第1話 ギルド受付、最後の日
俺の朝は、書類の角を揃えることから始まる。
依頼書の束をとんとんと机で整え、角を親指でなぞって、一枚のはみ出しもないことを確かめる。インク壺の残量を確認し、ペン先を検品し、釣り銭箱の銅貨を額面ごとに立てて並べる。ここまでやって、開店の鐘が鳴る。この一連の流れを、俺は五年間、一日も欠かしたことがない。
リド、十九歳。冒険者ギルド・アステル支部の受付職員、勤続五年目。無遅刻無欠勤、経費精算の差し戻し件数ゼロ、書類の不備による差し戻され件数もゼロ。座右の銘は「例外は書式で潰せる」。来月には正職員への昇進面談が控えていて、面談官が来る日付の通知は、すでに机の抽斗で角を揃えて保管してある。
「リドくんは今日も几帳面ねえ。あんた、冒険者になろうとか思ったことないの? その若さでずっと受付って」
隣の窓口の先輩受付嬢、ミレットさんが呆れ半分に言う。この質問は入職以来、通算で百四十回目だ(数えている)。回答は五年間、一言一句変わらない。
「ないです。冒険は危ないので。危ないことは冒険者の皆さんに任せて、俺は定時と安全の側で生きていきます。それが人生設計なので」
「夢がないわねえ」
「夢より貯蓄です」
窓口の向こうには、今日も冒険者たちが列を作っている。薬草採取の報告、討伐証明の提出、装備購入の融資相談。彼らの武勇伝を、俺は書式に変換する。血と汗と泥の冒険譚は、俺の手元を通ると、日付と金額と押印の並んだ一枚の紙になる。それでいい。世界は書類で回っているし、書類は誰も傷つけない。
――そう、信じていた。その日、受付に三人組の女が現れるまでは。
「冒険者登録を頼む!」
開店直後の列を、爽やかな声が割った。振り向いた先客たちが、なぜか自然と道を空ける。妙な迫力のある三人組だった。
先頭は長身の女。歩き方に一切の無駄がなく、腰の剣は――鞘しか見えないのに、業物だと分かる。五年間、何千本という武器を査定台帳に載せてきた俺の目が、勝手に「等級外」と告げていた。
二人目は神官服の娘。完璧な微笑。完璧すぎて、逆に何を考えているのか一切読めない微笑だ。
三人目は、真紅のローブを着た小柄な少女だった。歳は十五、六か。背丈は先頭の女の肩にも届かない。ただ、目つきだけが、異様に自信に満ちていた。世界の全部が自分の練習台だと思っている目だった。後から思えば、この時点で非常ベルを鳴らすべきだった。
「かしこまりました。冒険者登録ですね。ではこちらの用紙に記入を。……字がお綺麗ですね。はい、結構です。ではまず適性測定を行います。剣士の方からどうぞ。こちらの測定器の柄を、軽く握ってください。軽く、で結構ですので」
長身の女――記入欄によればレーヴェ、二十二歳――が、頷いて柄を握った。
軽く、と言った。確かに言った。彼女も多分、軽く握った。
その瞬間、測定器の針が文字盤を一周した。二周した。三周目の途中で、ばきん、と音を立てて折れ、文字盤に突き刺さった。測定器は白煙を一筋上げて、沈黙した。
「あっ」
レーヴェが、悲鳴のような声を上げた。てっきり言い訳が来るのかと思った。違った。
「ご、ごめんなさい! 計器さん、ごめんなさい! 計器さんにも、作った職人さんの想いが籠もっているのに……! こんな、こんな壊れ方をさせてしまって……! ねえ、この子を作った工房はどこ!? 私、謝りに行かなきゃ……!」
彼女は折れた測定器を両手でそっと包み、半泣きで俺に詰め寄ってきた。なぜ計器に謝る。なぜ「この子」呼びなのか。なぜ俺が工房の住所を調べさせられているのか。分からないことだらけだったが、一つだけ確かなことがあった。俺は登録用紙の「適性」の欄に、規定の等級ではなく、手書きで「規格外」と書いた。五年目にして初めて使う言葉だった。
「つ、次の方。聖属性の測定です。この水晶に手を」
神官服の娘、エルシー、二十歳。彼女が指先で水晶に触れた瞬間、水晶は聖歌でも歌い出しそうなほどの光を放った。窓口の列から「おお」とどよめきが上がる。聖属性S。教会の大聖堂でも年に一人出るかどうかの数値だ。本物だ。
