思ってた」


「……うん」


「でもお前が弁当持ってきて、一緒に飯食って、看病してくれて……いつの間にか、お前がいる毎日が当たり前になってた」


凛音の胸が熱くなる。三年間、ずっと見てきた人。ずっと想ってきた人。その人が今、自分のことを必要としてくれている。


「だから、重くない。むしろ……」


蒼太は言葉を探すように少し黙った。


「お前がいてくれて、助かってる」


凛音は涙が溢れそうになるのを必死に堪えた。


「じゃあ、私がずっと隣にいるね」


真っ直ぐな瞳で、蒼太を見つめる。三年間の片想い。ようやく叶った恋。これからは、この人の隣で生きていく。


蒼太は凛音の目を見つめ返し、小さく頷いた。


「……頼む」


ぶっきらぼうな言い方。でも、凛音にはわかる。これが蒼太なりの精一杯の愛情表現だということを。


二人は手を繋いだ。テレビからは相変わらず明るい笑い声が流れている。窓の外は暗くなり始め、街の灯りがぽつぽつと点き始めていた。


過去は過去。美羽のことは、もう関係ない。今ここにあるのは、二人だけの穏やかな時間。


凛音は蒼太の肩に頭を預け、繋いだ手に力を込めた。これが、三年間夢見てきた景色。これが、ずっと欲しかった『日常』。


そしてこれは、まだ始まったばかりだ。


「ねえ、蒼太くん」


「なに」


「私、ずっと隣にいるから。毎日『おかえり』って言うから」


蒼太は凛音の頭を軽く撫でた。


「……楽しみにしてる」


凛音の心臓が跳ねる。この人の隣で、もっとたくさんの「当たり前」を作っていきたい。


繋いだ手の温もりを感じながら、凛音は静かに微笑んだ。

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