18.待ち人、来る
小川は穏やかに流れ、涼やかな風が気持ちよい。フォイルは今日もまたディックと並び、水面に揺れる釣り糸の先を眺めていた。
「ああ、そうだ。アイリスちゃんは元気に食べてるか? リップが気にしていたぞ」
思い出したようにディックが口を開いた。
この前、アイリスと二人で訪ねた時に分けてもらったミルク粥は、その後セチアの手によってつくられていた。ただ赤ん坊が食べる量などたかが知れている。余ったパン粥はセチアとフォイルの食事だ。
『赤ん坊でも食べられるんだもの、大人が食べて駄目なわけないでしょう。ただすぐにお腹がすくだけよ』
そう言って作りすぎたパン粥を食べているセチアからは、明らかに不満がにじみ出ていた。
(確かにあれは飲み物だし、食べた気がしないからな。そんなことで強がらなくてもいいだろうに――)
「おかげさまで。野菜や果物も少しずつ試してみてます」
「……くくっ、そうか。楽しそうで何よりだ。……あっ、餌だけ食われちまったかぁ」
フォイルの返答を聞いたディックはなぜか愉快そうに笑い、釣り竿をぴょいっと持ち上げた。針の先に付けていたはずの餌が無くなっている。ディックは太い指でちまちまと餌をつけ直しながら呟いた。
「そういやぁ今日は行商人が来る日か」
「……はい。朝から張り切ってました」
ディックが語る通り、今日は帝都から村に行商人が来る予定になっている。ようやくアイリスの預け先を尋ねることができる日がやって来たのだ。それもあってセチアは早くから起き出し、あちこち掃除をしていた。フォイルが出かける時もアイリスを背負ったまま、熱心に床を磨いていた。
ようやく手元から顔を上げたディックは目を細めたまま、釣り糸を小川に投げ入れる。
「帝都に行けりゃ安心だからな。いやぁお前さんら、この国に来てよかったと思うぜ。今、王国は大変らしいからなぁ」
唐突にも思われるディックの言葉に心臓が跳ねる。フォイルには心当たりがあった。以前耳に挟んだ「聖教会がトランカート王国の玉座を狙っている」という村人たちの会話だ。
「王国は危ないんですか?」
「う~ん。そろそろ、かな」
「そう、ですか……」
ディックは明確な回答を避けた。とは言え、実際に伝わってきている状況はその程度なのかもしれない。フォイルが話を終えようとすると、ディックがどこか納得したように続けた。
「そうか、三人ともあっちが故郷だもんなぁ」
「ええ、まあ」
頷いたものの、フォイルは自分も含めアイリスやセチアの正確な出自は知らない。「きっとそうなのだろう」というくらいだ。だがディックが少しの沈黙の後に口にしたのは、フォイルの名だった。
「なぁフォイル」
「はい?」
「お前さん、本当は……」
「?」
「いや、何でもないよ。――ああ腹減ったな。全然釣れねぇし、そろそろ帰るか」
「はい……」
違和感の残る言動だったが、それ以上ディックが問いかけてくることはなかった。だからその時はフォイルも流すことにしたのだ。フォイル自身、答えられることも限られているから――。
◇
「さあ、待ちに待った日がやって来たわよ!」
セチアはピカピカに磨き上げた床を満足げに見渡した。床に敷いた敷布の上にはアイリスが上手にお座りして、セチアを見上げている。くりくりした青い瞳を見つめ返し、セチアは気合を入れる。
「もう一度言うけど、今日は帝都からの行商人が来るのよ。あなたのこと、なんとしてでも売り込まなくっちゃ」
グリン婆から「行商人が来ると便りが届いた」と連絡があったのが二日前の事。気合を入れて磨き上げた室内は見違える――とは言えないまでも、いつもよりもきれいに見える。
(孤児院があるかどうかわからないのなら、一番重要なのは伝達役の行商の人よ。行商人に最大限良い印象を持ってもらわないと、いい預け先を紹介してもらえないかもしれないもの!)
