第10話 剣で語る
前回:「第9話 涙で家賃は払えん」
ドレン村までは、馬を飛ばして半日だった。夜通しの騎行で、東の空が白む頃、潮の匂いが煤の匂いに勝ち始め、崖の下に、燃える松明の列と、黒い浜が見えた。
浜は、修羅場だった。岩の甲羅を背負った中型の海獣が五頭、定置網を食い破り、浜に引き上げられた漁船を叩き壊している。網に絡まった一頭が暴れるたび、係留中の船が薪のように跳ねた。逃げ遅れた漁師が桟橋の先で腰を抜かしている。半鐘が鳴り続け、女たちが子供を高台へ運び、老人が「網が、今年の網が」と繰り返していた。網は、村の一年の飯である。
着くなり、レーヴェは負傷者の列を一瞥して、三つに割った。「その人とその人、擦り傷、後回し。そっちの脚の人、添え木、今すぐ。奥の青い顔の人――先に診て、腹を打ってる」。医者でもないのに、と村の産婆が目を丸くしたが、彼女の見立ては全部当たっていた。人の身体を見る目は、剣で磨かれる。俺は俺で、村長を捕まえて被害の記録を取り始めた。救援も補償も、記録がなければ始まらない。修羅場でこそ、紙は要る。
そして俺たちより先に、現場に入っている一団がいた。
「二番隊、船を引かせろ! 三番、網の親綱を切れ、獣ごと沖に流す! 死ぬんじゃねえぞ、手前ら!」
ジグと、ロダン戦団だった。近くで演習中だったらしい。傭兵たちは統率が取れていて、そして意外なことに――誰一人、海獣に刃を向けていなかった。刃を向ければ手っ取り早いのに、だ。獣を殺せば漁場が荒れることを、拾われ者の集団は、どこかで知っているのだった。
「頭ァ! 網の一頭が暴れて、切り離せません! 桟橋の漁師が巻き込まれる!」
「ちっ、俺が行く――」
「――あたしが行く!」
レーヴェが、跳んだ。
桟橋を三歩で駆け抜け、腰を抜かした漁師と暴れる海獣の間に、剣を抜いて割って入る。海獣の前脚の一撃を剣の腹で受け流し、二撃目を桟橋の柱に誘導し、その間に漁師の襟首を掴んで後方の傭兵へ放り投げた。そこからが、彼女の真骨頂だった。
斬らない。一太刀も。
浜の傭兵たちが、最初は「何やってんだあの女」という顔で見ていた。三十秒後には、誰も口を利かなくなった。彼らはプロだ。プロだから、分かるのだ。あれがどれほど難しいかが。
剣は常に、獣と人の間にだけあった。獣の突進は受けず、逸らす。網に絡んだ蔓は、獣の皮膚の一寸手前で断つ。パニックを起こした巨体が消耗して動きを鈍らせるまで、彼女は舞うように「壁」であり続け、最後に、緩んだ網をするりと外してやった。自由になった海獣は、彼女を一睨みして、沖へ消えた。去り際の一睨みに、敵意はもうなかった。あれはたぶん、獣なりの、不承不承の礼だった。
浜が、静まり返った。それから、割れるような歓声が上がった。傭兵たちまで、得物を掲げて吠えていた。村長が樽酒を転がしてきて、女たちが傭兵たちに湯気の立つ椀を配り、さっき腰を抜かしていた漁師は、命の恩人の剣聖に、獲れたての貝を両手いっぱい押し付けていた。子供が一人、恐る恐るジグの大剣に触り、ジグが「触るな、危ねえ」と言い、子供が「つよいひとだ」と言い、傭兵王が返答に窮していた。守った後の村の目、というものを、この団は今日、初めて浴びているのかもしれなかった。
ジグが、大剣を担いだまま、ゆっくりと桟橋を歩いてきた。彼はずぶ濡れのレーヴェを上から下まで眺め、それから、初めて獣の目ではない目で、言った。
「……あんた、剣は、本物だな」
「どうも」
「一つ聞く。最後、網を外してやったな。あのまま放っときゃ、獣は勝手に弱って死んだ。網の代金は、獣の甲羅を剥いで売りゃ足しになった。……なんで外した」
