最終話 隠居してやるわ!(やっと)
隣国の田舎に着いたのは、出発から3日後の夕方だった。
山を越えた。川を渡った。石畳の道が土の道に変わり、土の道が草の道に変わり、草の道が終わったところに家があった。
小さかった。城の応接間より狭かった。
「……ここよね」
「はい」
「思ったより小さいわね」
「殿下のお部屋より少し広うございます」
「私の部屋より広いの?」
「少しだけ」
「……まあ、いいか」
扉を開けた。中に入った。
窓が2つあった。片方から山が見えた。もう片方から川が見えた。床が木でできていた。天井が低かった。静かだった。
城では聞いたことのない種類の静かさだった。
「……いいわね」
シルフィが荷物を置き始めた。手際よく、静かに、いつも通りに。場所が変わっても、シルフィはシルフィだった。
翌朝から、手紙が届き始めた。
最初はフェリオからだった。
「お着きになりましたか。明後日にでも伺います」
「明後日に来るのね」と独り言を言った。
次の日、アウラから来た。
「ルナリア様! 着きましたか! フェリオ殿下から聞きました! 会いに行っていいですか! フェリオ殿下と一緒に行きます!」
「感嘆符が多いわね」とシルフィに言った。
「アウラ様らしゅうございます」とシルフィが返した。
カリウスからも来た。短かった。
「国境より、ご無事を確認した」
それだけだった。カリウスらしかった。
クラウディオからは少し長い手紙が来た。城内の状況報告だった。セヴェロの工作が完全に崩れたこと、カシオが静かに過ごしていること、曙光会が解散したこと、ドミナが城内の改革に動き始めたこと。
「……色々あったのね」と独り言を言った。
「色々ございました」とシルフィが返した。
3日後、フェリオとアウラが来た。
アウラは扉を開けた瞬間から走ってきた。
「ルナリア様!」
「走らないで」
「走ってしまいました」
「見れば分かるわよ」
アウラが少し息を整えた。金髪が乱れていた。目が赤かった。嬉しくて泣いていたのか、走ったから泣いていたのか、両方かもしれなかった。
「……会いたかったです」
「2週間しか経ってないわよ」
「2週間でも会いたかったです」
「……そうね」
「……殿下、いや、ルナリア様。元気そうでよかったです」
「元気よ。あなたは?」
「元気です。とても」とアウラが言い、少し間を置いた。「フェリオ殿下に会えました」
「そうね」
「……36回失敗して、断罪されて、追放されて、ここまで来たんですね」
「長かったわね」
「長かったです」とアウラが言い、また少し目が赤くなった。「でも、よかったです。全部」
「全部?」
「36回の失敗も、殿下に怒られたことも、シルフィさんに茶を出してもらったことも。全部よかったです」
返す言葉が出なかった。
「……大げさよ」
「大げさではありません」
「36回は失敗よ。全部よかったとは言えないわ」
「私にはよかったです」とアウラが言い、今度は泣かなかった。笑っていた。「殿下はどうですか。全部よかったですか」
少し間があった。
「……さあ。まだ終わっていないから、分からないわ」
「そうですね」
フェリオが後ろで笑っていた。
「ルナリア殿下、いや、今は何とお呼びすれば?」
「ルナリアでいいわよ」
「ルナリア。小さな家ですね」
「そうよ」
「気に入りましたか」
「気に入っているわ」
「よかったです」とフェリオが言い、家の中を見回した。「シルフィさんもご一緒なのですね」
「はい」とシルフィが言い、お辞儀した。「お茶をお持ちします」
「ありがとうございます」とフェリオが言い、アウラの方を見た。アウラがまだ少し目を赤くしていた。フェリオが何も言わずに、アウラの隣に座った。
それだけだった。
それで十分だった。
夕方、フェリオとアウラが帰った。
「また来てもいいですか?」とアウラが言った。
「どうぞ」と言った。
「ありがとうございます、ルナリア様」
アウラが行った。
部屋にシルフィと2人が残った。
窓から夕暮れが見えた。山が赤くなっていた。川がゆっくり光っていた。城では見られなかった景色だった。
「……シルフィ」
「はい」
「今日のことを日記に書くの?」
「書きます」
「何を書くの?」
「殿下が今日も生きていたということを」
「……毎日同じことを書くの?」
「毎日、同じことが起きておりますので」
「それは日記じゃなくて記録ね」
「そうかもしれません」
少し間があった。
「シルフィ、この生活は退屈じゃないの? 号外もないし、支持率もないし、変換することも何もないし」
シルフィが少し間を置いた。
「退屈ではございません」
「なぜ?」
「殿下がいらっしゃいますので」
「……それだけで退屈じゃないの?」
「はい」
「嘘ね」
「本当でございます」
「……あなたって、本当に変わっているわね」
「殿下も、変わっておられます」
「そうかしら」
「はい。王女だった頃と、今は、少し違います」
「どう違うの?」
シルフィが少し考えた。
「……少し、楽そうでございます」
少し間があった。
「……そう」
それだけ言った。
否定しなかった。
窓を開けた。山の空気が入ってきた。草の匂いがした。城では嗅いだことのない匂いだった。
「……まあ、いいか」
「何がよろしいのですか」
「全部よ」
「全部でございますか」
「全部」
シルフィが一礼した。何も言わなかった。
窓の外に星が出始めていた。
私はここにいる。生きている。
それだけで十分だ。
しばらく、2人とも何も言わなかった。
山の向こうから、夜が来た。
静かだった。
ずっとこれを望んでいた。




