子爵令嬢、うきうきする
新生活が始まり、2週間が経過しました。
アストライア領地ジャン・シュテルン子爵邸にて、エトワールは1ヶ月間、花嫁修行です。ジャン・シュテルン子爵邸というのは建前で、ここはフィラント・シュテルン伯爵邸。屋敷の有権者、従者の雇用者は全てフィラント様です。
2週間後、フィラント様と私は結婚。フィラント様は私に婿入りという形になります。なんと、挙式には王都から王子様まで参列されるそうです。これは、フローラから聞いた極秘中の極秘。私、口が固いか試されているようです。フローラがそう言っていました。当然、貝のように口を閉ざします。
何でも、シュテルン子爵一族はカンタベリ公爵一族とは政敵側に属しているらしいのです。それなのに何故私がフィラント様の政略結婚相手なのか? これは誰も教えてくれません。レグルス様、フローラにはぐらかされます。
伯爵夫人になるので、基礎教養など全て確認され再教育中です。教育係のヴィクトリアは大変厳しくて怖いです。お母様世代のヴィクトリアは、王都からわざわざ私の教育の為に呼ばれたそうです。
フィラント様の第1執事にして、このお屋敷を取り仕切るのはフォン・バロン子爵。ヴィトリアの旦那様。お父様と同い年なので、なかなかの高齢です。優しくて柔らかい表情ですが、怒らせると途轍もなく怖いそうです。レグルス様の教育係だった方で、フィラント様のことも幼い頃から知っているそうです。でも、フィラント様の幼少時のことは何も教えてくれません。私、信頼されていないようです。
もう1人の執事はルミエル・グレゴリウス男爵。フィラント様の第2執事。レグルス様に王都から呼ばれたそうです。
——私に可能な限り、貴女様の望む暮らしを提供致します
そうフィラント様が言っていましたが、厳しい伯爵夫人教育以外は、とても贅沢で豊かな暮らしです。ふかふかの布団、美味しいご飯。この食事、徘徊母を持つ料理長オットーが毎日感想を聞いてくれます。量があまりに多くて、贅沢過ぎて気も引ける。1人で食べるのが寂しいと告げると、元々の家で食べていた食事に似たようになり、ヴィクトリアや侍女達と一緒に食べて良い事になりました。
新たに作る庭を決める権利もあります。庭師と一緒に花壇の手入れをするのも許されました。ヴィクトリアに見つかって怒られると思ったら、ヴィクトリアはレッスン以外では怒りません。私の暮らす屋敷だから、レッスン以外は好きに過ごして良い。むしろ従者に指示を出して良いのだそうです。屋敷管理は妻の仕事。執事と話し合いなさい、と。なので私は近々、意を決してフォンやルミエルと近々屋敷運営会議をしようと思っています。
フィラント様が落ち着く場所を作りたいです。
「奥様、フィラント様がいらっしゃいました」
談話室でフォン執事とチェスの特訓をしていたら、侍女サシャが知らせに来ました。急いでホールへ行こうとしたら、フォン執事の目が怖かったので、優雅に立ちます。伯爵夫人に相応しい、ゆっくりとした可憐な足取りで玄関ホールへ向かわないとなりません。
単なる政略結婚だと外聞が悪い。アストライア領地で私と知り合い、熱心にジャン・シュテルン子爵邸に足を運んでエトワール令嬢を口説き、恋仲となって結婚。それがレグルス様がフィラント様と私に命じた政略結婚における建前。貴族社会や政治とは色々複雑みたい。それで、フィラント様は毎日屋敷に顔を出します。
玄関ホールで、騎士団副隊長の黒い勤務服姿のフィラント様が側近ロクサスと並んで立っています。フィラント様、本日は少し来訪が早いです。毎日、夕食後くらいの時間に帰宅され、フォン執事やルミエル執事と会議室にこもり、レグルス・カンタベリ領主邸へと帰ります。それで、喋れるのは、ホールでのお出迎え時のみ。これを逃すとフィラント様と会話出来ません。
「今晩は、エトワール様」
フィラント様に会釈され、私も会釈と挨拶を返します。
「今晩は、フィラント様。お待ちしておりました」
トキメキに加え、ヴィクトリアに見張られているのでとても緊張しましたが、今日こそ合格点の会釈な筈。
フィラント様の姿を見て、声を聞いただけでドキドキ、ドキドキします。
今日もフィラント様は固くて無理矢理という微笑み。私と目を合わせてくれません。私が若い男性が苦手と知ったフィラント様は、優しいことに私と距離を置いてくれています。挨拶の手の甲にキスもしません。
嫌われたと悩んでフローラに相談したら、フローラがレグルス様、レグルス様がフィラント様へ質問して発覚しました。
レグルス様に自分で蒔いた種なのだから、自分で解決しなさい。と言われています。
「フォン、ルミエル、先に報告を聞こう」
側近ロクサス卿がヴィクトリアに紙袋を渡しています。今日も手土産を持ってきてくださったフィラント様。密かに楽しみにしているこの手土産は、毎回美味しいお菓子です。今日は何でしょう?
