母との想い出
事件が終わってから、数日が経っていた。
大学には、少しずついつもの空気が戻っていた。
廊下を歩く学生。
講義へ急ぐ人。
友人同士で笑い合う声。
誰もが、それぞれの日常を生きている。
あの騒ぎがあったことなど、最初から存在しなかったかのようだった。
けれど。
六花にとっては、まだ完全に「いつもの日常」に戻ったとは言い切れなかった。
事件の最中に見たもの。
感じた邪気。
自分の力を使おうとした瞬間の、あの感覚。
そして。
自分一人で何とかしようとせず、怜弥たちに助けを求めたこと。
あれは、六花にとって小さくない出来事だった。
以前なら。
きっと、自分一人で抱え込んでいた。
自分にしか見えない。
自分にしか分からない。
だから、自分が何とかしなければ。
そう思っていた。
けれど今回は違った。
怜弥に連絡して。
智樹に状況を伝えて。
奏多と朱里にも協力を頼んだ。
役割を分けて。
皆で動いた。
そして、事件を終わらせることができた。
そのことが、六花の中に少しだけ残っていた。
――頼ってもいいんだ。
そう思えるようになったこと。
それは、思っていた以上に大きかった。
「……ふぅ」
講義を終えた六花は、教室を出る。
鞄を肩に掛け直し、廊下を歩いていると。
「六花」
聞き慣れた声がした。
「……あ」
振り返る。
そこには、怜弥と智樹がいた。
「怜弥、智樹」
「久しぶり」
智樹が穏やかに笑う。
「この前の事件以来だな」
怜弥も頷いた。
「うん」
六花も笑う。
「二人とも、大学では普通にしてるんだね」
「一応な」
怜弥が苦笑する。
「俺たちも学生だから」
「そうだった(笑)」
六花が笑う。
こうして見ると。
先日の事件が嘘のようだった。
普通の大学生。
普通の廊下。
普通の会話。
そのことが少し嬉しかった。
けれど。
怜弥の表情が、少しだけ真面目になる。
「六花」
「ん?」
「一つ、聞きたいことがある」
「何?」
「白鈴神社って、知ってるか?」
「……白鈴神社?」
六花は首を傾げた。
その言葉を、頭の中で繰り返す。
白鈴。
しろすず。
聞いたことがあるような。
ないような。
けれど。
どれだけ記憶を探っても、何も出てこなかった。
「知らない」
素直に答える。
「神社なの?」
「ああ」
智樹が続ける。
「かなり古い神社らしい」
「へぇ……」
六花は少し考えた。
自分が行ったことのある神社。
子供の頃の記憶。
家族と行った場所。
けれど。
白鈴神社という名前には、どうしても結びつかない。
「ごめん。聞いたことないな」
「そうか」
智樹が頷く。
怜弥も何か考えるように六花を見る。
「じゃあ……白い狐は?」
「白い狐?」
「何か、心当たりはないか?」
その瞬間だった。
六花の足が止まった。
「……白い狐」
胸の奥で。
何かが、ほんの僅かに揺れた。
白い。
狐。
その二つの言葉が。
何故か、遠い記憶の扉を叩いた。
「……あ」
六花の脳裏に。
一瞬だけ、景色が浮かんだ。
木々。
古い建物。
静かな境内。
そして。
白い毛並み。
「昔……」
六花はゆっくり口を開いた。
「昔、どこかの神社で白い狐を見た記憶があるの」
怜弥と智樹が顔を見合わせる。
「神社で?」
「うん」
六花は眉を寄せた。
思い出そうとする。
けれど。
記憶は、霧の向こうにあるようだった。
「でも、どこかは分かんない」
「誰と行った?」
「……」
六花は少し考える。
そして。
「たぶん、お母さん」
その言葉を口にした瞬間。
胸の奥が、少しだけ痛んだ。
母。
その存在は、六花にとって温かいものだった。
けれど同時に。
あまりにも遠いものでもあった。
幼い頃に亡くなった母。
覚えていることは、少ない。
声も。
仕草も。
顔も。
ところどころしか思い出せない。
だからこそ。
白い狐の記憶が、妙に鮮明に感じられた。
「白い狐……」
六花は小さく呟いた。
「なんで覚えてるんだろ」
