伯爵夫婦、眠れぬ夜を過ごす 2
結婚後初の夜勤。一ヶ月も夜勤免除だったのは、おそらくレグルスの命令だろう。尋ねても答えなかったけれど、表情がそう物語っていた。
久し振りの夜勤は、赴任後、数度の夜勤と同様の忙しさで、大事件もなかった。アストライア街は相変わらず治安が悪い。
強盗、酔っ払い同士の喧嘩、ギャングの抗争、誘拐事件、娼婦暴行、麻薬取引などなど逮捕者は後を絶たない。
深夜を過ぎた頃、誘拐事件を解決した。夕方行方不明になった女性は、可哀想な事に酷い仕打ちを受けたようだが、命だけは助けられた。
被害者の保護は部下に任せ、俺は犯人を署へ連行し、牢屋へ放り投げ、取れていなかった休憩。一時間程仮眠する予定。
有り難い事に、俺は騎士本部署に個室を与えられている。狭い部屋に二段ベットが八つも入ったむさ苦しい部屋ではなく、広めのソファでのんびりできる。
部屋に入ると、スヌード、サーコート、チェインメイルを脱ぎ、ポールハンガーに掛けた。レガースを外し、革靴と靴下もさっさと脱ぐ。ベルトを緩めて、ソファにどかりと座る。一息ついたところで、目の前のテーブルに保温筒と白い封筒、それから布が被せられた皿が置いてある事に気がついた。
封筒を手に取る。宛名は「フィラント様へ」である。これだけで誰からの手紙なのか分かった。少し動悸がする。俺は封筒を裏返した。
「エトワール……シュテルン……」
予想通りの名前に、胸が熱くなる。布をどかして、皿の上に何があるのか確認すると、柔らかそうな丸くて白いパン。
保温筒はまだ温かい。蓋を開けると湯気が立ち上り、コンソメスープの匂いが鼻腔をくすぐった。
料理人が用意してくれる——時にはエトワールが作ってくれるらしい——昼食のお弁当だけでも有り難いのに、夜食も届けてくれたのか。
封筒を破らないように、そっと開封。ほんのりと何かの花の香りがする。便箋を取り出して、何が書いてあるのかと、目を走らせる。
最近、この丸くて可愛らしい文字を読むのに慣れてきた。少し癖のある書体なので、最初は少し読み辛かった。しかし、今はするする読める。
【スープは野菜たっぷりです。栄養満点だそうです。パンはなるべく柔らかく、そして素朴な味にしてもらいました。苦痛なく食べられると思います。お怪我はされていませんか? 食事をする時間はあるのてしょうか? 市民の皆様は心強いでしょうけれど、私はとても心配です。明日の朝、フィラント様が無事でありますように。お帰りをお待ちしております。エトワール・シュテルン】
流し読みして、もう一度最初に戻り、文字をゆっくりと目で追う。
「お帰りを……お待ちして……。帰りたいな……」
つい、声を出していた。帰る場所があって、そこで待っていてくれる人が居る。これだけでも幸せなのに、それ以上がある。
目の前の夜食。手に持つ手紙。帰宅したら、エトワールはきっと俺を労ってくれる。天使のような可憐な笑顔で「おかえりなさいませ」と言ってくれる。
胸が一杯で食べられない、とはこういう気持ちを示すのだろう。
俺は便箋を封筒に入れ、ソファから立ち上がった。手紙を事務机の引き出し、二段目にしまう。今までエトワールが送ってくれた手紙の束と一緒にする。
ソファに戻り、シャツの胸ポケットにしまってある、折りたたんだ絵を取り出した。
一昨日、画家のピーテルという男が描いた、エトワールと俺が並ぶ似顔絵。淡い色遣いの中で困惑気味に微笑むエトワールをぼんやりと眺める。この絵は本人に良く似ている。自分を見ても嬉しくないので、縦半分に折って、エトワールだけにした。
恋の第二歩などと言ってくれたけれど、エトワールはまだ俺に怯えている。俺と彼女が並ぶ似顔絵の中の表情が、そう物語っている。どう見ても、夫婦には見えない。
「いつもエトワールが歩み寄ってくれているが……俺は何をするべきなんだ?」
怯えられているなら離れて眺めるべきだけど、エトワールは歩み寄ろうと近寄って来てくれる。寄り添い、微笑み合う夫婦には、どうやったらなれるんだ?
疑問に思った時、自分は随分と欲張りになったな、と感じた。いつかエトワールと談笑出来るかもしれないと、期待に胸を膨らませたのは、そんなに昔の事ではない。
仮眠しないと、この後の巡回が辛くなる。なのに、どうにも眠れない。同じ事をぐるぐる、ぐるぐると考えてしまう。
ソファに横になり、絵を眺めながら、下がり眉のエトワールを見つめながら、慄く。もう嫌です。無理です。と言われる日が訪れたらどうしよう。嫌だ、とは思うが、肝心の回避方法が分からない。
避けられない未来なら、その前に、エトワールとの何もかもを心や体に刻むしかない。彼女が去っていった後、自分がどれ程落ち込むのかなんて、想像もつかないけれど、酷く心が沈む。
★
夜勤はもう終わり、という夜明けに、しょうもない怪我をしてしまった。注意力が低下するのは分かっていたのに、きちんと仮眠をしなかったせいだ。
酔っ払いの喧嘩を仲裁した際に、部下が投げ飛ばされて壊した樽の破片で左足の脹脛を負傷。鈍臭いにも程がある。
みっともないので、自分で手当をして、気がつかれないように振舞って過ごした。結構抉れたので、かなり痛む。しかし、夜勤終了まで、誰にも見抜かれなかった。
夜勤後に湯浴みと着替えをして、レグルスと共に領地運営会議に参加。眠くて仕方無かったけれど、耐えた。夜勤明けで、明日も仕事という理由で、苦手な昼餐会を欠席出来たのは運が良い。
領主側近としての仕事も、貴族として振る舞うのも苦手だ。騎士の仕事一本、それで小隊長くらいが丁度良い。しかし、エトワールが心配してくれるので危険な仕事から足を洗いたいとも思うし、彼女に贅沢な暮らしをさせる為には伯爵の方が都合が良いとも思う。
馬車で屋敷へ帰宅。眠気と疲労、それに足が痛くてボンヤリする。門番をしてくれている部下に手短な挨拶をして、屋敷の扉に手を掛ける。意味の無い大きくて重たい扉は正直鬱陶しい。
玄関ホールに足を踏み入れた時、階段上にエトワールが現れた。淡い水色の、マーガレット柄のドレスは今日も良く似合っていて、実に清楚可憐。エトワールとパチリ、と目が合う。彼女はトトトトト、と階段を駆け下りてきた。
「走らないで下さい! 危ないです!」
転んで怪我をしたら辛い。つい、大きな声が出てしまった。エトワールはびくり、と体を竦ませて、足を止めた。
「あの、すみません……つい……」
つい? つい、なんだ?
