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菌類畑と豚の鳴き声、そして少女

錆びた金属の階段を上りきり、ニコとカイはB3Fのプラットホームに足を踏み入れた。背後でB4Fへと続く道が閉ざされたような感覚は同じだったが、今回は隣にカイがいる。その事実は、ニコの心に、孤独だった時とは比較にならないほどの安心感と、同時に奇妙な緊張感を与えていた。彼らは二人で、この未知の階層を生き延び、さらに上を目指さなければならないのだ。


空気が違う。B4Fの、澱んで鼻をつく黴と汚水の匂いは後退し、代わりに、湿った土と、アンモニアのような刺激臭、そして微かに甘く、しかしむっとするような菌類の独特な匂いが混じり合って漂っていた。それは決して快適な香りではなかったが、B4Fの腐敗臭よりは、いくらか「生命」に近い匂いのように感じられた。


「…ここがB3Fか」カイが、周囲を見回しながら低く呟いた。「食料生産層、だったな」

彼の目には、技術者としての分析的な光が宿っている。


照明は、B4Fよりは数が多く、通路の脇に広がる区画をぼんやりと照らし出していた。そこには、ニコが見たこともない光景が広がっていた。延々と続く、土が盛られたうねのようなものや、棚田のように積み重ねられた飼育箱。そこで育てられているのは、地上からの光なしで育つように遺伝子操作された、淡い燐光を放つ巨大なキノコや、ねじくれた根菜のような植物だった。壁に張り付くように設置されたパイプからは、時折、栄養液のようなものが霧状に散布されている。


「光合成しない菌類と、おそらくは成長促進された牧畜…か。効率は悪いだろうが、閉鎖環境で食料を確保するには、これしか方法がなかったんだろう」カイは、まるで独り言のように分析する。


遠くからは、低い豚の鳴き声や、鳥の羽音のような音(おそらくは、これもまた遺伝子改変された食用昆虫か何かだろう)が絶えず聞こえてくる。B4Fの、不気味な静寂や、突然の暴力的な叫び声とは対照的な、単調で、しかし絶え間ない生命活動の音が、この階層を支配していた。


「まずは、身を隠せる場所を探そう」カイがニコに囁いた。「俺たちは、どう見てもここの住人じゃない。特に俺はな。目立つ前に、状況を把握する必要がある」


二人は、プラットホームから続く通路の隅を選び、他の労働者たちの様子をうかがった。B3Fの住人たちは、B4Fのそれとは異なり、一様に薄汚れた作業着を身につけ、黙々と働いていた。その顔には、B4Fのような剥き出しの絶望はない代わりに、慢性的な疲労と、日々の労働に追われる諦観のようなものが色濃く浮かんでいる。彼らは、ニコたちのような新参者にはほとんど目をくれず、ただ自分の持ち場へと向かい、あるいは作業を終えてねぐらへと戻っていく。


「管理されているな…」カイが観察しながら言った。「おそらく、厳しいノルマがあるんだろう。そして、それを達成できなければ…」

カイの視線が、無意識に下…B4Fのある方向へと向けられる。この階層の住人にとっても、最下層への恐怖は、労働への見えざる鞭となっているのだ。


ニコたちは、他の労働者の流れに紛れ込みながら、目立たないように移動を開始した。彼らは、旧世界の広告が貼られたままになっている壁の窪みや、今は使われていないらしい古い資材置き場の影などを見つけ、そこを転々としながら、B3Fの環境をさらに詳しく観察した。


畑の手入れをする農夫たち。彼らを監視し、指示を出している監督官らしき人物たち。そして、B2Fへと続くと思われる通路。それは、B3Fの中央付近、かつての大きな乗り換えコンコースだった場所にあり、やはり警備兵によって固められていた。B4Fの関門よりも頑丈そうなゲートと、より規律正しく見える二人組の警備兵。


「次の壁だな」カイが、B2Fへのゲートを遠巻きに眺めながら言った。「B4Fと同じ手が通用するとは思えん。情報を集めないと」


二人は、B3Fの「日常」に紛れ込みながら、B2Fゲートの警備体制や、通行する人々の様子、そしてこの階層の権力構造について、注意深く情報を集め始めた。カイがいることで、ニコ一人では気づかなかったであろう、施設の構造的な特徴や、人々の動きのパターンなど、多くのことに気づくことができた。だが、同時に、カイの存在はリスクでもあった。彼は明らかに労働者ではなく、その鋭い観察眼は、時に監督官たちの注意を引く可能性があった。


そんな観察を続けていたある日、彼らは一つの出来事に遭遇した。それは、B3Fの厳しさを象徴するような光景だった。

畑の一角で、一人の少女が、監督官らしき男に厳しく叱責されていたのだ。年の頃はニコと同じくらいか、少し下だろうか。痩せていて、顔や手足は泥と煤で汚れていたが、その目には、諦観に染まった他の農夫たちとは違う、反抗的な光が宿っていた。彼女の区画は、他の区画よりも明らかに作物の育ちが悪く、収穫量がノルマに達していないようだった。


「今月もこれだけか! 言い訳は聞かんぞ、ヘラ!」監督官の甲高い声が響く。「これ以上、ノルマ未達が続くなら、お前の区画は没収だ! 分かっているのか!? 次はB4F行きだぞ!」


男は、少女が持っていた小さな収穫籠を蹴飛ばした。わずかな、しかし彼女にとっては貴重なはずの光る菌類が、汚れた地面に散らばる。ヘラと呼ばれた少女は、唇を強く噛み、拳を握りしめて俯いている。だが、その肩は怒りに震えているのが見て取れた。


監督官は、さらに罵詈雑言を浴びせると、唾を吐き捨てて去っていった。周囲の農夫たちは、見て見ぬふりをしている。ここで下手に口を出せば、自分たちに火の粉が降りかかることを知っているのだ。


残された少女ヘラは、しばらくその場に立ち尽くしていたが、やがて、ゆっくりと屈み込み、地面に散らばった菌類を、一つ一つ、まるで大切な宝物でも拾うかのように、丁寧に拾い始めた。その姿は、あまりにも孤独で、そして痛々しかった。


「…ひどいな」ニコが、思わず呟いた。

「これが、ここの現実なんだろう」カイが静かに言った。「ノルマを果たせなければ、B4Fへ送られる。恐怖による支配だ。だが、あの子…」


カイは、ヘラの姿を注意深く観察していた。「ただ怯えているだけじゃない。目には、まだ抵抗の光がある。もしかしたら…」


ニコも、ヘラの姿から目が離せなかった。彼女の境遇への同情。そして、あの監督官への、そしてこのシステム全体への怒り。そして、彼女の瞳の奥に見える、消えない光への共感。彼は、ヘラに近づき、何か声をかけるべきか、迷っていた。

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