邪神に転生した私 緑の少年盗賊編【ファンアートあり】
【レックス】
赤髪緑目の盗賊団の下働きをしていた少年。年齢13歳、物覚えと頭の良さを隠しながら生きてきた。少年時――意地悪(並)、依存(軽)。青年時――意地悪→腹黒(並)、溺愛(強)。
・レックスのイラストをいただきましたので頁末に載せました。
その声が聞こえたのは偶然だった。
泣き疲れて夜空に浮かぶ黄色と青の月らしき天体を見上げていた美紅は、野外だというのに妙に安心する現在の状況に苦笑いを浮かべていた。
奇妙で残虐で不可思議なことがあり、さらに問答無用で命を狙われているのだ。普通なら神経がもたないと思うのだが、人間ではないナニかになったせいか平静を保っている。まるで本や映画の世界のように現実味がないといったらしっくりくるだろうか、などと妙に冴えた頭で考えていた時だ。
「****! **!!」
「?」
ドームの一部は森にかかっていた。そちらのほうでたいまつらしき明かりが右往左往しているのが見える。野太い男たちの怒鳴り声と人の動く気配、そして。
「子供の、声?」
声変りをしたばかりの、低いが澄んだ声が悲鳴を上げたような気がしたのだ。反射的に目を凝らすと木々の間をすり抜けるように走る細身の影が見える。それを追う複数の大柄な男たちの影も。
「こっちへ!!」
思わず声をかけてしまったのは子供を守らなくてはならないという美紅の常識からだ。このドームは美紅の意思を汲んでくれている。願えば少年を受け入れてくれるだろうと信用する程度には慣れてきていた。
案の定、腕から血を流した少年は白濁した壁を通り抜けて倒れこむ。まさかドームの中に入ったとは思いもしない男たちは抜き身の剣を片手に、少年を探して森の中をうろついていた。
「だ、大丈夫、じゃないよね!」
女性であるがゆえに血は見慣れているといっても、年若い少年が青い顔で倒れれば動揺もする。慌てて駆け付けた美紅は「治れ~、治れ~、痛いの痛いの飛んでけ~」とあの男たちのように治癒を試みると、温かい風がふわりと舞って腕の傷が瞬く間に塞がっていった。
「少年、少年! 傷は治したけど他にどこが辛い? 話せる?」
水を飲ませてやりたいがここにはない。それに脱水とか出血多量の場合は傷を塞いだだけでは意味がないのだ。気が動転してオロオロと少年に触れることもできずにいると、ぼさぼさの赤い髪の隙間から緑の目がこちらを見上げていた。
「良かった! 気が付いた。どこか痛かったり辛かったりするところはない? 大抵のことなら治してあげられると思うんだけど……あ、ごめんね。水とか食べ物はないの。喉乾いてるよね。どこかにお水ないかな」
「ぉぃ」
「ああ、器もないし、生水が飲めるか判らないよ。どうしよう。外の連中から盗んでこようか……でもあんなムサイおっさんどもの水筒を少年に使わせるのもなんかヤダ」
「ぉい」
「だいたいいきなり人の胸を揉むような連中の仲間の水筒なんて生理的に受け付けないわ。あ、あの女の人のだといけるかな」
「おい!」
「はい!」
年齢の割に恫喝じみた声で美紅はようやく落ち着いて少年を見た。
少年の身なりはあまり清潔ではないが最低限の身だしなみは整えてある。ただ体の細さから余裕のある生活をしているようには見えなかった。
少年は伸びた前髪の間から綺麗な緑の目で睨みながらゆっくりと起き上がる。
「お前、誰だ」
美紅の母がここにいれば「口悪い!」と速攻叱咤が飛んできそうな口調だが、美紅は気にすることもなく素直に名乗った。
「私は森永美紅です。訳がわからないままここにいるんだけど、君は?」
「って嘘だろ。ここ、結界の中じゃねぇか」
美紅の自己紹介を無視するように身構えた少年は油断なく警戒するように辺りを見回していたが、周囲には美紅と自分しかいないことが判ると肩の力を抜いて座り込む。血の気が足りなのか顔色は悪いが、強気な光を宿した翡翠の目は美紅を見据えて離れることはなかった。
レックスはある村の聖教会に孤児として住んでいた。
父親は村を守護する仕事をしていたが、ある日強い魔物が現れて食い殺されたらしい。母親は少しばかりの魔力を持っていた薬師で、レックスが物心ついたころに流行った病を治療させようと領主の館に連れていかれたまま帰ってこなかった。
