自己嫌悪について考えてみた
私は、未だに自分が嫌いだ。……といっても、稀にその状況に陥るということなのだが。
自分が憎くて憎くて仕方ないことがある。泣いて泣いて、自分の存在を自分自身で否定して、自分に言葉の刃を突き立てることも稀にある。
ここに私が現れる前後、私は常にそれをしていた。
理由は、そうしないと生きていけなかったから。
だが今となって、ふとした疑問が湧いた。
取るに足らない事象と言ってしまえば、そこで終わるだろう。事実、そうなのだから。
しかし、私にとってこれは、至極興味深いことだった。
さて。ここに1つの議題を提示して、皆に問おうではないか。
私は何故、自己嫌悪をしないと生きていけなかった?
何故人は、自分自身を嫌悪する?
いざ落ち着いてみて、頭が冴え渡っている状況下で。私は、その答を考えた。
そしてたどり着いたそれは、あまりにも単純すぎるものだった。
楽だったのだ。自己を嫌悪することが。
自分を傷つけることが、当時の私には、とても楽だった。
私は、人間が好きだ。会えばすぐに化学反応を起こすような、己を己と認識し思考する人間が。
そんな、自分が好む存在を。恨み、傷つけ、蔑ろにすることが。果たして、できるだろうか。
そうしてやり場を失った怒りを、憎しみを。私は案の定どこにも向けることができずに居た。
けれど、負の感情をそのままにしておく訳には行かない。感情というもの自体がベクトルなのだから、嫌でもどこかに向かわせざるを得ないのだ。
どこにも向けられない負の思いが限界値に達した時、私は無意識に思いついたのだろう。
これを自分自身に向ければ、誰も傷つきはしないと。私自身が傷つくのみに留めることができると。
耐えられなくなったら、消えればいいと。
もちろん、苦痛であることには間違いない。
しかし、誰かを傷つける際の罪悪感に比べれば、一段と軽いものだった。
ただ、自分の中で留めておくことは、当たり前だが不可能だった。
だから私は、他人のせいにすることはせずとも、自己嫌悪しないということを学ぼうとしている。
やはり自己嫌悪するよりも、しないほうが断然に楽なのだ。
それに、耐えられなくなったら文章に起こして、負のベクトルを白紙に向けて、心の闇をこれでもかと吐き出して。
これはある種の作品だと言い張って、ここに投下すればいい。
私は、文章作品を創り上げるときに、最近は美しさを重視する。
そうすれば自分を嫌いにならなくとも、誰も傷つけないで済むだろうから。
暇があったら、私の創作物を、過去の物から順に読んでみてください。
時が経つに連れて、気持ち悪さがマシになってきていると思います。
これが、私の成長の証ですね。