悲しげな表情になると、エトワールはゆっくりと階段を降りてきて、徐々にまた駆け足になった。危なげな足取りなので、俺は慌ててエトワールに近寄った。
階段を降りたところで、エトワールと向かい合う。彼女は俺の両手を取り、ギュッと握りしめて、顔を覗き込んできた。
「おかえりなさいませ、フィラント様。1日半にも渡る勤務、お疲れ様でした。顔色が悪いです。すぐに寝られますか? お着替えを用意してあります。それとも湯浴みをします? お湯もすぐに準備出来ます。湯浴みが大変なら、私がお身体を清めます。それともお食事ですか? お食事は好きではないから、後回しです?」
かなり力強く手を握られたことにも、予想していなかった言葉にも戸惑う。
私がお身体を清めます? えっ? エトワールが俺の体を拭いてくれる? はあ? 夢か? 是非お願い……足の怪我を見られたくないから駄目だ。しかし、断るなんて勿体ない。湯浴みは済んでいるけれど、断りたくない。だが、足の怪我は……。
悶々と悩んでいたら、ルミエルが現れた。無言で帽子を脱がすと、何も言わずに会釈だけを残して去っていった。気を遣ってくれたのだろう。
「喋るのも辛い程お疲れなのですね。三階へ上がるのは大変かもしれないと、一階の客間を準備してあります」
エトワールは俺の手を引いて歩き出した。思わず、手を引き返す。彼女は軽いので、いともたやすく引っ張れた。エトワールの体が俺の胸にぶつかる。即座に抱き締めていた。かなり無意識での行為。
柔らかで温かい。なので、これは夢ではない。俺の願望ではなくて、現実である。王都で購入した香水の匂いが仄かにする。とても落ち着く。エトワールが俺の好みも聞いてくれたからだ。
急に抱き締めたりするなんて嫌だったかもしれない。怖かったかも。俺は自分の鉛のように重たい腕をエトワールから引き剥がした。離したくない。しかし、自分の気持ちよりも、エトワールを大事にしないとならない。毎日、いつも、自制がきかない。改めるべきなのに、上手くいかない。
「あの……すみま……いえ、ありがとうございます。労ってくれ……」
エトワールの腕が俺の腰に回った。強く抱きつかれて言葉に詰まる。
「嬉しい……。私も会いたかったです。ご無事で良かった……。心配でちっとも眠れませんでした……。お怪我がなくて安心しました」
切なげな声が漏れ出てくる。
「え?」
「え? あの、違いました?」
腕の力を抜いて、少し離れたエトワールが、俺を上目遣いで見上げた。
「いえ……。違く……ないです……」
痛む足と連動するように胸が痛い。俺の足の怪我を見たら、エトワールは泣いてくれるかもしれない。軽傷だけど、怪我は怪我だ。彼女の萎れ顔なんて見たくない。俺はエトワールの両肩を掴んで、彼女の体を押した。
「怪我なんてしていません。これからもしません」
でも、包帯を見られたら、何て言い訳をするんだ?
「草むらの中を巡回して、変な草で少しかぶれたくらいです」
「かぶれ? まあ、大丈夫ですか? お医者様には診てもらいました?」
「はい。しばらく左足に包帯が巻かれてますけど、すぐ取れます」
「お薬を塗ったり、包帯を取り替えたりはお任せください。得意です」
ニッコリと微笑んだエトワールに、胸が弾む。甲斐甲斐しく世話をされたいけれど、包帯の下がかぶれではなくて、怪我だと見られたくない。
「結構です」
「え?」
「何もしなくて構いません」
このままエトワールの近くにいると、嘘がバレる。彼女の手を煩わせるのも悪い。エトワールが体を拭いてくれる。エトワールが手当てをしてくれる。なんて魅惑的過ぎる申し出。
俺は痛くて重たい足を動かし、階段を登った。三階の寝室へ向かいながら、一緒に眠るのも止めた方が良いのか? と悩む。
しかしながら、エトワールの香りに包まれて安眠するという誘惑には抗えなかった。
寝室の寝台に倒れるように寝転がり込む。全身の力が抜ける。帰ってきた……。落ち着く匂い……。足は痛いけれど、痛み止めが効いてきたのか、楽になった気がする……。
俺はそのまま爆睡。目を覚ました時、部屋は真っ暗で、エトワールが俺にひっついて眠っていた。思わず、抱き締める。そうすると、自然と眠りに落ちた。
夜勤後、こんなに眠った事は無いという程眠り続けられた。




