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伯爵夫婦、初の夜 5

 急に怒り出したエトワール。眉を釣り上げた彼女の右頬に涙が流れ、ポタリと落下していった。落ちたのは一雫。エトワールはしかめっ面でフィラントを見つめている。


 フィラントは慌てて上着のポケットからハンカチを取り出して、エトワールへと差し出した。


 エトワールに言われた事の意味が咀嚼出来ない。


「隣に座らない。触らない。隣に並ばない。一緒に食事をしない。お出掛けをしない。談笑しない。お茶をしない。寝室は別。歩み寄らない。フィラント様の要求はそれですね。全部、私のお願い事とは真逆です。私の希望は全て、何もかも禁止。それならそうとハッキリと言って下さい」


 何だって⁈ エトワールは非常に不愉快そう。拗ねたように唇を尖らせている。フィラントのハンカチを受け取らず、フィラントを睨んでいる。可愛い顔が台無し。


——嫌な相手にごま擦りするのは大変そう、と可哀想そうに思うなら擦り寄る必要がないようにお前自ら近寄って、情報提供してやったらどうだ?


 ああ、そうかと腑に落ちる。情報収集する隙が欲しいのか。エトワールが頑張らなくても、フィラントが各方面に根回しをする。しかし、エトワールはそれを知らない。


 それにしても、こんな感情的だとやはりエトワールに密偵(スパイ)なんて無理だろう。


「エトワール様の父上関係は私が上手く根回しするので、大丈夫です。何を頼まれたのか知りませんが、安心して下さい。実家の事で張り詰めていたと気がつかなくてすみません」


 エトワールからフィラントへの信用なんて皆無だが、大切にしていればいつかその気持ちが届くだろう。ユース王子がそう言ってくれた言葉を拠り所にする。


——フィラント様の事は何でも信じますよ


 あんな分かりやすい嘘、いつか消えると良い。


「今、そんな話はしてません。お父様やお母様の心配なんて皆無です。それはもう良くしてくれていると聞いていますもの。私、何も頼まれていません。私とフィラント様の今後の話です。話をはぐらかさないで下さい」


 益々、仏頂面のエトワール。泣いてはいないが、緑色に煌めく瞳が涙で滲んでいる。これは、どういう事なのだろうか。


「はぐらかす? あの、すみませんエトワール様。辛い思いをさせたくないと思っていますので、隠し事は無しでお願いします」


「隠し事なんてありません。でも、馬の耳に祈祷ですね」


 プイッとフィラントから顔を背けたエトワール。更に不機嫌そう。馬の耳に? いくら意見をしても全く効き目無しとは、そこまで言うか?


「それが本当なら、私になんて近寄って何をしたいんです?」


 少し、語気が強くなった。怯えられると思ったら、エトワールはしかめっ面を止めて少し目を見開いてフィラントを見上げた。次は、みるみる真っ赤。耳まで赤い。


「何って……あの……私になんて? フィラント様は卑屈ですよね。あの……何をと言うのは……」


 キョロキョロとあちらこちらに視線を彷徨わせ、赤面でしどろもどろな声を出すエトワール。可愛げのない怒り顔から、急に愛くるしい戸惑い顔。フィラントはつい見惚れてしまった。これは、可愛い。しかし、急にどうした?


「な、なか、仲良くなりたいので……。何も、何もしようとしていません! ちょっと手を繋いでみようとか思っていま……」


 言いかけて、フィラントを見たエトワールは固まった。これ以上どうやったら赤くなれるのかと言う程真っ赤になっている。


「思っています! そうです、夫婦になったので観念しました。苦手でも、少々恐ろしくても、克服しないとなりません。そう思いません? エトワールはフィラント様に恋をする予定なのです。幸い、大変思いやりのある方の妻になりました。なので、不安はあまりないです。役に立つ妻になるので、私を好きになる努力をして下さい。そういうことです」


 へ?


 立ち上がったエトワールが、フィラントの方へ歩いてくる。赤い顔で、泣き笑いしながら、祈るように手を握りしめて。


「仮面夫婦でいて、遠慮し合って、顔色をうかがう生活よりうんと彩り豊かな素敵な暮らしになると思います。私はそう思います。フィラント様……」


 待て、待て、待て!


 何をそこまで意固地になっているのか、エトワールが寝巻きを脱いだので、フィラントは顔を背けた。一瞬、目に飛び込んできた下着姿が脳裏に焼きつく。一瞬、エトワールの白い腕に火傷跡のようなものが見えた。まるで、焼き棒を当てたような……。


 それで、つい、顔の向きを戻していた。


 言い訳である。


 言葉通りに受け取れば、エトワールはフィラントと向き合って近寄ってくれるらしい。ここで引くと、本当だった場合に酷く傷つける。嘘だったら、傷つくのはフィラント。


——単に自分が好かれていないから辛いだけだろう。人のせいにするなフィラント


 レグルスの指摘は最もだ。怯えているのはフィラントの方。エトワールが損得関係なく、ここまでハッキリと意見を言う娘なら、嫌なら嫌だと言われる。


 フィラントは、何故かエトワールから信頼を得ている。何もしていないどころか、怒らせたり泣かせたのにどうしてだ?


 恥ずかしそうに、自分の腕で体を隠したエトワール。全然、隠れていない。陶器のように滑らかな白い肌より、腕の傷跡に目がいった。やはり、線状の火傷跡。1、2、3本。


「ああ、昔、叔母に……。1人で私を育てられない母に叔母の家に預けられていたのです。父が私と母を幸せにしてくれました。フィラント様、だから私は自分を害する相手の雰囲気や目くらい分かりますよ。愛情も憎しみや嫌悪も、両方知っていますもの」


 エトワールの美しい瞳の中に見えたのは、ユース王子やレグルスと同じ種類の親しみという感情に感じられた。


 屈託無く笑ったエトワールを、フィラントはつい抱きしめていた。ビクリと震えられたので、力は込めない。これ以上は禁止。

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