セチアがアイリスの引き取り手と直接交渉することはない。行商人に仲介をしてもらうわけだから、行商人への印象を良くしておいて損はない。
「ほら見てちょうだい……って、あなたが見てもわからないだろうけど」
セチアは一枚の紙を取り出し、アイリスの目の前に突き出した。この紙はいわゆるアイリスの「身上書」だ。行商人のことをよく知らないこともあり、口頭だけでは正しく伝わるかわからないと考えたセチアが準備した。
「へぶー」
「健康状態は良好。よく動き、よく笑い、よく飲む丈夫な女の子です、って書いておいたわよ」
掲げた身上書を欲しがって手を伸ばすアイリスをかわしたセチアは、「そういえば」と紙を見返した。
「やっぱり。髪の色と目の色を書いてなかったわ。それも追加しておきましょうね。えっと、ペンは――」
「んま?」
セチアは棚の上に身上書を置き、ペンを取るべく辺りを見回した……が、どこにもペンはない。
ここでセチアは自分の迂闊さ、そして日頃から整理整頓ぐせをつけていなかったを悔やむこととなる。ウロウロと探し回りようやくペンとインク壺を見つけた時には、もう全てが終わっていたのだ。
「もういやね。すぐ置き忘れちゃ……」
ペンを手に振り返ったセチアの目に飛び込んできたのは、もぐもぐと口を動かすアイリス。そして置いたはずの場所にない身上書だった。
「……へ?」
セチアが状況を理解するのに一拍の間が必要だった。
「はむっ、はむっ……」
「あぁぁああぁぁっ……! アイリス、それっ!?」
ペンを投げ捨て、アイリスに駆け寄る。アイリスの手にはくしゃくしゃになった紙――身上書だったものが握られていた。慌てて取り上げるも、既によだれでべとべとになった紙は所々欠けている。その光景に一気に血の気が引く。
「何てことぉー!? ほら、ペッしなさい! ペッ!」
セチアは無我夢中でアイリスの口の中に指を突っ込んだ。歯がないので噛まれる心配はないが、赤ん坊のどこにこんな力が隠されているのだろう。固く閉じられた口を懸命にこじ開け、身上書の破片を探る。
「ほら……! ちょっとだけ、見せてちょうだいな……っ」
「んぎー……うみゃ!? ……っ、ぅぎゃぁーん!」
とうとう耐えきれずアイリスが大声で泣き出した。絶好の機会到来だ。セチアはすぐさま口の中を調べる。
「……あった!」
上あごにへばりついていた紙をつまみ取ると、間違いなく破れた身上書の一部だった。同じように口の中に残るいくつかの紙切れを取り出す。
きっとセチアがペンを探している時に、置いたはずの棚からアイリスの近くに落ちてしまったのだろう。この紙が持つ意味をアイリスが理解しているはずもない。見たことのない遊び道具だ。
「もう、残ってない……かな」
「ぎやぁーん!」
大きく開いた口の中を覗き込む。どうやらセチアが見つけた破片以外は口の中に残っていないようだ。もし取り切れなかった細かい紙を飲み込んでしまっていたとしても、便と一緒に排出されるだろう。
とは言え遊び道具を無理やり奪われたアイリスの嘆きは治まらない。目尻からぼろぼろと涙を流して大泣きしている。こんな状況で身上書を書き直す余裕はない。
「ほら、泣きやんでちょうだい」
セチアはまったく泣き止む気配のないアイリスを抱き上げ、少しでも機嫌を治すべくゆらゆら揺らす。
なんならもうすぐ行商人が来てしまうかもしれない。こんなに泣いている姿を見せるわけにはいかない。だが泣きやませようとセチアが焦るほど、アイリスの機嫌は悪化する一方だ。
「ぎわゃぁーん! っ、びぇぇーんッ……!!」
「はいはい、悪かったわ。でも、だめなものはだめなのよ。もうやだ、なんでこんな時に限って――」
「おいおい、セチア。賑やかにしてどうしたんだい」
残念ながら間に合わなかったようだ。玄関からかけられた声に振り向くと、グリン婆が立っていた。
「グリン婆!」
「行商が来たから連れてきたんだがね……おうおうアイリス。そんなに泣いてどうした? ほら、婆のところにおいで」
「うぁーんっ!」
そう言ってグリン婆は、セチアと泣くアイリスの元に歩み寄った。その後ろから大きな荷物を抱えた人物が現れる。グリン婆が案内してきた行商人だ。
「はじめまして。事情は村長さんから伺いました」
「あ、ど、どうも。よろしくお願いします」
セチアににこやかに声をかける行商人はまだ若そうだ。セチアとそう変わらないように見える。赤っぽい栗毛の長髪は背中で一つにくくってあり、同じ色の瞳ははっきりとした目鼻立ちを際立たせている。
だがセチアが行商人を観察しているうちに、彼の表情がそれまでの笑顔から、だんだんと怪訝なものに変わっていった。そして――
「……もしかして、セチアか?」
「え?」
気づけば行商人の瞳が大きく見開かれ、セチアを見つめていた。
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