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そして地上へ

頭上のハッチ。ニコは、錆びた梯子に掴まりながら、それに手を伸ばした。固く閉じられている。彼は全体重をかけて押し上げてみたが、びくともしない。外側からロックされているのか、あるいは長年の放置で固着しているのか。


(ここまで来て、終わりか…!?)


諦めかけたその時、彼はハッチの隅に、旧式の、しかし頑丈そうな手動式のロックハンドルがあるのに気づいた。彼は片手で梯子にしがみつきながら、もう片方の手で、ありったけの力を込めてハンドルを回そうとした。錆びついた金属が、ギィィ…と悲鳴のような音を立てる。彼の腕の筋肉が、限界まで張り詰める。


そして、ゴッという鈍い音と共に、ロックが外れた!


ニコは、今度は体重をかけて、ハッチを内側から押し上げた。ゆっくりと、しかし確実に、ハッチは上に向かって開いていく。隙間から、埃っぽい、そして今までとはまた違う種類の、淀んだ空気が流れ込んできた。そして、微かな光も。


彼は、最後の力を振り絞って梯子を登りきり、ハッチの縁に手をかけ、外へと転がり出た。


そこは、シャフトの闇とは違う、しかし、やはり薄暗い空間だった。彼が想像していた「地上」ではない。だが、B1Fの清潔さとも違う、何十年もの間、完全に放棄されていたかのような、静かで、埃っぽい場所だった。見上げると、天井は非常に高く、所々が崩れ落ちている。壁には、旧世界の地下鉄駅のものと思われる、色褪せた案内表示や広告が残っていた。おそらく、ここは中央管理局のさらに上、あるいは外縁部に位置する、駅施設の最上層部、今は使われていないメンテナンスフロアか何かだろう。


(出口は…どっちだ?)


ニコは、すぐに携帯端末を取り出し、情報統括部でコピーした構造図データを確認した。幸い、この放棄されたフロアの簡単な見取り図も含まれていた。データによれば、このフロアの北西の端に、地上へと通じる、封鎖されたはずの古い避難通路があるらしい。


彼は、データチップを懐にしまい、再び走り出した。今度は、追っ手の心配は少ないかもしれないが、この老朽化したフロア自体が危険だった。床が抜け落ちないか、天井が崩れてこないか、常に注意を払いながら、彼は図面が示す方向へと進んだ。


埃と静寂の中を、彼は一人で走り続けた。途中、完全に機能を停止した巨大な換気ファンや、錆びついた作業機械の残骸などを目にした。かつては、ここも人々の往来や、機械の駆動音で満たされていたのだろうか。


やがて、彼は目的地である、フロアの北西の端にたどり着いた。そこには、分厚い金属製の扉があった。「地上避難経路 - 緊急時以外閉鎖」という古い表示が、かろうじて読み取れる。扉は、見た目にも頑丈で、厳重にロックされているように見えた。だが、データによれば、これは物理的なロックであり、内部からであれば解除できる可能性があるという。


(この扉の向こうが…地上…!)


ニコの心臓が高鳴った。彼は、扉のロック機構を調べようと、一歩踏み出した。その時だった。


「ニコ!」


背後から、聞き慣れた声がした。ニコは驚いて振り返った。そこに立っていたのは、息を切らせ、不安げな表情を浮かべたヘラだった。


「ヘラ!? なぜここに…!?」


「あんたが…心配で…」ヘラは、途切れ途切れに言った。「隠れ家からいなくなってたから…あんたが中央管理局に行ったって、すぐに分かった。それで…私も、あんたが向かいそうな場所を探して…この上の階層に来るしかなかったから…」

彼女は、どうやってここまで来たのか、その苦労を滲ませながらも、ニコの無事な姿を見て、安堵の表情を浮かべた。


「無事だったのね…! よかった…」


「ヘラ…」ニコは、言葉を失った。彼女が、自分の後を追って、ここまで来てくれたことに、胸が熱くなった。だが、同時に、彼女を再び危険な状況に引き戻してしまったことへの罪悪感も感じた。


「ここが開けば、外へ出られるはずだ」ニコは、目の前の扉を示した。「俺は、中央管理局で見たんだ。証拠も手に入れた。支配者たちは嘘をついていたんだ! 地上は、生きていた!」


