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生誕

 明確にいつ、とは分からない。だがわたし……わたし、と呼称する自分、自己、そういったものは覚醒していた。突然自分自身を意識する、というのは不可思議なもので、どのような感覚かは言い表せない。ただ、わたしがわたしを認識した瞬間がわたしの意識の覚醒であり、わたしの誕生だった。

「おはよう、新しき神の嬰児よ」

 音が聞こえた。それが声というのだと、わたしは知っていて、音の羅列が意味のあるものだとも知っていて、その意味も知っていた。何故かは知らないが。

「聴覚はもう完成しているね。だがそれ以外の部分はまだ不完全……肉体の完成まで一日といったところか。意識のみの覚醒のようだ」

 唐突に、全く唐突にわたしはこう思った。

 この声の主は誰だろう、と。

 その疑念が生じると同時に、わたしは、わたし以外の意識を持つ個体の存在を理解した。そして恐らくは、わたしとこの声の主は、全く別の個体であり、存在であり、わたしの意識がどのようなことを考えているかは声の主は知らないであろうということも理解し、更に、わたしと、声の主をとりまく空間、わたしの意識も、声の主の意識も届かない空間があると理解した。

「ふむ。知能の発達が著しいな。自己の認知、他者の認知……更には世界の認知か。既にヒトとして申し分ない……が、目が未だ開かないのだね。それでは君が光を知るまで、一番古い話をするとしよう。神による、七日七晩の天地創造だ」

 声の主が動くのが分かる――――そう、わたしも声の主も、意識だけの存在ではないのだ。意識の器として肉体がある。それをわたしは既に知っていて、肉体の感覚というのもあった。しかし、この器が動くということは知っているのだが、わたしはその動かし方は知らないし、光がどんなものかも知らなかった。

「ああ、名前を言っていなかったね」

 名前。わたしと、この声の主が別の存在だと示す記号だ。わたしはまだ名前がない。

「私の名前はカイン。この世界の語り部(ナレーター)だよ。気安くカイン兄さんと呼んでくれたまえ」

 カインニイサン。音としてわたしは理解する。

「君に名前はまだ要らないね。それでは、肉体が完成するまでの間、ゆっくり聞くといい。この世界で一番古い話をしよう。神という存在が、世界を丸ごと作った時の物語だ」

 そして、声の主は語り始めた。



 わたしが時間の経過という概念を理解したころ、わたしの器、肉体は動くようになっていた。意識と肉体があるものを「どうぶつ」と言うらしい。どうぶつは形によって名前が違い、わたしは「ヒト」の「オトコ」だそうだ。そうカインニイサンが言うと、わたしはわたしが男であり、人であることを理解した。そしてわたしをオレと呼ぶことにした。

 オレが、目、つまり光を使って物を見るという肉体の一部を初めて動かしたのは、カインニイサンが長い話を三つ語り終えた時だった。開いた目が、初めて、光を知る。

 痛い。

 それが真っ先に頭に浮かんだ言葉だった。頭……? ああ、そう、このオレの意識は、肉体の頭に今はあるのだ。頭と体から肉体はできていて、俺は座っていて、背中を座っていた何かから離していて、その背中にカインニイサンが手を当てていて、オレは両目を開いていた。自分の状態を正しく理解して、ゆっくりと目を閉じる。痛い、というのがなくなってから、もう一度目を開いた。

 まるで――――。いや、オレはこれを例えるべき言葉を知らない。分からない。だが、色、色、色、色、色……さっきまで単色だった視界が、にわかに賑やかになった。

「空の蒼」

 カインニイサンが言って、オレは、自分のいる場所の遥か上に広がる色を理解する。

「草の緑」

 カインニイサンが言って、オレは、自分が座っている場所の色を理解する。

「土の茶」「雲の白」「花の赤・黄・青・紫……」

 色彩が、目から一度に流れ込む。それは――――とても――――

「――い」

 オレは初めて言葉を言った。それから、重い頭を持ち上げて、カインニイサンを見る。目と、鼻と、口。いつの間にか知っていた、人の顔の形。それと一致するのだから、カインニイサンの顔はこれなのだろう、とオレは考える。

