少女は旧大陸を引き続き闊歩する *閑話 雨の出立
*
ゆらり、ゆらりと視界が揺れる。
宵の暗さの中に光るのは、ただ一本の銀の糸だ。
けれども意志を持ったように温かく、シュルシュルと音を立てて指から腕へと順に絡みつく。
「……凄い強度だなぁ」
普通の糸なら、まず間違いなく体の重みや重力に耐え切れずに切れるか、この身を裂くかしただろう。
けれども、これは守の糸。
呪いを込めて紡がれたそれは、そんじょそこらの糸とは訳が違う。
他でもない、水糸の守の血族であるカイル少年が紡いだ特別製なのだから。
『……凄く嫌な浮遊感なの』
「あぁ、お目覚めかい? 眠り姫」
モゾモゾと後頭部から顔を出し、淡黄色の双眸を眠たげに瞬かせるのは灰色のモコモコである。
今に至るまでずっと熟睡していたらしい。
最早その執念には笑うしかない。
『……どういう状況なの? 奈落の底みたいなのが見えるの』
「うーん。ちょっと力み過ぎちゃって、大地を割っちゃったというか、その……」
『呆れたの。馬鹿なの?』
「ごめん、否定できないかも」
はー、と深い溜息が零れる。
ブラブラと守の糸に吊るされながら、少女は糸の先で必死に命綱になってくれているリーゼを見上げた。
遠目に商人殿が駆け寄って、残る片腕で糸を少しずつ手繰り寄せてくれているのも見える。
『……仕方ないの。今回はちょっとだけ手を貸してあげるの』
「ん?」
モゾモゾと頭の上で羽毛が擦れるような気配。
グッと襟首を持ち上げられるような感覚と共に、ふわりと足元が浮かぶ。
別の意味での浮遊感に、少女は目を瞠った。
ピンと張っていた銀の糸が撓み、耳を打つのは紛れもない羽音。
視界が大きな二つの双翼に遮られる。
闇夜にも輝くような、純白。
いつもの見慣れた灰色は、ほんの僅かに目の周りに滲むばかり。
『この貸しは、高くつくの』
「……うん。ありがとう」
ふわり、と風を受けて地面に足を着いた。
駆け寄ってくるリーゼはもう泣いていて、手に持った糸ごとギュッと抱きしめられる。
見仰ぐ先では、商人殿が安堵の溜息を零していた。
「流石にヒヤッとしましたよ」
「あはは、ごめんね。でも、まだ安心するには早いかも」
見交わす目の中で、互いにまだ危機は去っていないことを再確認する。
「あの崩落を受けても、生きているのですか」
「うん、多分ね。底に墜ちたのは確かだけど、気配は消えてない。カイル少年と合流して、早くこの場を離れないと」
「ん! カイル、呼んでくるね!」
口から糸を離し、グッと身を屈めたと同時に空へ跳躍するリーゼ。
その緋銀の輝きを見送りつつも、油断なく少女は地割れの底へ視線を落とす。
負傷した片腕を抱えつつ、商人殿もいつになく冷ややかな双眸を眇めていた。
「……あんなものを王国の愚者共は長きにわたって幽閉し続けていたのですね。恐怖心すら麻痺させた結果が、この有様ですか」
「うーん。何とも言えないけど、結局のところは『人』と『悲劇』の相性が悪すぎるから、往々にして厄介事は生まれやすいってことじゃないのかな?」
「あぁ……確かにそれは否定できませんね」
「それにしても、ここからどう距離を稼いだものかなぁ。アレに限らず、こんなものにまで追われたら流石に辟易してくるよ」
チラリと横目で見上げた先には、真白の両翼。
眠たげに瞬く双眸は、少女と見合うなり一言。
『緊急時に限るの。宛てにされても困るの』
「うん。まさしく予想通り」
あちらの大陸では旅の翼となってくれた飛竜たち。
こちらの大陸でもと願うのは、やはり甘えが過ぎるらしい。
また別に探さなくてはなるまい。
少女は頭の片隅で呟く。
「ま、無いものねだりしても仕方ないね。当面は足早に旅路を進んで、追いつかれたら都度撃退、って方向で行くほか無いかな……」
ポン、と何か気の抜けるような音と共に純白の巨体が消失する。
ボスン、とそれなりの重みと共に腕の中に舞い戻る灰色のモコモコは既に寝息を立て始めていた。
「何とも、緊張感に欠けますねぇ」
「んー、まぁ元より眠り姫の性だ。こればかりは仕方ないんだろうね」
灰色の羽毛を撫でながら、少女はそれを抱え直す。
見上げた先には、月明かり。
そして月を背に、緋銀の輪郭を滲ませるリーゼの飛影が一つ。
ここからは宵闇に紛れ、朝までにどれくらい距離を稼げるかが問題になる。
「おーい、無事か?」
「うん、大丈夫。守の糸のお蔭で命拾いしたよ。ありがとう、カイル」
「……役に立ったなら良かった」
ホッと両肩を撫で下ろすカイル少年と、傍らで嬉しそうに尻尾を振るリーゼ。
ようやく合流できた面々は互いに目を交わし、無事を確認した。
早速とばかりに商人殿が口火を切る。