ここは、意を決してフィラント様をお茶に誘いましょう。長居するから早く来訪されたのだと思います! と、自分に都合の良い解釈をします。でないと勇気が出ません。
「あ、あの、フィラント様。いつも美味しいお菓子をありがとうございます。そ、その……時間があるようなら後でお茶をしながら本日のお菓子を一緒にいただきませんか?」
淑女らしくない! とヴィクトリアに怒られそうですが、目を瞑って、ドレスの裾を両手で掴んでしまいました。上擦った声はかなり小さくなっています。
返事、ありません。そろそろと目を開くと、フィラント様の姿は2階へ続く階段を登り切るところ。フォン執事、ルミエル執事、ロクサス卿を従えています。私、無視されました。
「一足どころか何足も遅かったみたいですねエトワール様。フィラント様に聴こえてなかったようですよ。まあ、遠くからそのような小さな声を掛けるからです。フィラント様とお茶をしたいとは知りませんでした」
ポンポン、とヴィクトリアが背中を撫でてくれました。教育以外ではとても優しいヴィクトリア。お母様を思い出します。
「お茶というより、談笑というか、せめて何か一言二言お話ししたいのです。そんなに小さな声でした?」
「そうだったのですね。ええ、エトワール様。蚊の鳴くような声でした」
はあ、と深いため息が出ました。無視ではなく、私の声の小ささのせいでした。
「チェスの講義が中断のようなので、文学講習をしましょう。カンタベリ公爵夫人は朗読会を好んでいます。傾向と対策を頭に叩き込んでもらいますよ。あと、その猫背を直して歩いて下さい。日頃の所作は社交場でも出ます」
「はい、ヴィクトリア」
今までも頑張っていたつもりですが、伯爵夫人というのは大変なようです。目一杯、背筋を伸ばしますが、やはり萎れそう。1日の最大の楽しみフィラント様との逢瀬、そして仲良くなる為に励む時間は、あっという間に過ぎてしまいました。
「エトワール様は大変努力家で勤勉ですから、後ほど美味しい紅茶を淹れさせます。談話室で、です。先程の台詞、このヴィクトリアがフィラント様にお伝えしましょう」
私の耳がピクリ、と動きました。ピンッと背中も伸びます。
「まあ、本当ですか。それなら私、カンタベリ公爵夫人の好みを完璧に暗記します」
「明日、女学校へのマナー講座の特別講師をしに行くのは覚えていますね? その予習も再度しますよ。教育も伯爵夫人の仕事です」
「はい、ヴィクトリア! はい、ヴィクトリア! 昨日、大失敗だったダンスレッスンもします」
クスクス笑うと、ヴィクトリアに背中を押されました。少しニヤニヤして見えます。フローラ、レグルス様に続いてヴィクトリアにも私の気持ちが見抜かれたようです。こんなに分かりやすいのに、フィラント様は気がつかないのでしょうか? ロクに話せていないからでしょう。まずは会話。私はフィラント様がお酒とパンとスープが好きで、仕事熱心なことしか知りません。
——宝物だと思って大事にします。どうかいつも笑っていて下さい
既に大切にされています。とても贅沢者。夢か本当か分からない、薄ぼんやりした意識の中で聞いた、フィラント様の温かくて素敵な言葉が私の支えです。
都合良く解釈して「フィラント様は私の笑顔が見たい」と思うことにしてます。やる気がうんと出ますもの。