一応村の一員であり、村を守るために死んだ父親の忘れ形見ということで粗末だが衣食住を与えられていたが、十歳になるかならないかの年に村は盗賊団に襲われて壊滅した。若い女性は連れ去られ、食料を奪われ、それ以外の村人は皆殺しにされたが、レックスの赤い髪を見た盗賊団の首領が「薬師の息子か」とつぶやくと彼は荷物持ちとして生かされた。
連れ去られた村の女たちからは裏切り者だと罵られるも、それも奴隷商に売り渡されるまで。後に首領は領主の館で働いていたことがあり、そこでレックスの母親を見たのだと話してくれた。レックスの母は薬師の知識で病を治療したが、彼女を襲った領主に逆らったとして護衛に切り殺されたらしい。
村に息子がいるのだと話していたのを覚えていた男はレックスの赤い髪を見て気まぐれで助けたのだろう。
恩を感じたわけではなかったが、子供一人で生きていけるほどこの国は甘くない。それを身に染みて知っていたレックスは理不尽な暴力を受けてもただ黙って食事を与えてくれる盗賊連中に従っていた。
それがつい昨日まで。
盗賊団がアジトにしていた森に大勢の傭兵と聖殿騎士が集まり、得体のしれない結界を取り囲むついでに、周囲の掃除に乗り出した連中に捕縛されたり殺されたりしたのだ。たまたま雑用で外に出ていたレックスと一部の人間だけが難を免れたが、魔物が闊歩する森を抜けて街に一人で行くことがどれだけ危険か理解していたために、傭兵たちのキャンプから離れずに様子を見ていたところを運悪く見つかってしまった。
薄汚れた服に手入れのされていない髪、がりがりに痩せた体はまっとうな職に就いていないことを物語り、更に傭兵たちの食事を盗もうとしていて見つかったことからレックスは追われることになったのだ。
すばしっこく逃げていたものの手練れの傭兵相手に追い詰められ、無意識に呼ばれる声に従ってどこかに入り込めば、そこは連中が包囲している結界の中だった。
「お前、誰だ」
警戒しながら問えば、あからさまに安どした様子を見せた女が小さく笑ってへたり込む。
「私はモリナガミクです。訳がわからないままここにいるんだけど、君は?」
女の答えに訳が分からないのはこっちだと言いかけたレックスは、自分が結界内部にいることに気が付いて慌てて周囲に気を配った。
「って嘘だろ。ここ、結界の中じゃねぇか」
傭兵たちのうわさではとんでもない化け物がいるらしい。これだけの戦力が集まっていながら手も足もでない状況に、傭兵の腕を吹き飛ばしてその仲間を焼き殺した残虐な邪神ではないかとか、数百年前に地上から消えたという魔族ではないかと様々言われていたのを盗み聞きしていたが、レックスからすれば情報の正確性に欠ける印象だった。
なぜなら有名傭兵チームを全員惨殺したなら、誰が化け物の情報を持って帰ったのだ。
周囲に視線を巡らせるも場にそぐわないのんきな女が一人いるだけで、それらしき姿はない。なにより目の前の女が生きているのだ。傭兵たちの情報の不確実さから推測してもなにか大きな食い違いがあると、結界内に唯一存在していたモノをじっと見つめる。
黒髪に濃い茶色の目、見慣れない服でレックスを見る女は、それでも本気で自分を心配しているのが判る。孤児であるがゆえに同情とか哀れみといった感情に敏感な自分でも気が抜けるほど気弱な様子に、ようやく肩の力を抜いて一息ついた。
「ここに化け物がいるって聞いたんだけど、お前なのか?」
この女が化け物にしろそうでないにしろ、結界内に引き込まれた以上レックスに脱出する手段はない。聖殿騎士連中が総力を挙げて破ろうとしたそれは、二日たっても揺るぐことがなかったのだ。知識も力も足りない自分にどうにかできると思うほど現実が見えないわけではなかった。
「え~と……化け物……ってなんだろうね?」
女はレックスからの質問に視線を迷わせ、素知らぬ風を装っているようだが。
嘘が下手すぎだろ。
半眼になる少年に気付かぬまま女性はちらちらとこちらを見ると、うなだれて大きくため息を吐いた。
「君、判ってて質問してるよね」
「まぁな。数日前からここを見てたから。どう見てもここには俺とお前しかいないし」
「いや、ほら、二日も経ってるから逃げちゃったのかも」
「この結界ができたのも二日前だろ? 二日って知ってるならその時からお前はここにいたことになる」
「それが判っていて質問するのって理由があるのかな」