「まだアレは底で沈黙を保っていますが、それほど猶予はないでしょう。早々にこの場を離れるのも大切ですが、恐らく斥候が何人か身を潜めている筈です。そちらの目を欺く方策も考えねば、日を跨いだところで無益な鼬ごっこになり兼ねません」
「あぁ、さっき俺たちを足止めしてきたのは『鱗』の獣人だった。リーゼの鼻で嗅ぎ取れた人数も含めると、全部で三人斥候がいると考えた方が良いな」
「ふーん。なるほどね、斥候が三人ときたか」
「せっこうって何?」
こてりと隠すことなく首を傾げるリーゼに、ついと人差し指を立てながら商人殿は微笑んで返す。
「敵の内情を探る者。より簡単に言えば、覗き見る者たちのことですね」
「んーと、つまり今も覗かれてる?」
「ええ、おそらく」
説明している内に、商人殿の表情は苦笑交じりになる。
横目でそれを伺いつつ、少女はふと思い立つ。
ポン、と手を打った。
「追われるんじゃなくて、追わせる側になればいいんだ」
「んー。それってどういうこと?」
「どうせ追われる身の上なら、多少は意趣返しもしないとね。……来ると分かっているのなら、状況次第で罠だって掛けられる」
「随分とえげつない考え方だな」
げんなりとした表情を隠しもしないカイル少年と、それに微笑んで返す少女。
そんな彼らを見守る形の商人は、どこか楽し気ですらあった。
「獣人の特徴として、五感の何れかが際立って優れていることが挙げられますね。……そこを逆手に取れば攪乱や、簡単な嫌がらせ程度のことは出来るかもしれません」
「いいね。試してみる価値はあるかも。じゃあ、ひとまず歩きながら考えていこうか」
微笑みを交わす少女と商人。
それを横目に見ながら、微妙そうな表情を隠しきれないカイル少年。
そんな彼を見て、首を傾げるリーゼ。
ここ数日の間で、この光景もさして珍しいものでは無くなった。
「……同情するのも変な話だけど、何と言うか。うん」
「カイル、罠、反対?」
獣形で寄り添うリーゼに、カイルは苦笑を返す。
「いや、下手な同情は命取りだからな。反対はしない」
ポンポン、とリーゼの額を撫でながら足早に二人の後を追う。
この先に何が待ち受けようとも、行けるところまでは共に行くと豪語したのは他ならぬ自分だった。
「惑いの荒野に更に罠を足す、か……」
それはむしろ地獄を作るのと変わらないのでは、とも考えたものの。
他に思いつく案がある訳でもない。
それに先に手を出してきたのは、あくまでも向こう側だ。
容赦する必要も無いだろう、とカイル少年が思い至るのも当然の帰結といえた。
「……罠かぁ。何だか久々で腕が鳴るなぁ。殺傷力は低めに、数は多めで試してみる?」
「いえ、殺傷力については加減しなくともよいでしょう。半端な情けは後々に響きます」
「んー。それもそうか。じゃあ、過去に試したえげつないモノから順々に設置していこうかな」
「では、地表の分はお任せします。私は岩場や樹皮を媒介に時限式の術式で試してみようかと……」
……当然の帰結ではあったが、内心で合掌する思いだったのも序に付け加えておく。
⁂
黒磯の海街に、降り始めたのは久方ぶりの雨滴。
ザーザーと音を立て、石畳を濡らしてゆく。
領主の館が襲撃を受けてから、数えること6日。
お昼時といっていい時間帯である。
優良案内人のフラウティーナは窓を伝う薄緑色の雨滴をぼんやりと眺めつつ、山積みの海鮮饅頭を緩慢に頬張っていた。
「ねぇ、腑抜けるのも大概にしたら」
「……煩いわねぇ。貴方の寝起きの悪さに比べたら、こんなの大分マシよ」
言い返しながらも、向かい側からの視線に真っ直ぐ向き合えず、どこか俯きがちになる。
返答にはいつもの覇気がない。
それは他でもないフラウティーナ自身が分かっていることだ。
あれから6日。
細々した依頼を数件引き受け、いつもの通りに相棒と案内人業務をこなしてきたつもりだった。
けれども、どこか集中しきれない。
幸い大きなトラブルこそ起きていないが、このままの精神状態を引き摺るのが良くないことは痛いほどに自覚していた。
「あー、もう。やっぱり我儘を押してもついて行くべきだったわ……」
「自覚するのが遅すぎると思う。でも今なら多分、追いつける。ドクさんに相談してみたら?」
「珍しいことを言うのね。反対はしないの?」
「別に。ここ数年で大分蓄えも出来たことだし、暫く休業したって何てことない。そもそも君、働き過ぎなんだよ。そろそろまとまって休みを取ったところで、誰も文句なんか言わないさ」
「……そうね。とにかくランクを上げることに一杯一杯だったから」
齧りかけの海鮮饅頭をそっと皿に置き、フラウティーナは小さく嘆息する。
