伯爵、少し前向きになる
レティア姫に嫌な思いをさせられた筈なのに、エトワールは不愉快そうではない。単にうんうんと悩んでいるように唸っている。2人で部屋に戻ってくると、エトワールに手を繋がれて、ソファへと促された。
「フィラント様、レティア姫様にお姉様と呼ばれました。遠くない日に王都には血の雨が降る。出来れば2人で逃げて、だそうです。そのことについて聞くのは許されます?」
王都に血の雨? 逃げて? とんでもない予想外の会話内容。
お姉様? あれだ、例の噂をレティア姫も耳にしたのだろう。
「国王陛下はあまり体調が良くない。王太子を押し退けて王座につきたいビルマ王子。ビルマ王子と王太子派のユース王子は犬猿の仲です。それに権力闘争をしているカンタベリ一族とグラフトン一族。今の王宮内には権力闘争が色々とあるようなのです」
当初の予定通り、1人で来てとんぼ返りが良かった。エトワールをキナ臭い政治の世界から遠ざけておきたかった。エトワールが何か命令されたり、巻き込まれたりなんて最悪。そもそも、フィラントも状況不明のまま振り回されている。ユース王子を全面的に信頼して、深く首を突っ込まないようにしているが……今後どうするべきか。
やはり、彼女は親元に返すべき。もう十分笑顔は見れたし、我慢出来ずに好き放題した。目で愛でるだけの筈だったのに……エトワールの善意に甘えた。それで、つい夢を見た。
「ゴルダガ戦線での負傷で奴隷印を見られて……それが王族の証だという噂が1人歩きしています。ユース王子の影武者として拾われたので、顔立ちが似てますし……。敵か味方か知りませんが、俺についての嘘で何かをしたいのでしょう」
フィラントはそっとエトワールの手を離した。彼女の顔を見れない。
「あの、エトワール。副隊長やレグルスの補佐官役はユース王子の後押しの為の仕事です。多分、そのうちこの面倒で複雑な王宮勤めになります。ユース王子が失脚すれば首が飛ぶ。大恩あるので死なば諸共。俺はユース王子から離れるつもりはありません……」
まず、するべきことはユース王子への報告。それから、エトワールをジャン・シュテルン子爵へと返す相談。今夜、女遊びをしつつ情報収集しているだろうユース王子。今すぐ行く必要はなさそうなので、相談は明日か。
「嘘ばかりだな……。逃げろ? レティア姫は何を考えているのか……」
早めにエトワールを手離しておいた方が良さそう。想像したら、鉛を飲んだように苦しい。
「あの、あのフィラント様……。 いざと、いざとなったらユース王子様と共に逃げましょう。命あってこそです。私、何処に行っても生きていけるように励みます」
おどおどしたようなエトワールの声、それに発言内容にフィラントは視線を移動させた。エトワールの両手がフィラントの手を包む。
「共に逃げましょう?」
「そうです。幸い、私は屋根裏暮らしの小間使いでした。家事を一通りこなせます。それに、仕事を見つけて働きますよ。なるべく他国の方と交流をして、亡命先を探しておきましょう。家族とユース王子様となら楽しく暮らせます。お父様とお母様も苦労人なので大丈夫です」
いきなり抱きつかれて、フィラントは両手をエトワールから遠ざけた。抱きしめたら離せなさそう。
「私、政治には首を突っ込めませんが亡命先を探して愛想を振りまくとか、いざという時に生きていく術を学ぶとか頑張ります」
何だこれ。こんな事を言われるなんて、まるで想像していなかった。
「あの、エトワール? 俺は……」
「嬉しい……。こんな話をしてくれるくらい信頼してくれているなんて知りませんでした……。フィラント様……」
ぎゅうううっとエトワールの腕に力が入った。
「自分では他にあまり思いつきませんが、お役に立てることはありますか? エトワールは安心しました。フィラント様が実は王族なんて話だったら、引き離されてしまいますもの」
それって、つまり俺と離れたくない? フィラントは衝動的にエトワールを抱きしめた。
「いえ、あの……どうにかします……。何があっても盾に……」
だから、何処にも行かないで欲しい。ずっと傍にいて下さい。昨夜、言えなかった言葉。言うか迷う。
出自や経歴を受け入れられ、今後の血生臭い人生も受容してくれるなんてそんな奇跡……あるらしい。エトワールは理解しきれていないだけだろう。
