66.自己投薬記録
その夜、私は自室でガンフに渡されたノートを机に置き、しばらくノートを見つめていた。
何がどうして、こんなことになったかは分からないけど、ここにはハークハイトの痛みと苦しみの過去がある気がした。
「よし……」
覚悟を決めてページを開くと、
私が気付いてからの投薬の記録をここに示す。
その根源を取り除けない不甲斐ない私をどうか許してほしい。
いつかこのノートを見る人が、彼の助けになってくれることを願う。ガンフ。
そう書かれていた。
そして、次のぺージからはただひたすらにびっしりと記録が書かれていた。
これは、ハークハイトの自己投薬の記録だ。
五月二日
午前十時 エスぺ抽出液の投薬開始 数分後軽度麻痺
午後七時 麻痺症状が完全に消える
五月七日
午前十時 ビローザを服用 数分後、激しい嘔吐、痙攣
一時間後、本人の許可の元、解毒剤投与
五月十一日
午前九時 ヒュミールの葉を服用 数秒で軽度呼吸困難
午前十時 続行は困難と判断し、解毒薬投与
苦しい思いをするとわかっていながら、どうしてハークハイトはこんなことをしたのだろうか。
その後も、記録はページが許す限り続いた。
八月十四日
午前九時 チャコラの実を服用 一時間後、嘔吐、腹痛症状
午前十一時 発熱 本人の意識がはっきりしているため研究棟地下にて、様子見
約三日間の発熱症状を経て八月十七日完治
記録を見る限り、投薬や毒の服用が数日おきに行われていた。
――ノア、実験の時間だ。
「こんなのまるで……」
ページをめくる手がだんだん重くなっていった。こんな痛みや苦しみが続けば、心がどうなるか、ずっと忘れようと心の奥底にしまった鍵のかかった記憶の箱がガチャリと音を立てて開くのを感じた。
「涙が……」
気付けば、ぽたぽたと涙が木でできた机に落ち、草花が芽を出していた。
泣いてはいけないと、どれだけ涙を拭っても、次から次に出るそれは、私の意思に反してとどまることを知らない。
涙を拭かなくちゃ。この涙は、あの人たちにとっては恰好の実験材料で、渡してはいけない。
違う、ここはハークハイトの家で……。
――ノア、実験の時間だ。
「違う。私は、もう……」
過去の光景が目の前に思い出された瞬間、私はここがどこなのかわからなくなっていた。
――ノア。
「違う……」
――バケモノ!
「違う……マオ、ハク……たすけ、て……!」
***
気が付けば、家を飛び出し靴を履くことすら忘れた足で、私はひたすらに走っていた。
「カオ! ヤヤ……!」
誰でもいい、誰かいるなら返事をして欲しい。これが夢じゃないと、目が覚めてもあの場所には戻らないと教えて欲しい。
息も絶え絶えに走っていると、魔狼たちが正面から走ってくるのが見えた。
私は、走る足を緩めることなくそのまま黒い毛並みに抱き着き顔を埋めた。
「助けて……。たす、けて……」
誰に向けた言葉なのか、何に対しての言葉なのか、自分でもよくわかってはいなかった。
震える身体で、ただ必死にこの毛並みから手を離してはいけないと、何度も何度も力を入れ直した。
「シロっ……!」
よく知る声がしているはずなのに、頭がその言葉を理解しない。シロって誰だっけ……?
