第七十一話 打ち合わせ
歪みを抜けたその先は、いつもの見慣れた洋市の我が家で、亜希にはまだ新鮮な隣人の部屋だった。
アパートの一室。
窓の外から聞こえてくるのは、トラックのエンジン音。
洋市たちは、無事日本・須田市に帰ってきた。
「ただいま」
「おかえりなさい」
洋市が何気なく放った一言に、亜希が律儀に反応する。
ふふ、と小さな笑い声を出した後で、洋市は胸の紋章に触れて人間に戻る。
「──やっぱり身体が重く感じますね」
人間の姿になった途端、なぜか息苦しさや疲労感を覚えてしまう。
もはや、人間の姿よりもゴブリンの方が快適になってしまった洋市であった。
亜希は、そんな洋市のボヤキを聞きながら、身体を伸ばしながら左右に振ってストレッチする。
「身体を伸ばすといいらしいですよ、洋市さん!」
荷物を置いて、リビングで肩をほぐす亜希は、無事に帰って来れたので上機嫌だ。
アルトヤ界・レゾルグ王国において、まさに命がけで刺激的な日々を過ごした二人は、ようやく体の芯から脱力できた気分だった。
「亜希さん、今回も色々とサポートありがとうございます。とりあえず、バルカスさんの件もありますので、今後について少し相談しましょう」
ブラックコーヒーとカフェオレを淹れ、カフェオレの方を亜希に渡した後、洋市が続ける。
「亜希さんは出勤のこともありますし、これから明日の夕方まで、いったんアルトヤ界のことは置いて須田でゆっくり休んだ方がいいですよね」
亜希としてはありがたい申し出だったが、一抹の不安もある。
「ありがたいんですけど……その感じだと、洋市さんだけであっちに行くつもりなんですよね?……やっぱりなんか申し訳ないなあ」
洋市は顔の前でいえいえ、と手を振り、亜希に自分の考えを伝えた。
「今後に備えて、ちょっと試したいこともあるんです」
洋市は、自分の部屋にあるPCを指さした。
「砦で使ったタブレットがあるでしょう?あれはスキルらしいんです。でも、タブレットならデータを移行すればローカル環境で仕事ができるんじゃないかと」
ちょっと何言ってるか分かんないです、という顔をする亜希。
洋市が補足する。
「要するにですね、アルトヤ界ではインターネットが使えない。でも、タブレットは使える状況。だから、私のPCから仕事に必要なデータだけを取り込んでおけば、あっちでもクライアントから請け負った仕事ができるんじゃないかと」
この人正気か!? と衝撃を受ける亜希。
かつて事務員として働いていた頃、亜希の職場には『365日のうち360日働いている』という噂の、いつも咳をしていた課長がいた。
亜希は彼のつらそうな姿を思い出し、本気で洋市の身体を心配した。
「何言ってるんですか洋市さん!ただでさえ異世界で危ない目に遭ってるのに、これ以上仕事を増やしたらいつか心臓が止まりますよ!」
ワーカホリック気味であることは自覚している洋市であったが、心臓が止まるというパンチラインを食らって、さすがにやり過ぎかと少し考えてしまった。
しかし、クライアントへの納品は遅らせたくないため、亜希を安心させられるよう言葉を選ぶ。
「万一に備えてですよ、あくまでも万一。あっちで一日中仕事をすることは考えてませんから」
洋市の感覚として、フリーランスなら四六時中、仕事のことを考えているのは当然だという意識があった。
休みを取ったら、その分だけ収入が減ることになるので、何となく働いていないと不安なのである。
しかし、夜の仕事とはいえ、きちんと給料をもらって、休みの日はきちんと休む生活をしている亜希からすれば、毎日休まず働くというのは狂気の沙汰だった。
「なんか、そういう話を聞いちゃうと、洋市さんが須田にいないのが不安になってきました」
「いや大丈夫ですって」
洋市は、自分にできる限りの明るい、柔和な笑顔を見せながら、亜希の不安を和らげようとする。
「確か、亜希さんの護衛は『継続期限なし』にアップデートされていて、それで私の召喚機能が使えるようになったものと記憶しています」
──────────
> クエスト【契約・隣人の盾】継続中
> 受託条件:倉橋亜希の身辺警護(48時間継続)→(期限なし)
──────────
洋市は、過去に聞いたアナウンスの内容を思い出し、亜希に共有した。
亜希も、アプリ『アルトヤ界観光ガイド』の機能欄をチェックし、召喚機能の記述を確認する。
──────────
▶【召喚】機能について
▶使用条件:アプリ所持者が「生命の危機」に瀕しているとシステムが判定した場合のみ発動可能
▶使用回数:日本時間で1日(24時間)に1回のみ
▶効果:現在の空間の壁(異世界か否か)や距離を問わず、対象者を強制的に使用者の眼前に転移させる
▶Update!:魔石(小30/中20/大2)の使用により、対象者を召喚可能になりました!