彼女は光る水晶から手を離すと、にっこり笑って、言った。
「ところで受付様。この水晶、備品台帳に載っていますか?」
「……は?」
「三年前の型ですのに、帳簿の上では昨年購入になっていたりしませんか。差額の予算、どこかへ消えていたりしませんか」
背筋が凍った。それは俺ですら先月気づいたばかりの、経理課の小さな闇だった。隣の窓口でミレットさんが、音を立てて書類を落とした。
「な……なぜそれを」
「神は見ています。私も見ています」
完璧な微笑のまま、彼女は言った。怖い。聖女の顔をした何かだ。俺は登録用紙に「聖属性S・その他要注意」と書いた。「その他」の中身を書く欄が足りなかった。
「さ、最後の方。魔力測定です。この水晶に手を置くだけで結構です。念のため申し上げますが、詠唱は不要で――」
「詠唱こそ魔法の華!」
真紅のローブの少女が、ばさりとマントを翻した。翻す必要は微塵もなかった。
「我が名はミラベル! 終焉を詠う魔女! 齢十六にして超級魔法を修めし天才! では、ご挨拶代わりに、一節だけ――『原初の闇より出でて灯りし一つ火、天蓋を裂きて廻れ、廻れ、廻れ――』」
「あの、詠唱は不要と申し上げ」
「『――七つの海は割れ、八つの山は伏し、星々は座を追われ――』」
「不要と言ってますが!? おい、誰か!」
止まらなかった。少女の足元に、見たこともない密度の魔法陣が滲み出し、受付の空気がびりびりと軋み始めた。水晶が悲鳴のような共鳴音を立てる。列に並んでいた歴戦の冒険者たちが、蜘蛛の子を散らすように出口へ殺到した。逃げ足だけは本当に一流の人たちだった。
「全員外へ! 窓口業務、一時中断! ミレットさん、非常口! そこの新人くん、二階の資料室に人がいないか見てきて――」
叫びながら、俺の手は勝手に動いていた。今日受け付けた登録書類の束を、既決箱ごと胸に抱え込んでいた。理屈ではない。五年間の習性だった。
「『――今、原初の火は臨界に至り――』」
「待て待て待て、臨界!? 水晶! せめて水晶から手を離――」
俺の五年間が、視界ごと、白に呑まれた。
*
……気づいたとき、俺は瓦礫の中にいた。両腕で、登録書類の束を抱えたまま。書類は、一枚も焦げていなかった。俺の背中と上着が、代わりに盛大に焦げていた。
立ち上がって、周囲を見た。
冒険者ギルド・アステル支部、半壊。受付カウンター、消滅。俺が五年通った定位置は、床ごと抉れて青空が見えていた。依頼掲示板、行方不明(三日後に隣町の川で発見される)。魔導式の自動扉、原形なし。観葉植物、蒸発。
そして、奇跡的に――本当に奇跡的に、死者はゼロだった。避難が三十秒遅れていたら、と考えて、やめた。考えると膝が笑うからだ。
瓦礫の山のてっぺんで、真紅の少女が、なぜか胸を張っていた。
「ふ……詠唱進捗、三パーセント。今日はこのくらいで勘弁してあげる」
「三パーセントでこれなの!?」
俺の絶叫が、屋根のなくなったギルドに、やけによく響いた。
*
夕暮れ。焼け残った資材置き場に、机が一つ運び込まれ、ギルド長のバッソが査定書を読み上げた。歴戦の元A級冒険者、岩のような大男の、その声が、震えていた。
「建物修繕費、金貨六百二十枚。受付カウンター一式、金貨八十枚。魔導扉、金貨五十五枚。測定器二基、金貨三十枚。観葉植物レンタル解約違約金、銀貨五十枚。その他諸経費込みで――被害総額、金貨八百枚」
金貨八百枚。庶民の生涯年収の、およそ二回分である。
三人娘は顔を見合わせ、それはもう見事に、声を揃えた。
「「「持ってません」」」
「だろうな!!」
バッソは査定書を机に置き、こめかみを揉み、深呼吸を三回して、それから、ゆっくりと顔を上げた。その視線が、瓦礫の中で書類を守り抜いた唯一の職員――つまり、俺のところで、止まった。
嫌な予感しかしない目だった。五年間、依頼の割り振りでこの目をした時のギルド長は、必ず誰かに貧乏くじを引かせてきた。
「リド。……話がある」
俺の平穏な受付人生、最後の日だった。
次回「第2話 監督者という名の人身御供」は、このあと12時に更新です。




