伯爵夫婦、デートをする1
新婚一ヶ月と少々。明日は待ちに待った休み。休日を心待ちにするなんて、少し前の俺には無かった感覚。
予定では、夕方にエトワールとオペラ鑑賞をする。騎士署に招待券が回ってきて、署長が俺にくれた。理由は不明。レグルスかも、と思ったので聞いていない。オペラなんて初めて。むしろ、一生縁がないものだと思っていた。きっと、エトワールだけではなく自分も感激するに違いない。
基本的に、エトワールが居ると何でも楽しいし、面白いし、至福。時間潰しと自己向上の為の読書時間は減っている。
ベランダでぼんやりと、星空を眺めているけれど、寒いし面白くもない。
ただ、ここに居ると——……。
「フィラント様、寒くないですか?」
ベランダに顔を出したエトワールの問いかけに、俺は小さく頷いた。プラチナブロンドヘアーと、裾の長い白い寝巻き用のドレスが、微風でふわふわと揺れる。
「ええ、少し。なので、もう戻ろうかと思っていました」
「フィラント様は、夜空を眺めるのがお好きですね」
「そうかもしれません」
本心は「いいえ」だ。好き、というのはエトワールへの気持ちのようなものを言う筈。別に星が良く見える晴天でも、星なんて一切見えない雨雲でも、心は大きく揺さぶられない。けれども、エトワールは違う。視界の端に映るだけで心臓が煩くなるし、胸がじんわりと温かくなる気もする。
ベランダに出ていると、エトワールが声を掛けに来てくれる。なので、何を話しかけたら良いのか分からないと、ベランダに出るようになった。声を掛ける勇気が無い時もだ。
それで、以前よりも空を見上げ、星を見る機会が増えているだけ。
ベランダから屋内に戻り、窓を閉め、鍵をかける。エトワールは俺の前に移動してきて、俺の手をそろそろと掴んだ。
「冷えていますね。暖炉近くへどうぞ」
片手を離すと、エトワールは暖炉前のソファへ俺を連れて行った。好意に甘えて、ソファに腰を下ろす。新婚旅行前は、距離が近過ぎるのは嫌かもしれないと、一人掛けソファを選んでいた。
今夜は迷わず二人掛けソファに腰を下ろす。それで、端に寄り、期待に胸を膨らませる。エトワールは多分、俺の隣に着席してくれる。彼女は期待通りに、隣に座ってくれた。それも、服同士がくっつくくらいの距離。彼女から石鹸の香りが漂ってくる。
「明日は晴れますかね?」
向けられた、にこやかな笑顔から、明日のオペラ鑑賞を楽しみにしてもらえていると伝わってくる。安堵。そして嬉しい。その分、自分で手配していないのが、悔やまれる。
「晴れだと思います。風の匂いや、雲の流れ的に」
「まあ、フィラント様はお天気の予報が出来るのですか?」
「当たる方が多いです。野営が多かったからだと思います」
口が滑った、と即座に唇を閉ざす。戦争とか出征の話なんて、するべきではない。
エトワールの反応は……何故か彼女は俺の右手に両手を重ねた。冷たい手が、内側から温まるような錯覚。握り返したい。けれども、体は上手く動かない。歓喜で力を入れすぎて、この細くて小さな手は折れたりしそう。なので、握り返すのは止めておいた。
「先週は料理でしたけど、明日も何かしてみます? オペラは夕方からですよね?」
愛くるしい笑顔で顔を覗き込まれ、ついエトワールの手を握り返していた。慌てて、可能な限り力を抜く。怪我をさせないように、細心の注意を払わないとならない。
「時間、ありますか? 俺は……その……大した用事は無いのでエトワールに合わせられます」
正確にいうと、エトワールと居る時間を増やしたいので、山積みの仕事は全部今日までに終わらせた、だ。余程の事が無い限り、呼び出し禁止、という命令も出してある。
先週なんて、せっかくエトワールとサンドイッチを作り、完成した庭でのんびり食べる予定が、レグルスからの呼び出しで立ち消え。
レグルスからの呼び出しは「叔父上がフィラントが相手でないとつまらないとゴネる」と、ヘンリ・カンタベリ公爵のチェスの対戦相手役だった。急いで、焦って、損をした。まあ、後ろ盾の機嫌を取るのは大事。
「明日は朝の礼拝とオペラ鑑賞以外の予定はありません」
「そうですか。あの、嫌でなければ先週のやり直しはどうでしょう?」
「やり直し? 庭のガゼボでピクニックですか?」
「ええ、また何か作って、この間の続きというかやり直しを」
エトワールが庭師のセドリックとあれこれ考えて造り上げた庭はとても綺麗だと思う。どういう意図の庭なのかなど、是非エトワールの口から聞きたい。
それから、サンドイッチは結局美味しかったのかどうかもだ。指示された通り作ったので、大丈夫だっただろうが、エトワールの美味しそうな表情を見たかった。
「私、オットーから料理本を借りてきますね」
エトワールは直ぐに部屋から出ていった。急に離された手。隣から消えた温もり。暖炉の前なのに、寒く感じる。