少しすねたような表情で言い返す女性を見て、レックスの口端が小さく上がる。盗賊団を失ってから初めて動いた表情に気付かぬまま、腕の傷があった場所を確認した。
「服が切れて出血の跡があるのに傷がない」
「私が治したよ。他に痛いところはない?」
意識が朦朧としていた時にも聞いた質問は、それまでの動揺を忘れたように優しく紡がれる。自分を思いやる言葉は遠い昔に聞いた誰かの声と重なり、いとも簡単に情報を渡してきた間抜けな女をしばらく見つめた。
「ん?」
さらりと揺れる黒髪は手入れが行き届いていて、見慣れない服とともに裕福な商人の娘のようにも見える。
「俺の名前はレックス。お前はなんて呼べばいい?」
先ほど名乗ったモリナガミクは本名なのだろうが、そのまま呼ぶわけにはいかないだろうと質問すると女は嬉しそうに笑った。
「ミクでいいよ」
「お前は魔導士なのか?」
「マドウシ?」
いとも簡単に治した腕の傷、これだけの傭兵と聖殿騎士がいるにもかかわらず破れることのない結界に見慣れぬ風体。理を操る専門職である魔導士はごく少数で、それも人前にでることは滅多にないと言われている。だからこその質問に、美紅は職業そのものを知らないかのように首を傾げた。
「おい」
ふざけるな、ちゃんと質問答えろと睨み付けても、にこにこと楽しそうに笑う美紅は意味が判っていないようだ。
「私はね、レックス君。この世界に二日前に来たの」
「は? 意味わかんねぇ」
「信じる信じないは君に任せるけど、私は君以上にこの世界のことを知らないの。この膜だってどうやって張っているのか判らないし、君の腕の傷を治した原理も判らない。もっというなら言葉が通じる理由も判らないんだよ」
淡々と告げる言葉は到底受け入れられるものではないが、レックスは言葉の衝撃よりも美紅の笑顔に目を奪われる。その笑顔は、彼が最後に見た母親のものと重なるのだ。今なら判る。あれは不安や恐怖を隠すための笑みだったと。
「ちゃんと説明できなくてごめん。私もどうしてここに来たのかすら知らないんだよね」
困ったなぁと言いつつも笑うその姿に、立ち上がったレックスは膝をつく美紅を見下ろして黒髪にそっと手を置く。
「判った。その辺は俺が自分で判断する。だから辛いなら無理に笑うな」
年上のくせに嘘の下手な女は驚きに目を丸くした。そしてその濃茶の目に見る見る涙が盛り上がり、瞬きすることなく白い頬を流れ落ちていく。
「おい。俺は無理に笑うなって言ったんだ。泣けとは……」
うつむき嗚咽を漏らす華奢な体が小さく震えていて、レックスははぁと音もなくため息を吐くと頭に置いた手で黒髪をそっと撫でる。
「少し待ってやるから泣き止めよ。泣き続けるならここに置いてくからな」
レックスの言葉に美紅はのろのろと頭を上げた。泣きながら不思議そうな顔をするとは器用なことだと笑いながら、彼女が知りたいだろう答えをはぐらかすために話題を変えた。
「俺はここから逃げる。もともと盗賊の下働きをさせられていたからちょうどいいし。お前はどうする?」
三年以上一緒にいた連中が壊滅しても自業自得だとしか思わない。レックスは誰かを傷つける者はいつか誰かに傷つけられるものだという父親の数少ない教えを覚えていた。これ以上体が大きくなれば襲撃に参加させられることになりそうだったし、手を汚す前に逃げ出すことができて良かったとさえ思っていたのだ。
「連れてって、くれるの?」
「なんだ? お前、ここにいたいのか?」
こんな何もない野原の中にいたって面白いことなどないし、この世界は人ひとりくらい隠れる場所はいくらでもある。美紅を殺そうとしている連中から逃げたいのではないかと思っていたのだが、そうではなかったのかと首を傾げると黒髪が勢いよく横に振られた。
「お前には助けてもらった恩がある。ここから街まで案内くらいはしてやるよ」
偉そうに言ってやるが、レックスはここから近くの街まで自力で行くことはできない。ここは危険な魔物の生息地帯で、腕に覚えのある傭兵や大人が数人いて、さらに馬車を使わなければ渡れない場所なのだ。だからこそ森から逃げ出すこともできずにいて、傭兵に見つかり追われたのだが。
「そしてここからは契約の話をしようぜ」
騙しやすそうな目の前の女を使い捨てても良かったが、命を救われた借りを返すには道案内だけでは不足だ。そして踏み倒すなど男の矜持が許さなかった。