「無理に思い出さなくていい」
智樹が優しく言った。
「うん」
六花は頷いた。
「ごめんね。力になれなくて」
「いや」
怜弥が首を振る。
「十分だ」
「え?」
「白い狐の記憶があるってだけでも、何かの手掛かりになる」
「そっか」
六花は少し笑った。
「じゃあ、また何か思い出したら言うね」
「ああ」
怜弥が頷く。
「じゃあ、俺たちはこれで」
「うん。またね」
二人と別れる。
六花はその背中を見送りながら。
もう一度だけ、頭の中で呟いた。
――白い狐。
そして。
――お母さん。
なぜだろう。
胸の奥に、妙な引っ掛かりが残っていた。
けれど。
まだ、それ以上は思い出せなかった。
*
その日の夕方。
六花が自宅の玄関を開ける。
「ただいまー」
返事はない。
けれど。
部屋の奥から、確かな気配がする。
「……あれ?」
靴を脱いで部屋へ向かう。
そして。
「……えっ!」
六花の顔が一気に明るくなった。
「鳳ちゃん!」
そこには。
鳳凰。
霊亀。
麒麟。
応龍。
四霊全員が揃っていた。
「久しぶり!」
六花は嬉しそうに駆け寄る。
「お帰り、六花」
麒麟が笑う。
「久しぶりじゃな」
霊亀も穏やかに頷く。
「元気そうで何よりじゃ」
「みんな、いつ来たの?」
「少し前じゃ」
鳳凰が答える。
「久々に四人揃ったのでな」
「嬉しい!」
六花は素直に喜んだ。
事件が終わったばかりだからこそ。
四霊が揃っていることが、いつも以上に嬉しかった。
あの戦いの時。
皆が自分を心配してくれた。
そして今も。
こうして何事もなかったように、自分の部屋にいてくれる。
それが何より安心する。
「今日ね」
六花は鞄を置きながら話し始めた。
「大学で怜弥さんと智樹さんに会ったの」
「ほう」
霊亀が顔を上げる。
「それでね、変なこと聞かれた」
「変なこと?」
「『白鈴神社って知ってる?』って」
その名前を口にした瞬間。
四霊の表情が変わった。
ほんの僅かだった。
けれど。
六花は気づかなかった。
「知らないって言ったんだけど」
六花は続ける。
「白い狐が関係してるかもしれないって言われて」
鳳凰の視線が鋭くなる。
「白い狐?」
「うん」
六花はソファに腰を下ろした。
「それで、私……昔、白い狐を見たことがあるって思い出した」
「……いつ?」
霊亀の声が少し低くなる。
「小さい頃」
「誰とじゃ?」
「お母さんと」
再び。
沈黙が落ちた。
「どこの神社かは、分からないんだけどね」
六花は困ったように笑う。
「たぶん、普通の神社だったと思う」
四霊たちは互いに視線を交わした。
だが。
六花は、まだ話を続けていた。
「そういえば……」
何かを思い出したように。
「私、お母さんのことって、みんなにあんまり話してなかったよね」
「そうじゃな」
霊亀が静かに答える。
「じゃあ、ちょっと話そうかな」
六花は少し考える。
母について話すのは、久しぶりだった。
「私のお母さんね」
ゆっくり言葉を選ぶ。
「身体が弱かったの」
四霊たちは黙って聞いている。
「私が五歳になる前に亡くなったんだ」
六花の声は落ち着いていた。
けれど。
母の話をすると。
胸の奥に、あの頃の寂しさが蘇る。
「入院したり、退院したりしてたけど……すごく優しい人だった」
六花はそこで一度、目を伏せた。
「……お母さん、料理が好きだったんだ」
ふっと。
幼い頃の台所が、記憶の中に浮かぶ。
夕方。
西日の差し込む小さな台所。
窓から入ってくる光が、流し台の銀色を淡く照らしていた。
幼い六花は、床に座って母の背中を眺めている。
白いエプロンを着た母が、まな板の前に立っていた。
包丁が、一定のリズムでまな板を叩く。
――トントン、トントン。
その音が妙に心地よかった。
「お母さん、何作ってるの?」
「今日はね、六花の好きなもの」
「ほんと?」
「ほんと」
振り返った母が笑う。
その笑顔が、幼い六花には嬉しくて仕方なかった。
