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伯爵夫婦、初の夜4

 鏡に向かって、笑顔の練習をしています。フィラント様、来るでしょうか?


 トントン、と私の私室改めシュテルン夫妻室にノック音が響きました。私は慌てて扉へと近寄り、何となく前髪を整え直して、扉を開きました。


 フィラント様です! 来ました! しかし、またしても申し訳なさそうな、苦笑いを浮かべています。おまけに私を見ないで、視線は床。


「少し、お話よろしいですか?」


 私は一歩フィラント様に近寄りました。逃げられたりは、しないようです。


「いいえ、朝まで話をしたいと思います」


 こっちを見ないなら、私から見るまでです。体を屈めて、フィラント様の顔を覗き込みます。練習した笑顔を披露。目を見開いたフィラント様と視線が合いました。恥ずかしいけれど、引きませんよ。今夜は人生の分岐路な気がしてなりません。


「朝まで?」


「ええ。それで明日も、明後日も、ずっとです。夫婦ですもの。うんと沢山、お話ししたいです」


 パチパチ、と瞬きを繰り返すフィラント様。凛々しい左眉毛の少し上に、傷跡があります。指の関節1つ分の切り傷のようなものです。子供の頃、箪笥の角にでもぶつけたのでしょうか?


「ああ、これからの生活の決め事を少し話しただけでは決められませんからね」


「決め事?」


 顔ばかり見ていて気がついていなかったのですが、フィラント様は手に羊皮紙を持っていました。差し出されたので、受け取ります。私がお父様達と話し合いをして作成した、奉仕提案書です。すっかり、忘れていました。


「逆も必要かと……」


 これは、良い流れな気がします! 決まり事を作れば、遠慮がちで常に申し訳なさそうなフィラント様の気持ちに変化が起きるかも。私、この方法を思いつくべきでした。


「立ち話も何ですので、座りましょうフィラント様」


 気持ちが焦って、ソファへ向かって小走りしたら、つんのめりました。綺麗な寝巻きですが、裾が長過ぎ。


「あっ……」


「エトワール様」


 転びませんでした。足が宙に浮いています。私のお腹にフィラント様の腕が回っていました。顔だけ後ろに向けて、お礼を言います。私、いつも転んでいる気がします。どちらかというと動作が愚図。


「走るからですよ」


 優しい声に、優しい微笑み。私を床に立たせてくれたフィラント様につい見惚れました。いつも、このように笑って欲しいです。しかし、幻みたいにフィラント様の微笑は消えてしまいました。


「すみません」


 フィラント様は3歩程下がって、軽く会釈をしました。


「何故、私を助けてくださったフィラント様が謝るのです?」


 言葉を選んでいるような、困惑顔のフィラント様。


「急に触られて嫌でしょう」


「急に殴られれば嫌ですし、今のように助けてもらったら心の底から嬉しいです。ついでに言うと、フィラント様に急に触られたら嬉しいです」


 これは、とてつもなく恥ずかしい発言です。しかし私まで遠慮していると、永遠に3歩離れた距離に、似たような会話の繰り返しでしょう。私はフィラント様へ近寄りました。緊張はしますが、そんなものには負けませんよ。


「貴女を殴る? ああ、そういう話です。殴ったりしません。信じてもらえないでしょうが……」


 貴方に触って欲しいという要求は、華麗にスルーされました。わざとなのか、フィラント様に届いていなかったのか、どちらでしょう。後者だと思い込むことにします。フィラント様は好意に耳を塞ぐという、変な方ですもの。


「信じてもらえない? フィラント様の事は何でも信じますよ。フィラント様、私を殴ったりなんてしませんもの。決め事とは、そういう当たり前の事の確認ですか?」


 戸惑いが強くなったようなフィラント様。やっぱり変な方。


「いえ、あの、エトワール様? あの、私は貴女に無理をさせたくないのです」


 ですから、先日も告げたように無理なんてしていません! そう怒りたくなりましたが我慢。この会話は、予測済みです。笑うのは……無理そう。私、感情が顔に出やすいのです。ぶすくれているだろう表情を隠しがてら、ソファへと移動します。


「では、フィラント様。私に無理をさせたくないのなら何をどうするのですか?」


 手で自分の隣へどうぞ、と促します。フィラント様、来ません。どうしてこうも、私から離れていたいのでしょう? 結婚式のキスで生理的嫌悪は無いと証明されましたが、やはり私を嫌い? 嫌いな女性に常に思いやりを持って接することが出来るとは殊勝なことです。


「奉仕嘆願書とは別に、嘆願書を作成してもらえれば従います。今後の生活内容について、なるだけ希望に沿うようにします」


「私の好きに決めたら、その通りにしてくれるのですか?」


「ええ、もちろんです」


 相手が嫌がる事はしたくありませんが、私は悪女になると決めたのです。ここは、全身全霊で要求をします。


「では、話をする時は横に並んでしましょう。いいえ、そうしてください。嫌でも善処して下さい。それすら無理なら嘆願書を作るなんて無駄だと思うので、何も決めません」


 ポンポン、と私は自分の隣を叩きました。


 さあ、どうか、お願いです。隣に並ぶことも出来ない生活には、絶対に耐えられません。私の勇気、頑張り、すり減ってきています。


 私は膝の上で握りしめた両手を、ジッと見つめました。一生外さないと決意した、結婚指輪を眺めます。白銀に輝く、唯一の拠り所。この強気は、吉と出るか凶と出るのでしょうか? 涙が込み上げてきましたが、泣かないのは得意技。


「そういう無理をしなくて済むようにと……」


「私のせいにして断るなんて卑怯です。私、この街に来て無理をした覚えはありません。2度目ですけど、私の話なんて聞いていないのですね。なるだけ希望に沿うように? フィラント様は却下ばかりです」


 また感情的になってしまいました。これは大失敗です。この前は逃げてしまったので、今夜は逃げずにいましょう。結果が変わるかもしれません。


 私はフィラント様を見上げました。


 右目から、一筋涙が頬へと伝わります。泣くの、いつ以来でしょう?

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