──────────
「あ、そうだった……でも、急なタイミングで召喚することになりますよ?」
亜希は、翔に殺されそうになって洋市を召喚したとき、洋市が食事中だったことを思い出した。
洋市もその状況を思い出して苦笑いする。
「まあ……その時はその時ですよ。とにかく、ピンチになったら遠慮なく呼んでください。……ちゃんと助けられたでしょう?」
洋市がどこか間の抜けたように言うと、亜希は吹き出して「そうですね」と返す。
二人の間には、命を懸けた分だけ、信頼関係が築かれていたようだ。
いちおう、二人は今後の方針について、大まかには検討を終えた。
そこで亜希は、ふと悪戯っぽい、それでいてどこか自分の心配を打ち消そうとしているような、おねだり顔で洋市を見た。
「あの……一つ条件を付けてもいいですか?もし、今日の夜、自分の部屋で寝るのが怖いと感じたら、洋市さんの部屋で寝てもいいですか?」
「へ?」
怖いから隣で一緒に寝たい、という意味で言っているのだろうか。
洋市は、意図のよく分からない質問を受けて、思わず変な声を出してしまった。
「私はひょっとしたら、今日のうちに部屋に戻れないかもしれませんよ?」
亜希は慌てて否定する。
「あ、いや、違います!その、一緒に寝たいって言ってるんじゃなくて!私の部屋に誰か変な人が来たら怖いから!それで!リビングでもどこでもいいので!雑魚寝でいいので!寝かせてもらえたら!なんて!あはははは!」
ああなるほど、と洋市は理解し、そういうことならベッドをどうぞ、と提案する。
洋市としても、女性にこのような提案をするのは気が引けた。
しかし、せっかく寝るならベッドを使った方が疲れもとれるだろうと思ったのだった。
「まあ男の一人暮らしですから、加齢臭とか生乾き臭とか、気にならないなら構いませんよ」
割と本気で心配した洋市の返事に、亜希は吹き出して、それから大笑いした。
「大丈夫、大丈夫ですから! 洋市さんまだ加齢臭ないですよ。大体お日様のニオイがします。あと血のニオイ」
血のニオイをうら若き女性が知ってしまうのはどうなんだろうか。
洋市は少し不安になりながらも、まあいいか、と納得し、デスクの引出しから自分の部屋のスペアキーを取り出して亜希に渡す。
「本キーはありますから、それを使って出入りしてください。どうせ金目のものもありませんから」
そこまで言った後、洋市は、あ、と思い出したように注意した。
「PCと机はロックしてあるので、一切触れないでください」
いつもの柔和な雰囲気の洋市とは、まるで違う、冷ややかなトーン。
まるで鋭利な刃物を首筋に当てられたかのように感じられ、亜希は一瞬すくみ上がった。
これを破ったら、最悪、自分でも殺されるんじゃないかと思うほどに。
もっとも、どのみち自分が触る用事はないと思い直す。
亜希はつとめて明るく「ありがとうございます」と言って、スペアキーをジッパー付きのポケットに収納した。