うじうじ悩みを引きずるのも性分じゃない。
束の間の瞑目の後、彼女はよし、と頷いて立ち上がった。
「ヨハン、私決めたわ。あの子を追ってみる」
「ん、良いんじゃない。じゃあ早速ドクさんに話を通しに行こうか。俺も荷物纏めないと」
勢いに任せて立ち上がったものの、続く言葉にフラウティーナは目を丸くする。
「……え。もしかして貴方も来るつもりなの?」
「まぁね。何だかんだ俺が今回命を拾えたのって、君の言うところを信じれば『彼ら』がいたからだ。こう見えて結構恩義は感じる方でね。一言でもいいから礼を言いたい」
「……そうね。確かに貴方、普段は礼儀云々すっ飛ばした非常識極まりない人間に見えるけど、恩を返そうとする気概はあるものね」
「君ね、俺のこと散々言うけどさ。自分も大概だって気付いた方がいいと思うよ」
小首を傾げるフラウティーナに対し、相棒であるヨハン・ウルド・ディザイアは溜め息を隠さない。
対外的には年齢の割に冷静で守銭奴でそれなりに礼儀を弁えたフラウティーナは『眠り(レム)の(・)怪物』と称されるヨハンの抑え役とみられることが多い。
だがしかし、それも状況次第でぐるりと変わる。
素の彼女は近づく者すべてを傷つける山鼠のようなもの。
その事実を知る者は、今となってはそう多くいない。
元を辿れば、然もありなん。
フラウティーナは生粋の貴族の家系に生まれ落ちたが、望まれぬ関係が故にその出自を秘され、竜樹の杜に捨てられた過去を持つ。
その後、貴族家同士の関係性が修復され、半ば無理矢理に連れ戻された彼女は数年を貴族の娘として暮らした。
だが、その心の内は言うまでもなく不信に満ちていた。
数年の後、彼女は姿を晦ました。
つまり家を捨てたのである。
出会った当時、野生の獣の如く周囲を警戒し、年単位で実力を重ねつつもどこか一線を引いていた彼女。
ドクトル・マス・エンデの親方の支えや個性的な案内人の面々と関わり合う内に少しずつ棘が丸みを帯びたようだった。
それでも、彼女に巣食う人間不信は未だ完全に溶けきった訳ではない。
彼女自身、どこまで自覚しているかは分からない部分ではあるけれど。事実はそんなところだ。
「分からないなら、いい。でも君がその子と友達になりたいのなら、あまり言葉が過ぎるのも考え物だよ」
「友達……そうね。うん、私は多分あの子と色々話してみたいのね。だって、あんなに眩しくて不思議な子に初めて会ったんだもの」
緑の葉を透かして、奇麗に差し込む薄日。
目を眩しく細めながら、フラウティーナはぽつぽつと話す。
サァサァと響く雨音に重なるようにして、小さな足音が近づき、コトンと大皿がテーブルに置かれた。
それは野薔薇を模した美しいお菓子。
思わず言葉を失う二人に、リースエラは悪戯が成功したような幼げな笑みを向ける。
「綺麗でしょう? これはある人が旅立ちの日に教えてくれたレシピなの。旅の先に幸多かれと願いを込めて作るのよ。今の貴方たちにぴったりね」
「リースエラ婆様……ありがとう」
「ふふ、どういたしまして」
普段からは想像もできない、繊細な作りの菓子。
摘んで齧れば、中から黄金の蜜が溢れ出し、甘いもの好きなフラウティーナは至福の表情でほぅと息を吐いた。
「リースエラ婆様、代金は?」
「いらないわ。貴方たちが元気にこの街へ帰って来ることが、私が唯一願うこと。あの子の行く先はけして平坦では無いけれど、貴方たちの実力ならきっと大丈夫」
枯葉色の髪を緩やかに揺らし、リースエラ・カナリアは黄水晶の双眸を柔らかに細める。
もはやその目に、映る先は断片のみ。
やがて何も見えなくなると知っていればこそ、思いがけず果たせた再会に老いた心は打ち震えたのだ。
若い彼らのように、その道行について行けるだけの力はもう残されてはいない。
その事に対する悲嘆も少しだけあった。
それでも願い、祈ることだけは止めないと誓ったのだ。
無力を嘆くのではなく、先を往く者たちに願いを託す。
そして還ることを望んだその時は、笑顔で彼らを迎えるために。
「フラウ、もしドクトルが渋ることがあったら伝えて頂戴。『この道の先に、翳りはないとカナリアは歌った』と」
残りの海鮮饅頭を頬張り、勿論お菓子も丸々胃の腑に収めた後、フラウティーナは呆れるヨハンを引き摺るようにして店を飛び出していった。
二人の案内人の背を見送って、竜樹の幹に手を添えたリースエラは小さく歌う。
「どうか、彼らの道筋に光が多くありますように。影の因果よ、暫しの眠りを」
どうかどうか。
繰り返し伏して願おう。
先の悲劇が、繰り返されないように。
大切な人たちが流す涙を、その軌跡を、再び見ることが無きようにと。