「あの子、網に絡まって暴れてただけで、悪さしに来たんじゃないもの。それに――」レーヴェは、濡れた髪をかき上げて、あっさり言った。「死なせて得する銭より、生かして損しない道の方が、後味がいい。うちの事務屋の受け売りだけどね」
勝手に受け売りにされた俺の勘定は、正確には「死骸の処理費と漁場の汚染を考えれば生かす方が安い」なのだが、まあ、後味の話でも、間違ってはいない。
「気に入った。おい、調停屋の剣士。――決闘だ」
「はあ!?」と叫んだのは俺である。
「明後日、傭兵市場の闘技場。あんたが勝ったら、あんたらの『話』とやらを、最後まで聞いてやる。俺が勝ったら、二度とうちの団に和平を売りに来るな。……剣しか持たねえ男と話がしたけりゃ、剣で来い。それが筋ってもんだろ」
レーヴェは、濡れた前髪の下で、にっと笑った。昨夜の顔とは、別人の顔だった。
「――乗った」
*
一方その頃、俺は村の救援物資の手配で、軍需ギルドの沿岸倉庫に出入りしていた(傭兵団の兵站はギルドが握っている。書類のあるところに、俺の仕事はある)。倉庫番は白髭の老人で、俺の手配書の書式を見て「あんた、いい字ィ書くね」と茶を出してくれた。
救援用の帆布を探して古い木箱を開けた時、指先に、乾いた紙の感触が触れた。引き出すと、それは一枚の海図だった。羊皮紙は飴色に焼け、隅の日付は――三十五年前。
俺は何気なく、それを現行の海図と見比べて。
止まった。
海峡の水路の線が、違う。浅瀬の位置が、違う。今は船が通らない場所に、堂々と航路の線が引かれている。
「……海が、変わってる?」
俺は二枚の海図を並べ、燭台を引き寄せ、線の違いを一本ずつ指で辿った。旧図の主水路は、海峡の北寄り――ヴァルム側の崖に沿って引かれている。現行図の水路は、南寄りだ。つまり三十五年前、船は今と全く違う場所を通っていた。三十年前の花嫁の船も、当然、旧水路を通ったはずだ。今の海の常識で三十年前の航跡を推理していた人間は、全員、間違った海の上で考えていたことになる。
「ああ、そりゃ大地震の前の図だよ」倉庫番の老人が、茶をすすりながら言った。「三十年前の大地震でな、海峡の底が、ごっそり動いたのさ。昔の水路は浅くなって、船の腹を擦るようになった。古い海図は使うと危ねえってんで、お上が回収して回ったもんだ。……そいつは、回収漏れだね。捨てとくれ」
「三十年前。……その地震、正確には、いつです」
「いつって、そりゃあ……」老人は顎髭を撫で、遠い目をした。「ありゃあ確か、リズレアの姫さんの、輿入れの年だ。……そうだ、思い出した。姫さんの船が沈んだって騒ぎの、じきあとよ。縁起でもねえ年だった。あの晩はな、儂はまだ水夫でよ。海がひと晩じゅう、腹の底で唸ってるみてえな音を立てとった。年寄りどもは『海神様の寝返りだ』なんて言うてたが……朝になったら、いつもの瀬に白波が立って、いつも白波の立つ瀬が、凪いどった。海の顔が、ひと晩で変わっちまったのさ」
「その『じきあと』ってのは、正確には、どれくらい後です。ひと月? 十日?」
「さあて、そこまでは。……なにせ姫さんの騒ぎで、国じゅうが上を下だったからよ。海の変わり目なんぞ、気に留めた者も少なかろうさ」
騒ぎの陰で、記録が薄くなる。窓口五年の経験で言えば、事件の真相は、たいてい、その「記録の薄いところ」に落ちている。
俺の手の中で、飴色の海図が、急に重くなった。
花嫁の船が沈んだ年に、海の底が動いた。船が沈んだ「じきあと」に。……順番は、本当に、そうか?
次回「第11話 決闘、傾聴付き」は、9月12日(土)18時30分更新です。