そうだ、ユースト王子にすぐ諦めると揶揄された。いざという時に逃げる算段を整えれば良い。エトワールが何の勘違いか、善意か、本当に恋の第1歩なのか、とにかく傍に居ると言ってくれる間はそうしよう。
何せ、今エトワールを抱きしめた腕を離したくない。苦痛過ぎる。
「聖典の中から選んでくれた宣誓の台詞、私も同じ気持ちでいようと思っています」
「同じ気持ち?」
「苦楽を共にと申しますが、苦を分かち合ってこそ本物の夫婦になれると思いませんか?」
どうしてこう、エトワールはポンポンと嬉しい言葉をくれるのだろう。腕の力を抜いて、エトワールの顔を覗き込む。困惑という様子だった。笑顔かと思った。
「エトワール?」
フィラントはエトワールから腕を離した。
「あの……レティア姫様から聞いたのですが、縁談が幾つもあったそうですね……」
「縁談が幾つもあった? 無いです。どんな噂になっているんだ……。エトワールはユース王子とレグルスが押し付けて……」
今のは言葉選びを間違えた。みるみるエトワールの顔色が悪くなっていく。
逆にフィラントの心は浮いていった。エトワールを押し付けられて結婚した。それを悲しいと思ってくれるということは、裏を返せば望まれた婚姻なら嬉しいという意味。違くても、そう思うことにする。後ろ向きで、卑屈でいると、エトワールの反応は悪い。逆なら多分、笑ってくれる。
「もう1度会いたいと思っていた相手だったので良かったです。表向き用にレグルスが作った話、嘘ではなくて本当です。野戦病院で、エトワールに世話になりました。ありがとう。ずっと言う機会を逃していてで……やっと言えた」
ぱああああ、とエトワールの表情が明るくなった。柔らかな微笑み。
なんで、こう可愛いのだろう……。
「まあ、それは運命的な話です。感謝なんてそんな……。エトワールはお父様が助けてくれたので、その分誰かの役に立ちたいと思っています。既にフィラント様の役に立っていたなんて喜ばしいです。最初から優しかったのは、爵位強奪の負い目ではなかったのですね」
両手で口元を隠して、肩を揺らして笑うエトワール。先程から自身のことをエトワールと呼称しているのは、気を許してくれているということか?
運命的ではなくユース王子とレグルスの作為だが、そこまで言うべきか?
「あの、我慢して遠慮しようと思っていたのですけど……。私に歩み寄ってくれるのが本心で、嫌でなければ……。あの……背中を向けて寝ないで欲しいです……」
懇願という雰囲気のエトワール。笑顔は引っ込んで涙目である。上目遣いに少しクラクラする。
「え? 背中? いやあ……」
顔を見ながらなんて緊張で眠れない。見惚れて寝れない。名残惜しくて2回目とか朝起きた時に手を出したくなったりするので無理。絶対に無理。
「却下なのですね……。エトワールのすっぴんはそんなに酷いのですか……。化粧をして寝たら……肌が悲惨なことになります。はああ……エトワールはレティア姫やフローラのような絶世の美女に生まれたかった……。そこそこ美人だと褒められてきましたけど……自惚れ女です……」
何故、その発想に至る。エトワールは歩けば男という男が振り返る美人だ。確かにレティア姫やフローラに劣るかもしれないが、フィラントとしてはエトワールが1番可愛い。
そうか、それを言っていないからだ。心の中以外で、エトワールを褒めたことは無かった。いや、ある。可愛らしいと言ったことがある。忘れられている? エトワールは落胆というように項垂れている。ため息がかなり大きい。
——ビクビク怯えられて既に嫌悪の対象みたいなので、そんな相手に口説かれるなど可哀想。口説くのは禁止
逆か? 夫婦になったので歩み寄るのだから逆だ。で、 口説くって何をするんだ? とりあえず、誤解は解こう。
「可愛らしい寝顔です。つい眺めて眠れないので……。その、善処します」
「可愛らしいだなんて、お母様譲りの顔立ちで得をしました。それなら、善処しなくて良いので背中を向けてくださいませ。よく考えたら、私もドキドキして眠れなさそうです」
ころり、とエトワールの態度が変わった。可愛い照れ笑い。くすくす笑っている。ああ、酔っているのか。目つきがトロンとしているし、態度や笑い方も少々変。
何故かフィラントは人生の坂道を登り続けている。こんなに嬉しくて、幸福感に包まれていると谷底が怖くてならない。昨日もそう思ったので、明日も良い日かもしれない。フィラントはもう1度エトワールを腕の中に閉じ込めた。