「素晴らしい。痛みは生きている証だ。そして君のその涙は、生誕の喜びか、色彩への感動か、それとも世界への絶望か、神との決別か……」

 先刻まで、全て理解できていたカインニイサンの言葉が、途端に理解できなくなった。だが、頬を伝う水、これが涙ということは知っていた。木の根元と融け合っていたオレの手足は剥がれ、オレの肉体は完全に一つの個体として独立していた。それに伴って、あれ程次々に流れ込んできていた知識、そして無条件にそれを理解していた能力が、止まっていた。

「さあ、神の嬰児は今新たなヒトの子になった」

 カインニイサンが立ちあがって、オレに手を差し出す。

「立つといい。服を着せてあげよう」

 カインニイサンの手を握って、オレは足に力を籠める。カインニイサンの見よう見まねで、少しだけ尻が持ちあがった。片手で背中を支えられて、前に倒れそうになったら受け止められて、カインニイサンにすっかり頼って、それでもかなりの時間をかけて、オレは立ちあがる。二本の足でオレが立てるようになると、カインニイサンは、幅広の薄っぺらい何かをオレの肩に掛けた。

「間に合わせで済まないね。立派な青年だ……いつも、新しいヒトは小さな子どもが多いから……これでは腰巻きにするしかないな」

 オレはカインニイサンの肩程まで、頭の高さがあった。カインニイサンは細い目を更に細くして、笑っている……? ああ、笑っている、というのだろう。

「ヒトには名前が必要だね。君はこれから一年、私の弟として育てよう。アベルトゥス。アベルと名乗るといい」

「……る」

 言ったつもりだが、声は出ていなかった。

「あ」

「あ」

 カインニイサンの真似をして、大きく口を開く。

「べ」

「べ」

「る」

「る」

「アベル」

「あべる」

「そう、君はアベルだ」

 カインニイサンの手が、オレの頭に乗った。それから、その手が頭の上をぐるぐると動く。……よく分からないが、何だか口元が緩んだ気がした。

「さあアベル、まずは好きなだけ、世界を見るといい。君を迎える世界は神の祝福に満ちているよ。ここが君の生まれた場所で、そしてこの世界で一番安全な場所だ」

 カインニイサンがオレの腕を引っ張って、オレはもう一度顔をあげた。

 中空に、巨大な島が浮いている。……浮いている、というのは、オレがオレ自身と比較した時の所感だが。地面の上に立っているオレは、足の下に何もなければこうして立っていられないことが分かるし、他のものも同じだ。だが、その下、地面の下の方は何もなくて、今見上げているこの島々のように、浮いているのだろう、と、漠然と理解した。

「私はこの世界を、多島海(アーキペラゴ)と呼んでいるよ。もうしばらく海は見ていないけれど、生命の源泉であり、神の領域であり、不可逆の死を孕む場所として、海も空も同じ物だ」

 カインニイサンの言葉が、もう半分も理解できない。それが何だか胸元をむかむかとさせた。だが、オレはそれを何と言ったらいいか分からなくて、カインニイサンの腕を掴む。

「苛立っているのかい? それは、自分の無知に? それとも、私の不親切さに?」

 苛立っている。……ああ、多分、それだ。

「ヒトの子の成長は速くて遅い。ゆっくり、一つ一つ覚えていくといいよ。望むことならば何でも与えよう。一年間、私は君の導き手であり、親であり、師であり、兄だ」

 カインニイサンは、持っていた長いもので地面を軽く突いた。ぱきん、という音が聞こえる。だがそれが何の音かオレは知らな――――。

 オレは立てなくなって倒れていた。

「今、私の加護を君から外した。神の加護も私の加護もなければ、君は生まれたばかりの嬰児だ。……大丈夫、ちゃんと二本の足があるんだから。明日にでも立って歩けるようになるさ」

 オレは立とうとして、立てなくて、なのにカインニイサンは手を貸さない。体を回転させて、仰向けになって、ものすごく重い体を、どうにか少しだけ自由に動かせるようになる。

 蒼空と、それを背負ってオレを見下ろすカインニイサンがいた。

「さあ、頑張れ、頑張れ。これからぜーんぶ、一人で頑張って貰わなきゃなんだから」

 カインニイサンは、やっぱり笑ったような顔のままで、だがオレは、それで、とても――――とても――――

 ああ、そう、『苛立っている』。だ。

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