「じゃあ、手伝う!」
「ふふ。じゃあ、これ混ぜてくれる?」
母が小さなボウルを差し出す。
六花は両手でそれを受け取って、一生懸命に混ぜる。
けれど。
「……あれ?」
少し混ぜすぎて、粉が飛び散った。
「あ……」
六花が固まる。
母は一瞬だけ目を丸くして。
それから、声を立てて笑った。
「ふふふ」
「ご、ごめんなさい……」
「大丈夫よ」
母はしゃがみ込み、六花の頬についた粉を指先でそっと拭った。
「一緒にやれば、きっと大丈夫」
そう言って笑った。
その言葉だけが。
何故か、今でも六花の中に残っている。
「それからね」
六花は小さく笑った。
「お裁縫も好きだった」
別の日。
窓際に小さな机が置かれていた。
母はそこに座り、膝の上に布を広げていた。
薄い桃色の布。
小さな花柄。
細い針を指に持ち、ひと針ずつ丁寧に縫っていく。
幼い六花は、その隣に座ってじっと眺めていた。
「何作ってるの?」
「六花の髪につけるもの」
「私の?」
「そう」
母は布を指先で整えながら笑った。
「六花は女の子だから、可愛いものが似合うね」
「かわいい?」
「うん。とっても」
六花は照れたように笑う。
「お母さんも可愛いよ」
「ふふ。ありがとう」
母は笑いながら、六花の髪を撫でた。
その手は、とても優しかった。
けれど。
その頃には、母は時々、針を置いて休むようになっていた。
「お母さん?」
「ん?」
「疲れた?」
「ちょっとだけ」
そう言って笑う。
「大丈夫よ」
幼い六花は、その言葉をそのまま信じていた。
母が何度も病院へ行くようになっても。
家に帰ってくるたび、笑顔を見せてくれたから。
玄関の扉が開く音。
「ただいま」
少し疲れた声。
六花が走っていく。
「おかえり!」
母はしゃがみ込んで、両腕を広げる。
「ただいま、六花」
その胸に飛び込む。
薬の匂いが、ほんの少しした。
けれど。
六花には、それよりも母の体温の方が強く残っている。
「お母さん、今日は病院?」
「うん」
「痛かった?」
「大丈夫」
また、その言葉。
「お母さん、強いから」
母はそう言って笑った。
だから六花も笑った。
――大丈夫なんだ。
そう思っていた。
母が弱っていくことの意味を、幼い六花は知らなかった。
ベッドの上で眠っている時間が増えても。
以前よりも歩くのが遅くなっても。
抱き上げてもらえる時間が短くなっても。
それが「病気」というものなのだと思っていた。
それでも母は、六花が眠る前には必ず髪を撫でてくれた。
「おやすみ、六花」
「おやすみ、お母さん」
暗い部屋。
カーテンの隙間から、街灯の光が細く差し込んでいる。
母の手が、ゆっくりと六花の髪を撫でる。
その感触だけは。
今でも覚えている。
「……そういえば」
現在に戻り。
六花がふと思い出したように顔を上げた。
「お母さん、自分の名前のことも話してたな」
「名前?」
麒麟が静かに尋ねる。
「うん」
六花は少し笑った。
「撫子っていう名前」
そこで一度、言葉を切る。
「秋に生まれたから、撫子って名前になったんだって」
六花は、幼い頃の母の声を思い出す。
縁側。
秋の風。
庭に落ちた赤や黄色の葉。
母の膝の上に座った幼い六花が、母の顔を見上げていた。
「お母さんの名前、どうして撫子なの?」
母は少し考えてから。
「撫子って、お花の名前でしょう?」
「お花?」
「そう。可愛いお花なの」
「じゃあ、六花もお花?」
そう尋ねた六花に。
母は一瞬だけ目を丸くして。
それから、優しく笑った。
「六花もね」
母の指が、幼い六花の頬に触れる。
「私の家では、女の子が生まれたら、代々お花の名前をつけるの」
「みんな?」
「そう。おばあちゃんも、そのまたおばあちゃんも」
「へぇ……!」
幼い六花は嬉しそうに笑った。
「じゃあ、私も?」
「もちろん」
母は六花の髪を撫でる。
「六花って名前も、お花から取ったのよ」