見上げてくる涙の止まった目を笑いながらのぞき込み、涙の跡を親指で乱暴に拭ってやる。
「俺だけじゃ、ここから街までたどり着けないからお前の力を貸せ。その代わりお前がこの世界で生きていくのに必要な常識や知識を俺が教えてやる。どうだ。乗るか?」
契約はレックスの得にしかならないが、それでも美紅に今必要なのは何も聞かずに常識と隠れ方を教える人間のはずだ。聖殿騎士が出てきた以上、たぶん美紅に普通の生活はできない。少なくともレックスが知る聖殿騎士とはそこまで無慈悲な集団だ。聖殿の上の人間に掛け合えるくらいの地位や身分を手に入れれば何らかの落としどころはあるだろうが、慈悲深いといわれている聖女に会うのですら金がかかるのだ。ほぼ無理だろう。
だから自分の通ってきた裏道が彼女には必要だと、美紅に自覚させぬまま見えない手を差し伸べる。
レックス以外の誰に助けを求めても美紅の未来は聖殿騎士に差し出されて最悪処刑されるのだと知るのは、もっと後でいいはずだ。
美紅はレックスの契約にそれまでとはうって変わって理知的な表情でじっと見上げてくる。負けてなるものかと妙な対抗心から目をそらさず見つめ続けると、微かに頬を染めて美紅のほうが先に視線をそらした。
「その契約に少し足してもいい?」
なぜか謎の満足感ににんまりと笑ったレックスは、ゆっくりと立ち上がった美紅を見上げる。まだ頭一つ分ほどの身長差のせいで見下ろされることになったが、かまわずに一歩近づいた。
「言ってみろ」
近づいた分だけ離れようとした美紅の手を取り、けれどそれ以上動くことなく続きを促すと真剣な声で契約の追加を話し出す。
「まず私は『お前』じゃない。名前で呼んで。それと私といることでレックス君が不利になるなら見捨てて。そして一番は君が幸せになる努力をしてちょうだい」
微かに震える声で精いっぱい強がった言葉にレックスは緑の目を細めた。この期に及んで他人の心配をするお人よしな女性が、まるで力など持たない普通の人間のように緊張して返答を待っているのを見て肩の力が抜ける。
「判ったよ。俺は俺のやりたいようにやる。ついでにミクを助けてやる。これでいいんだろう?」
「うん! 良かった~。今からどうしようか凄く困ってたんだよね。よろしくね、レックス君!」
満面の笑みを浮かべて一気に安心したらしい美紅に、レックスは掴んでいた手を固定したまま背伸びをしてピンクの唇に自分のそれを重ねた。
「な、っちょ、えっ?!」
美紅は反射的に後ずさるも手を捕られていてはそれほど距離が空かず、顔を真っ赤に染めてうろたえる様子を見ながらレックスは楽しげににっこりとほほ笑んだ。
「これで契約成立だ。よろしくな、ミク」
「え? 契約するのにキスするの? それなら……仕方ない、の、かな」などと勝手に推測している美紅を年上なのに間抜けで可愛いと思っているなど少しも出さずに、少年はここから出るための準備を始める。
「まずは不可視の結界を張れるようになるぞ」
「ええ! 私が? やったことないよ!」
「大丈夫だ、心配するな。今からさせるから」
「もうちょっと、こう、みんなが寝てる間に抜け出すとか……」
「見張りがいるから無理だな。それにミクは足音消せないだろ。あきらめろ」
「うー、レックス君が思ったよりサドっぽい……」
「ごちゃごちゃ言ってないで練習するぞ。聖騎士が来る前にここを出るからな」
「はぁい」
こうして邪神と呼ばれた存在は忽然と姿を消すこととなる。
五年後
美紅は薬師兼傭兵、レックスは傭兵として各地を転々としていた。今のところ聖殿騎士団に追われている様子はないので、このままいけば引退も視野にいれることができると話していたのはつい先日。
この世界の傭兵はいわゆる冒険者としての役割も担っており、魔物の討伐から植物の採取までさまざまな仕事がそろっている。美紅でも受けることのできる依頼をこなしながら、二人はとある街の傭兵ギルドに立ち寄っていた。
「なぁ、レックス。あんな役立たずな薬師と組んでないで俺たちと一緒に行こうぜ」
今回の依頼のために臨時で組んでいた別パーティーの男が声をかけてくる。最近は依頼の終わりにこうやって勧誘をする連中が増えてきていたから、美紅はすでにカウンターに避難させた。ギルド職員とにこやかに話をする後姿を眺めながら連中の話を無視していると、傭兵にしては細い手がスルリと腕に巻き付いてきた。