「こんな夜に急に家を飛び出して一体何を……シロ?」
全ては、現実から目を逸らしたい私が作り出した妄想で、森での日々も、フェリジヤ領に来てからの日々も、全部全部作り物で、この暗闇から顔を上げ、現実を見たら、またあの無機質な小さな部屋にいるのではないかと思うと、怖くて怖くてたまらなくなった。
「シロ、どうした?」
震える身体にそっと触れる大きな手の温もりが背中にあるのを感じるのに、今はその手を確認することが怖い。
「主! これが机に」
「これは……。まったく、余計なことを……」
ザビも来てハークハイトと何か話しているけど、私は、顔を上げることが怖くて、もしかしたら作りものじゃない、現実かもしれない彼らのいる世界を見ることを拒絶した。
***
ここがどこで、今が何時で、どうして私はここにいるのかもわからない。いつもと同じ小さな部屋の鍵がガチャリと開き、ギィっと嫌な音を立てて開く扉の音を私はその日も聞いていた。
もうこの音を聞くのは何度目だろう。物心ついた時には、私は既にここにいた。
「ノア、実験の時間だ」
そう言われた私は、もう拒否する言葉も忘れていた。
最後に残った無意識で首を振ったけれど、その行為はこの状況になんの影響も与えはしない。誰も私の拒絶など、見てはいないのだから。
逆らえば体に付けられた装置から電気が流れ、その後の実験もさらに辛いものになる。
抵抗を見せず、手を引かれて連れていかれた。いつもの寝台で手足を固定され、私は、これは虚空の中なのだと無機質な天井を見つめていた。
今日は何が行われるのか……。毒を飲まされるのか、刃物を突き立てられるのか、謎の香りに酔わされるのか、それはわからない。
息ができなくなっても、身体から血が出ても、鼻血を出して嘔吐をしても、ここから私を助けてくれる人などいない。
ただその時間が早く過ぎれば良いと、願わくばそのまま二度と目を覚まさずにいられたらと願っていた。
「ノア、実験の時間だ」
けれど、そんな願いを誰かが聞き届けてくれるはずもなく、翌日も、その翌日も、またその翌日も。その声は毎日扉が開くと同時に聞こえて来た。毒は翌日も引きずることはあるけれど、切り刻まれたはずのこの身体に、傷跡は残らない。
おかしな身体だ、気持ち悪いと、彼らが話している声を聞いたことがある。
実験が終わり目が覚めれば、無機質ないつもの小さな部屋に寝ていて、食事の時間になると毎回同じ四角い食べ物を渡される。
「ノア、実験の時間だ」
こんな日々がもう何日目なのか、いつまで続くのかもわからないまま、言葉を発することを忘れ、味を感じることを忘れ、匂いを感じることも、何かを目で捉えることも忘れ、ただ毎日痛みと苦しみだけを与えられ、死ぬことを許されず、何かを考えることすら放棄し、抜け殻のまま日々を過ごした。
――あの時、私はどうやってここを抜け出したんだっけ……?
全てを諦め、どれくらい経ったかもわからなくなったその日、ばたばたと聞きなれない足音が聞こえ、バンッ! と扉が勢い良く開いた。
「ここを出るぞ。君は、こんなところにいたらダメだ!」
そう言って、急いでガチャガチャと私の身体に付いた装置の鍵を外していくその人は、まだ私が無邪気に笑っていた頃に何度か会ったことがある人だった。
「しっかりしろ。必ず助けてやるから」
私を抱えあげた彼は、部屋を飛び出した。
けたたましく響くサイレンの音と、叫び声と共に飛んでくる刃物の様な風。
「っ……! くそっ……!」
どれだけ傷を負っても走ることを止めない彼は、ついに外へと出た。
「はぁ……はぁっ……絶対、絶対助けるからな!」
頭上の空から降り注ぐ数多の水と、ピカリと光り、轟音を鳴らす光と音の正体を知ったのはそれから少し後のことで、外まで聞こえるサイレンの中、私はただ遠ざかって行く初めて見た私がいた小さな部屋の外側、あの檻の正体を見つめていた。
「はぁ……はぁ……」
それから彼は、木々の間や岩の陰に隠れては追っ手をやり過ごしあてもなく先へと進む。
「ここまでか……」
そんな呟きが耳に届くと、
「俺はダメでも、この子だけなら……」
彼は意を決した様にガサガサと草を分け、木々の中を入っていく。
グルルルと何が唸る声や、カカカカと変な音がしているけれど、逃げようにもずぶ濡れになって失った体温に、私も彼も既に限界だった。
「誰か……この子を……」
白い息を吐き出しながら、大声も出ない体力で重たい足をそれでも前へ進める。
「……っ!」
けれど、疲れきった彼の足は思うように上がらず何かに躓き、私は抱えられたままドサッと地面へ転がった。
――もういい。ありがとう。
そう言いたいのに、声は音にならず、雨に冷え切った身体は重い瞼に抗えない。
「招かざる客が来たものだ……」
そして、目に映った白い四肢とふわりと頬に触れた何かを、その声の正体を、確認しようと視線を動かし終わるより先に私は意識を手放していた。
――そうだ。あの日、私はマオによって施設から抜け出し、森でハクとジジ様に助けられたんだ……。
***
あの時の様に、ふわりと何かが頬を撫でた。
「ハ、ク……?」
「起きたか、問題児」
ぼんやりとする視界が徐々に鮮明になっていくと、朝日の中で私の頬を親指で撫でながら隣で寝そべっている白髪青目のハークハイトがそこにいた。




