エピローグ
ニコが地上へと消えてから、どれくらいの時間が流れただろうか。B2Fの機械の街では、相変わらず無数の機械が唸りを上げ、油と金属の匂いが漂っていた。
カイは、自身の小さな作業スペースで、老朽化した空気循環システムのフィルター交換を行っていた。彼は、中央管理局への一件の後、しばらくは監視下に置かれたものの、その卓越した技術力を惜しまれ、再びエンジニアとしての地位を(以前よりは制限された範囲ではあるが)回復していた。彼の隣では、数サイクル前にはまだおもちゃをいじっていた娘が、今は父親の簡単な手伝いをしながら、真剣な眼差しで配線図を覗き込んでいる。
「父さん、ここの流量計の値、少し不安定みたい」
「ああ、そうだな。センサーの感度が落ちているのかもしれん。後で調整しよう」
カイは娘の頭を優しく撫でた。彼のそばには妻もおり、家族は以前よりも確かな絆で結ばれているように見えた。彼は、あの時、ニコとヘラと別れ、この道を選んだ。血を流すのではなく、自分の持つ技術で、この閉鎖された世界を内側から少しでもマシなものにすること。そして何より、この腕の中にいる娘の未来を守ること。後悔はしていなかった。
だが、時折、彼は手を止め、工具を持ったまま、虚空を見つめることがあった。特に、新しい世代の技術者候補生たちが、目を輝かせながら旧世界のデータや、実現不可能な夢のような技術について語り合っているのを見ると、あの少年のことを思い出さずにはいられない。
ニコ。最下層から這い上がり、たった一冊の古びたガイドブックを胸に、絶対的な壁に挑み、そして、本当に外の世界へと飛び出していった少年。
(…あいつは、たどり着けたのだろうか。あの、写真で見た…海とやらに)
カイは、自分の娘の無垢な横顔を見ながら思う。あの子に、本当の空を見せてやりたい。その想いは今も変わらない。だが、自分は、あの時のニコのように、全てを捨てて飛び出すことは選ばなかった。選べなかった。それでよかったのか、今でも時々、自問することがある。
彼は、ニコが中央管理局から持ち出したという「真実のデータ」を見ていない。ニコが無事に脱出したのか、地上が本当に生きていたのか、彼には知る術がない。だが、彼は信じたいと思っている。あの日、自分が感じた、ニコの目の中にあった強い光が、嘘ではなかったことを。そして、いつか、この地下都市にも、本当の空が見える日が来るのかもしれない、と。カイは、再び工具を手に取り、目の前の現実…老朽化した機械と、そして愛する家族…と向き合う。胸の奥に、あの少年の記憶を、小さな希望の欠片として仕舞い込みながら。
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一方、B1Fの偽りの楽園では、ヘラが人工の公園のベンチに座り、暖かな人工の陽光の中で、静かに目を閉じていた。彼女の服装は、他のB1F市民と変わらず清潔で、その表情は穏やかだ。彼女は、ニコがいなくなった後、B1Fのシステムに順応し、「市民」として登録され、簡単なデータ整理の仕事と、清潔な居住区画を与えられていた。もう、B4Fに落とされる恐怖も、B3Fでの過酷な労働もない。食べたい時に食べ、眠りたい時に眠れる。それは、かつての彼女が夢見た「安全な生活」そのものだった。
時折、フードセンターで提供される良質な(おそらく合成だが)肉料理を口にする時、彼女はかつて自分たちが犯した罪…ボリン邸への強盗…のことを、苦い気持ちと共に思い出す。だが、その記憶も、日々の穏やかな生活の中で、少しずつ薄れつつあった。
しかし、完全に消え去ることはない記憶もある。それは、ニコのことだ。
特に、この人工の公園で、完璧に手入れされた緑(しかし、どこか生命感に欠ける緑)を見ていると、彼が熱っぽく語っていた「海」のことを思い出す。あの、どこまでも青い、本物の世界。
(…彼は、海を見られたのかしら)
ヘラは、そっと目を開け、光を放つ天井…偽物の空…を見上げた。ニコが中央管理局で見たという「真実」。地上は生きていて、支配者たちは嘘をついていた。その衝撃は大きかった。だが、彼女は、それでも、あの時、ニコと一緒に行くことを選ばなかった。未知の地上への恐怖と、ようやく手に入れたこの安定した生活を失うことへの恐れが、勝ってしまったのだ。
(私は、これでよかったのよね…?)
時折、そんな迷いが心をよぎる。だが、彼女はすぐにそれを打ち消す。自分はニコのように強くない。夢を追いかけるより、確かな現実を選んだのだ、と。彼女は、自分に与えられたこの「幸福」の中で、静かに生きていくことを決めたのだ。
それでも、彼女は時折、空想する。ニコが、あのガイドブックを手に、どこまでも広がる青い海辺を歩いている姿を。風を感じ、本物の太陽の光を浴びて。もしかしたら、彼は、地上のどこかで、新しい仲間を見つけ、元気にやっているのかもしれない。そう思うと、少しだけ、胸が温かくなるような気がした。
ヘラは、ベンチから立ち上がり、自分の居住区画へと歩き出した。彼女は、この偽りの楽園で生きていく。ニコとの短い、しかし強烈な冒険の記憶と、彼が目指した「海」への、ほんの少しの憧れを、心の奥底に秘めながら。
地下世界では、今日も変わらず、管理された時間が流れていく。支配者たちの嘘は、まだ厚い壁に守られている。だが、かつて一人の少年が灯した小さな希望の火花は、彼と関わった者たちの心の中で、静かに、しかし確かに、燻り続けているのかもしれない。それが、いつか再び燃え上がり、この巨大な地下都市を揺るがすことになるのか、それとも、ただの記憶として風化していくのか。それは、まだ誰にも分からない未来の話である。
ご愛読ありがとうございました! 初の作品で、拙いところも多々あったかと思いますが皆様にお読みいただいて大変ありがたいです。
ニコの冒険については、続きのストーリーのプロットも組んであります。折を見て続きを書いていきたいと思っています。
しかしながら全く他の作品も一度書いてみたく、一旦そちらを書き進めようと思っています。