「あんたなら歓迎するよ。あの女がいなきゃ、もっとレベルの高い依頼を受けられるし。どう?」
近づいた可愛らしい男の身長はレックスよりも少し低いくらい。弓使いだという男は意味ありげな視線を投げてきたが、緑の目はカウンターにいる彼の相棒に向けられたままで返事もしなかった。
「ちょっと!」
「話がそれだけならもういいな。俺は最初から断ると言ったはずだ」
言い捨てると巻き付いていた腕を引きはがして踵を返す赤髪の青年だが、ふっと思いついたように足を止めて振り返る。
「娼婦兼傭兵のお前よりミクのほうがよほど信頼できるぞ」
そう言って挑むように笑う顔に、侮辱されたはずの男も含めてその場にいた男たち全員が見惚れたのだった。
「これが今回の報酬だ。お疲れさん」
「ありがとうございます。十万だけ残して、他は等分に分けてレックスと私の口座に入金をお願いしますね」
傭兵を引退したらしい初老の男性が心得たと立ち上がるのと同時に、背後に慣れ親しんだ気配が寄り添う。見上げればレックスが赤い髪をかき上げなら微かに疲れをにじませていた。
「あちらのお話は終わった?」
「ああ」
今回の依頼で臨時で組んでいた傭兵たちに呼び止められていたレックスだが、いつものように勧誘を断って戻ってきたらしい。ギルドの壁際でこちらを睨む一団に苦笑しながら、美紅は気づかわし気に相棒である青年を労った。
「私との契約を覚えてる?」
「もちろん」
「なら、いい」
レックス自身の幸せのために努力するという言葉を違えなければ、彼の選択を疑う必要はないのだ。
「ミク」
「なに?」
「俺は今日で十八になった」
出会った頃とは全く違う低くて少しかすれた声が興奮を抑えきれないように言葉を紡ぐ。緑の目はただまっすぐに美紅だけを見つめて、大きくてかたい手が契約を交わした時のように左手を握った。
突然傭兵ギルドのカウンターの真ん前で始まった話に、周囲の人間も何事かと手を止めて視線を向けてくる。
「うん。知ってる」
契約を交わした時のように目をそらしたくとも真剣な青年の様子に動くことさえできなくて。
「これで前に言っていた条件は満たしたな?」
頭がよくてしっかりしているレックスがわざわざとった確認に美紅の顔が赤くなった。心臓が口から飛び出そうになりながら口を引き結びつつ小さくうなずくと、この五年で驚くほど体格の良くなった青年はおもむろにひざまずいて美紅を見上げる。
「愛している。俺と結婚してほしい」
そう言って左手の薬指の付け根に口づけた。
とっさに空いていた右手で鼻と口を押え、真っ赤になったまま楽しそうな相棒を見下ろす。周囲の人間もかたずをのんで見守っていた。
いや、言った。確かに言った。美紅の理想のプロポーズを、少年だったレックスに語ったことはあった、けど!
「なんで、ここで!」
「ミクの性格上、人目があればすぐに返事をくれるだろ? 告白ですら理由をつけて何度も先送りさせられたんだ。このくらいは許してもらいたいな。で、返事は?」
出会った時から少し意地の悪かった彼は、大人になって隠す術を身に着けたらしい。一切揺るがない視線を合わせながら、美紅はここまでだとあきらめることにした。
「私も愛しています。よろしくね、レックス」
求婚の承諾に一斉に沸き立つ周囲の人間をよそに、赤い髪を揺らしながら立ち上がった青年は愛しい女性の薬指に金属の指輪を通す。驚いて見上げると幸せそうに笑うレックスが腰を引き寄せて上から覆いかぶさるように口づけた。
「これで契約成立だ。よろしくな、ミク」
耳元でささやかれた言葉に腰が抜けそうになりながら、最初の契約の時からこうなることが運命だったのかもしれないと美紅は笑うしかなかったのだった。
「契約成立にキスって誰もやってないよね」
「なんだ。今頃気が付いたのか」
「いや、契約してから一年経ったころに気づいたんだけど」
「意外と遅かったな」
「その余裕の笑みがむかつく。他にも嘘は教えてないよね?」
「ああ。あの時はお前と契約を結ぶために必死だったからな。すぐに信じたから助かった」
「そうだよね! レックス一人じゃ街にたどり着けなかったもんね!」
「それにああすればミクは俺以外と契約を結ばないだろうって思ったよ」
「~~~っ」
「それに少しは俺のことを男だと意識してくれるかとも期待した。全然効かなかったけど」
「……そうだったのね……マセガキめ……」