ニコは、興奮気味に、情報統括部で知った真実…地上コミュニティの存在と、支配者層による隠蔽工作…をヘラに語った。そして、証拠のデータチップを見せた。


ヘラは、ニコの話を、最初は信じられないという顔で聞いていたが、ニコの真剣な眼差しと、データチップの存在(中身は見せずとも)に、それが真実であることを徐々に理解していった。彼女の顔が、驚愕と、そして裏切りへの怒りに染まっていく。


「そんな…! ひどい…! 私たちはずっと…!」


「そうだ。だから、俺は行く」ニコは、地上への扉に向き直った。「外の世界へ。そして、海を見るんだ。ヘラ、一緒に来てくれ! 今なら、二人でここから出られる!」


ニコは、ヘラに手を差し伸べた。だが、ヘラは、その手を取ろうとはしなかった。彼女は、ニコの視線の先にある、重く冷たい金属の扉と、そして、自分たちが来た方向…B1Fへと続く、暗く埃っぽい通路とを、交互に見比べた。その目には、真実を知ったことによる怒りと、しかし、それ以上に、未知の世界への深い恐怖が浮かんでいた。


「…行けないわ、ニコ」ヘラは、震える声で、しかしはっきりと首を振った。「地上は生きているかもしれない。でも、それがどんな世界なのか、私たちには分からない。ここより安全だという保証もない。それに比べて、B1Fは…少なくとも、食べるものも、寝る場所もある。もう、飢えたり、怯えたりしなくていい…」


「だが、それは嘘の上に成り立ってるんだぞ!」ニコは叫んだ。「飼われているのと同じだ!」


「それでも…!」ヘラも叫び返した。「それでも、私はもう、これ以上、危険なことはしたくない! あんたみたいに、強くないのよ! 海が見たいなんて、そんな夢みたいなこと、私には…」

彼女の目から、涙が溢れた。「ごめんなさい、ニコ…でも、私は、ここがいい。ここで、生きていく…」


ニコは、ヘラの決意が固いことを悟った。彼女の恐怖も、安定を求める気持ちも、痛いほど理解できた。彼らが共に歩む道は、ここまでだったのだ。


「…そうか」ニコは、寂しさを噛み殺し、差し出した手をゆっくりと下ろした。「分かった。ヘラの気持ちも、分かるよ」


彼は、ヘラに向き直り、最後に一度だけ、彼女の目をしっかりと見つめた。「元気でな、ヘラ。あんたも、ここで、自分らしく生きてくれ」


「ニコも…気をつけて」ヘラの涙は止まらなかった。「絶対に…死なないでよ」


ニコは、小さく頷くと、ヘラに背を向け、再び地上への扉と向き合った。彼は、扉の古びたロック機構に、カイから託されたピッキングツールと、鉄パイプを差し込み、力を込めた。何度か試みるうちに、ガコン、という重い音と共に、ロックが外れた!


ニコは、扉に手をかけ、ゆっくりと、しかし力強く、それを外側へと押し開いた。


隙間から、風が吹き込んできた。地下では感じたことのない、湿り気と、土と、そして微かな潮の匂いを含んだ、生の風。そして、光。曇り空から差し込む、柔らかく、しかし圧倒的な自然の光が、彼の目を眩ませた。


彼は、振り返らずに、その光の中へと、一歩、足を踏み出した。


ハッチの外は、崩れかけたコンクリートの残骸と、しかし、その隙間から力強く生い茂る緑の草木に覆われた、広大な空間だった。彼は、自分が、かつての都市の、おそらくは高台に位置する場所に出てきたことを理解した。そして、視線を上げると、そこには、どこまでも広がる、灰色の、しかし紛れもない「空」があった。


ニコは、深く、深く、息を吸い込んだ。それは、B1Fの管理された空気とは全く違う、複雑で、力強い、生命の匂いがした。彼は、懐のデータチップと、そしてガイドブックの感触を確かめた。


視線を、風が吹いてくる方向へと向ける。湾があり、その向こうに、彼が目指す「海」があるはずだ。道は遠く、険しいだろう。危険も待ち受けているに違いない。


だが、彼はもう一人ではなかった。胸の中には、ヘラとの絆、そしてカイが託した想いがある。そして何より、彼自身の、揺るぎない意志がある。


ニコは、瓦礫を踏みしめ、海へと続くであろう方向へ、その第一歩を踏み出した。偽りの楽園を後にし、真実の世界へ。彼の本当の旅が、今、始まったのだ。

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