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騎士、動転する

 微かな物音がして、俺は立ち上がった。さも、今通り掛かったように廊下を歩く。開いた扉からオットーとナタリアが現れた。まだ眠そうなナタリア婆さんと手を繋いでいるオットー。俺を見つけて驚愕したというように目を見開いて、勢いよく頭を下げた。膝に頭がぶつかるんじゃないか?


「お、おはようございますフィラント様!」


 眠っていないので、オットーの大きな声は頭に響く。俺はこめかみを揉んだ。


「旦那様おはようございます」


 邪気のない笑顔のナタリア婆さん。


「ほら、あんた。すみません旦那様。夫は気がきかないのです」


「か、母さん。父さんはとっくに亡くなっているだろう? 俺は息子のオットーだ」


 小声のナタリア婆さんがオットーを肘で軽く小突き、オットーはほら行くぞというようにナタリア婆さんの背中に手を回す。


「フィラント様、このたびは本当にありがとうございました。本来なら手打ちものですのに」


 再度、膝に頭突きするのではないかという礼。今まで逆の立場だったので、違和感しかない。


「親想いな上に、カンタベリ公爵様が用意した従者を手打ちになんてしません」


 当然の事なのに、目玉が落ちそうなほど目を大きくしたオットー。俺の屋敷で働く者は、レグルスの叔父であるヘンリ・カンタベリ公爵が選定したと聞いている。確実に俺の監視者が混じっているだろう。全員だと思っていたが、オットーは除外してもよさそう。まあ、屋敷内に悪評が立つのは避けておくべき。


 オットーから今回の件を広めてもらえば、それなりに良い噂が……立つか? 逆だ。婚姻相手を凍死させるところだったとか、鍵をかけ忘れる阿呆な主人とか……。


 考えていたら、オットーが再度大袈裟に頭を下げ、お礼を口にして、ナタリア婆さんと去っていった。


 自称料理人と相対してこの妙な緊張感。屋敷の主として暮らすなど疲れそう。俺はため息混じりに、壁にもたれかかった。


 ユース王子付きの護衛騎士となった際に、城の中に用意された部屋へ移動となった時の事を思い出した。汚くて狭い騎士宿舎の大部屋から、城内の1人部屋。3ヶ月くらい、落ち着かなくて深く眠れない日々を過ごした。


 オットー達が居た部屋の隣から今度はエトワール令嬢が現れた。


 ま、眩しい……。


 昨夜は暗くて分からなかったが、肌が透き通っているように白い。頬や唇は桃色。やはり大きな目。灰色のような、青や緑にも見える不思議な色彩の瞳をしている。


 まとめ上げられたプラチナブロンドの髪。


 やはり、可愛い女性。この美しくて愛らしいご令嬢が来月、俺の妻になる。おまけに野戦病院で世話をしてくれた、あの甲斐甲斐しく他者に奉仕出来る娘。動悸が激しい。少しフラフラもする。


 あれだ。育ちが違い過ぎて会話など成り立たないんじゃないか?


「まあ、おはようございますフィラント様」


 やはり耳触りの良い声。多分、人柄が溶けているからだ。


 この運命的、いや一方的な作為的出会いについて話すべきか? 礼儀正しい自己紹介をして、野戦病院で世話になったことへの御礼。エトワール令嬢は不安そうな表情なので、それよりこの状況の打破が先だ。


 レグルスの屋敷へ行って彼女を預かってもらう。俺の屋敷が整い、従者が揃ったらエトワール令嬢を迎えに行く。いや、結婚式が終わってからか? その辺りもレグルスに確認しないとならない。


 そもそも、この手違いは何だ。この麗しいエトワール令嬢が凍死するところだった。


「ああ、では行くぞ」


 あーあ、また考えていた事と違う台詞が出てきた……。おまけに恥ずかし過ぎて背中を向けてしまった。


「はい、フィラント様」


 背中にぶつかった声に、うなじあたりがゾワゾワした。フィラント()。やはり、こそばゆい。元気そうな声なので眠れたという事だろう。それは、何より。


 屋敷を出て、エトワール令嬢に街中を歩かせるのか? と俺は振り返った。馬に乗ってもらえるか聞かねば……居ない。


「エトワール様⁈」


 何故居ない⁈


 俺は屋敷の中へと戻った。ホールから2階へ続く階段を、慌てた様子で走ってくるエトワール令嬢。アイボリーに花柄の、子爵令嬢にしては割と地味なドレスの裾を持ち上げて、タタタタタと階段を駆け下りてくる。


 必死そうな表情なのに、遅い。で、危なげ。


 そうだった。相手は女性。それも子爵令嬢なのだからスタスタ歩いて置き去りにしてはならない。


「すみ……おいおい!」


 階段を降りた後、何もない床でつんのめったエトワール令嬢。何でそんなところで転ぶ。磨かれた床だから滑るのか?


 軽く走ってみて、確かに少し床は滑った。俺はエトワール令嬢の両肩を掴んで転びそうだった体を支えた。


 ふわり、と何かの花みたいな香り。しかしエトワール令嬢がビクリと体を竦めたので、慌てて手を離す。エトワール令嬢は両手を握り締め、身を縮めて、俯いて震えている。清楚可憐なお嬢様に野蛮な騎士。怖くて当たり前だ。昨夜と同じで怯えられている。


 これは、やはり胸が痛い。心臓が締め付けられるというのはこういうことか。


「こ、転ぶと思いましたのに……ああ、ありがとうございましたフィラント様」


 面を上げたエトワール令嬢が、安堵という様子で、おまけに微笑みを浮かべた。


「足が遅くて申し訳ございません。靴を変えます」


 柔らかい物腰で会釈をされたのに、俺は彼女に背中を向けた。こんな眩しい娘、直視出来ない。


——置いていくなど大変失礼致しました。怪我はありませんか? 次からは走ったりなどせず、どうかお気をつけ下さい


「気をつけろ」


 だーかーらー! 違うだろう俺の口!


 顔が赤かったらどうしよう。こんな動転、戦場でもした事がない。女性とは恐ろしい。俺、心臓発作で死ぬかもしれない。


 俺は何とか自分を奮い立たせ、エトワール令嬢を馬に乗せると、手綱を引いてレグルスの屋敷を目指した。

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