「お母さんと一緒?」
「そうね」
母は少しだけ嬉しそうに笑った。
「お花の名前をもらった女の子が、幸せに育ちますようにって。そういう願いを込めるの」
「私、幸せ?」
幼い六花が尋ねる。
母は迷うことなく答えた。
「うん」
そして。
ぎゅっと六花を抱きしめた。
「六花が生まれてきてくれて、お母さんは幸せよ」
「……お母さん」
その記憶だけは。
何故か、とても鮮明だった。
母の匂い。
服の柔らかさ。
耳元で聞こえた声。
そして。
自分を抱きしめる腕の温かさ。
「……お母さん、そう言ってた」
六花は小さく笑った。
けれど。
その話を聞いた四霊たちは、誰もすぐには言葉を返せなかった。
花の名。
代々続く習わし。
そして――撫子。
偶然なのか。
何か意味があるのか。
まだ分からない。
だからこそ。
四霊は、何も言わなかった。
「それとね」
六花は、もう一つ思い出す。
「お母さん、オルゴールも持ってた」
棚から小さな箱を取り出す。
「お父さんがお母さんにプレゼントしたんだって」
蓋を開く。
優しい旋律が流れ始める。
「『美女と野獣』」
六花が笑う。
「お母さん、この曲好きだったみたい」
その音を聞きながら。
四霊たちは黙っていた。
母の記憶。
それは六花にとって大切なもの。
だからこそ。
軽々しく踏み込んではいけない。
「……私ね」
六花がぽつりと言った。
「もっと、お母さんのこと知りたいんだ」
その言葉に。
四霊たちの胸が重くなる。
「どんなところで育ったのか」
「どんな人だったのか」
「どうしてお父さんと駆け落ちしたのか」
そして。
「どうして私を産んでから、身体が弱くなったのか」
霊亀は静かに目を伏せた。
まだ。
分からない。
けれど。
何かがある。
そんな予感だけが残った。
*
夜。
六花が眠ったあと。
四霊たちは静かに集まっていた。
「撫子」
鳳凰が呟く。
「六花の母の名は、撫子じゃった」
「そして白い狐を見た記憶がある」
霊亀が続ける。
「偶然とは思えぬな」
「しかし」
応龍が言う。
「白鈴神社と撫子を直接繋ぐものは、まだない」
麒麟も頷いた。
「名前だけでは、探せぬ」
だから。
四霊たちは後継者たちへ連絡を取った。
翌日。
神霊管理庁。
「……撫子?」
奏多が聞き返した。
「ああ」
鳳凰から伝えられた情報を、四人は整理していた。
「六花のお母さんの名前が、撫子」
智樹が記録する。
「幼少期に白い狐を見た記憶がある」
朱里が続ける。
「そして、白鈴神社という名前には覚えがない」
怜弥が腕を組む。
「旧姓も、生まれた場所も不明」
奏多が資料をめくる。
「……繋がらないな」
「うん」
智樹も頷く。
記録を探す。
古い神社。
巫女。
白い狐。
撫子という名前。
そして――
女児に花の名をつける家系。
それらを組み合わせても。
決定的な情報は出てこない。
「撫子という名前だけなら、珍しくはない」
朱里が言う。
「白い狐を祀る神社も、一つとは限らない」
奏多も頷く。
「花の名前を代々つける家系も、他にあるだろうな」
怜弥は黙って資料を見る。
何かがある。
それだけは感じている。
だが。
まだ一本の線にはならない。
だからこそ。
焦って六花を巻き込むべきではなかった。
「もう少し調べよう」
智樹が言った。
「ああ」
怜弥が頷く。
「六花には、まだ何も言わない」
四人は同意した。
その頃。
六花は何も知らずに、自分の部屋で眠っていた。
枕元には。
母からもらった髪飾り。
棚には。
古いオルゴール。
そして。
本人さえ忘れかけていた記憶の片隅に。
白い狐がいる。
それだけだった。
まだ。
白鈴神社と母・撫子は繋がらない。
どれだけ調べても。
どれだけ記憶を辿っても。
一本の線にはならない。
ただ。
六花の中に残っている。
――白い狐を見た記憶。
――母から聞いた、花の名前の習わし。
それだけが。
母へ続く、最初の小さな糸だった。