とても妙な感覚だ。ついこの間まで、エトワールが居ない生活が当たり前だったのに、今は逆。明後日の夜勤も物凄く嫌。結婚後、初めてエトワールと会わない夜が、間も無くやってくる。
しばらくして、エトワールは本を抱えて戻ってきた。
「フィラント様」
トトトトトッと駆け足で近寄ってくると、エトワールはポスンッと隣に腰を下ろした。見た目とは裏腹に、随分と子供っぽい動作。エトワールは黙って静かにしていると、通り名の通り「妖精」のようだけど、中身は結構違う。行動も、くるくる変わる表情も、見ていて飽きない。
「あの、明日は買い出しから一緒に行きませんか?」
「買い出し、ですか?」
「朝市です! オットーから聞いたのですが、ここのところ、東からの行商が珍しい食材を売っているそうなんです」
ワクワクした笑みを浮かべながら、エトワールは本をテーブルに置き、俺の膝に両手を乗せた。顔が近づいてくる。恥ずかしいが嬉しい。
「私、アストライア街の朝市も見てみたいです」
見てみたいって、先週ユースと出掛けていたよな? 星を閉じ込めたような、期待に煌めく瞳がむず痒い。
どんどん顔が近寄ってくる。これ、チャンスじゃないか? そっとエトワールの頬に手を伸ばす。今日も瑞々しくて、しっとりとしていて、滑らかな肌。親指で頬をなぞる。ずっと触っていたい。
「一緒に礼拝に行って、そのまま市場へ行きましょうか……」
部下の誰かを護衛として呼び付けよう。エトワールの唇に唇を寄せながら、誰が良いかと思案。
しかし、唇が触れた瞬間、柔らかさを感じた時、何もかも吹き飛んだ。触れるだけのキスをしたけれど、エトワールは今夜も嫌そうではない。むしろ、今度はエトワールが唇を押し付けてきた。俺の首に、彼女の腕も回る。
少し離れた時に、不安げな、おずおずとしたエトワールの表情が目に入る。それで、止めようと思うのだけど「嫌です」と言われないから大丈夫と自分に言い聞かせる。実に利己的。
明後日の夜は抱けない。明後日の夜は触れない。夜勤なんて戦場に比べたら大した危険はないけれど、明後日、もしも怪我でもしたら、死んだら、二度と……。
死んだら、か……。そうしたら彼女はどう思うのだろう? 王都では泣かれた。泣いてくれた。さめざめと、とても辛いというように。
戦場で死んだら、ユースやレグルスは墓に酒をかけてくれるだろうな、くらいは考えた事がある。エトワールはどうなんだ?
「フィラント……様……?」
ソファに押し倒したエトワールに見上げられ、固まる。
嫌です、と言われないか待機。
「あの……明後日は夜勤です……。近隣の巡回と夜間警備で……」
反応が気になり、ゴクリと喉が鳴る。物凄いしかめっ面を向けられ、慌てて離れる。嫌です、がなくてもこの反応では手を出しては駄目だ。
体を起こし、エトワールの事も背中に手を回して、ゆっくり、そっと体を持ち上げて座らせる。
「あの、すみ……」
「フィラント様が居ないなんて……心配や寂しさで眠れないかもしれません……」
え?
唇を尖らせ、ふいっと横を向くと、エトワールは小さなため息を吐いた。
「お仕事ですから、仕方ないです……。怪我をしないように、お気をつけ下さい……」
心底悲しい、というように、エトワールは眉尻を下げた。胸が詰まる。同時に、歓喜で手が少し震えた。
これが恋の第2歩なら、この先はどうなるんだ? そもそも何歩中の2歩目だ? 100歩か? たった2歩でこれ?
「フィラント様?」
「え? いや……」
「はあ……、フィラント様は寂しく無いのですね……」
そう言うと、エトワールはソファから足を下ろし、立ち上がった。部屋の灯りを消し始める。
「もう遅いですから、寝ましょう。先に布団へどうぞ」
エトワールがオイルランプへ近寄っていく。急に余所余所しい。
「寂しいです。俺も……」
意を決して伝えてみる。オイルランプを消そうとしていたエトワールが、勢い良く振り返る。
大きな目を丸めて、俺をジッと見据え、プイッと顔を背けた。オイルランプが消されて、部屋が暗くなる。
エトワールが近づいてきた。待っていると、エトワールは俺の体にピッタリとくっついてきた。彼女が無言で俺の体に腕を回す。ギュッと力を入れられる。
胸がはち切れそうとは、今の気持ちのような事を言うのだろう。俺はエトワールの頬を両手で包み、我慢出来ない衝動に身を任せ、エトワールに少々がっついたキスを落とした。
こうなると、突き飛ばされない限り止まれない自信がある。
毎晩こうだ。初対面の頃とは違って、親しくなれた気がする。だから、大丈夫。今日も嫌ですと言われない。俺はそれを免罪符にしている。
俺はそのまま彼女に夢中になった。
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