第一章 カオス村の日常と専属調停役の誕生
「オロロロロォォッ!!」
「おい新兵! 塹壕の中で『ゲロオムレツ』を開封するなと言っただろうが! 敵の魔法より先に味方が全滅するぞ!」
「で、でも班長……もう三日も補給がなくて、これを食わないと餓死……ウゲェェェッ!」
泥と血に塗れた最前線の塹壕に、自然界に存在してはならない致死的な悪臭が充満する。
ルナミス帝国軍とアバロン魔皇国軍が睨み合う、大混戦地帯の第4戦区。
泥水に浸かりながら震える兵士たちの士気は、底を突くどころかマイナスへと突き抜けていた。
俺は遠目からその地獄絵図を眺め、深く、深くため息をついた。
「……わかるぞ。その気持ち」
「腹が減っては戦はできぬ」とはよく言ったものだ。
俺、力武義正は、前世で日本の5大商社に勤めていた。
月の残業時間は過労死ラインを軽々と超え、上司からの理不尽な要求と、取引先との接待で胃に穴を開ける日々。
そんな限界の社畜生活の中で、唯一の救いは「深夜の牛丼」や「休日に食う美味い飯」だけだった。
過酷な労働環境において、メシの不味さは労働者の心を確実に殺す。
俺は同情の念を禁じ得なかった。
しかし、ここは地球ではなく、剣と魔法が支配する異世界『アナステシア』だ。
俺は胸ポケットから、琥珀色の包み紙を取り出し、中身を口に放り込む。
コロコロと転がる甘み。
ポポロ村特産の珈琲キャンディだ。
俺はそれを舌で転がしながら、ぬかるんだ戦場へと足を踏み出した。
ヒュンッ!
顔の横を、時速150キロで射出された魔皇国軍の初級魔法『石弾』が通過していく。
ドガァァァン!
数十メートル先では、ルナミス帝国軍の『魔導バズーカ』が火を吹き、大地をえぐり取った。
そんな阿鼻叫喚の真っ只中を、俺は歩く。
完全オーダーメイドのイタリア製(に似せてドワーフに作らせた)スリーピース・スーツに身を包み、片手には淹れたてのポポロ・コーヒーが入ったタンブラー。
もう片手には、漆黒のアタッシュケース。
どう見ても、この泥臭いファンタジー世界には致命的にそぐわない姿だった。
「な、なんだアイツは!?」
「民間人か!? なぜこんな最前線に!」
両軍の兵士たちが、信じられないものを見るような目で俺を指差し、銃口や杖を向けてくる。
俺は歩みを止めず、タンブラーのコーヒーを一口啜った。
「ふむ、83度。完璧な温度だ。戦場(出張先)で飲むコーヒーは格別だな」
俺の胸元には、大陸の経済を牛耳る超巨大企業『ゴルド商会』のシルバーランクを示すバッジが鈍く光っている。
これが見えれば、末端の兵士は迂闊に引き金を引けない。
俺を殺せば、ゴルド商会の物流網を敵に回し、明日からの兵站(メシと弾薬)が完全にストップするからだ。
これぞ、資本主義の暴力である。
俺は両軍の陣地の中間地点で立ち止まると、アタッシュケースを泥よけの魔導シールドの上に置いた。
「両軍の指揮官殿。少し、お時間をよろしいでしょうか」
よく通る声で呼びかけると、やがて塹壕の中から、いかにも神経質そうなルナミス帝国軍の中隊長と、巨躯を誇る魔皇国軍のオーク小隊長が姿を現した。
「……ゴルド商会の人間が何の用だ。ここは戦場だぞ!」
ルナミスの中隊長が、苛立たしげに怒鳴る。
俺は営業スマイルを浮かべ、ケースから二枚の書類を取り出した。
「ええ、重々承知しております。だからこそ、私のような『調停者』が必要なのです。……本日は、極めて利益の出るご提案をお持ちしました」
書類を二人の前に差し出す。
「現在、両軍とも補給線が寸断され、疲労と飢えはピークに達しているはずです。そこで、この『一時休戦協定書』にサインをいただきたい」
「休戦だと? ふざけるな! 我が軍の誇りにかけて——」
「サインをいただいた陣営には、ゴルド商会から直ちに『3日間の特別休暇』を保証するための政治的根拠を提供します。さらに……」
俺は言葉を切って、二人の目を見た。
「我が商会が備蓄する、獣人王国製の最高級戦闘糧食『RCIR型』を、全兵士分、無償で配給いたします。もちろん、食後の葉巻と極上の果実酒付きで」
その瞬間、戦場の空気がピタリと止まった。
背後の塹壕から、帝国兵たちの「R、RCIRだと……!? あの伝説の美食が食えるのか!?」というどよめきと、むせび泣くような声が聞こえてくる。
ゲロオムレツで胃を壊している彼らにとって、それは神の救済にも等しい提案だった。
「な、なんだと……」
「もちろん、休戦に応じない陣営には、明日から我が商会の物資搬入をすべて停止させていただきます。……さあ、どうされますか? コストとリターンを天秤にかければ、答えは一つのはずですが」
オークの小隊長は、涎を拭いながら即座にサインした。
問題は、ルナミス帝国軍の中隊長だった。
彼は顔を真っ赤にして、プライドを爆発させた。
「商人風情が、軍の作戦に口を出すなァ!! 貴様をここで斬り捨てて、物資を直接奪えば済む話だ!!」
中隊長は腰の魔導剣を引き抜き、俺の首めがけて振り下ろした。
部下の兵士たちが「やめてください中隊長! メシが! メシがぁぁぁ!」と絶叫する。
俺は、一歩も動かなかった。
ただ、口の中で転がしていた飴玉を、奥歯で「ガリッ」と噛み砕いた。
ピタァッ。
刃は、俺の首の皮一枚のところで、見えない壁に阻まれたように完全に停止した。
いや、将校の身体そのものが、石像のように硬直していたのだ。
「……な、なんだ!? 身体が、動か……ッ!?」
目玉だけをギョロギョロと動かし、中隊長がパニックに陥る。
「……ビジネスの基本は、リスクヘッジですよ、中隊長殿」
俺は冷たく見下ろし、告げた。
「先ほど、私が陣地の中央に出る前。拡声器で『対話に応じるなら危害は加えないと約束できますか?』と問いかけ、あなたは『いいだろう』と答えましたよね」
「そ、それが……どうした……ッ!」
「私のユニークスキル【義契取引】。それは、私が提示し、相手が合意した『契約』を、世界の理レベルで絶対遵守させる能力です」
書面であろうが、口約束であろうが関係ない。
双方が合意したルールを破った者には、契約の重さに応じたペナルティが強制執行される。
「『対話中の不可侵』という簡単な口約束を破った代償。……まあ、一日程度、そこで身動き一つできずに反省していただきましょう」
剣も魔法も使えない、戦闘力ゼロの俺が、この過酷な異世界で生き残るための、唯一にして絶対のチート。
武力ではなく、ルールそのものを書き換える力。
それが、俺の武器だ。
「さぁて」
俺は硬直した中隊長から書類を抜き取り、隣で震えている副官らしき男に渡した。
「代理でサインを。そうすれば、すぐに『RCIR』を陸路で手配させます。冷えたメロロン酒もありますよ」
「は、はいぃぃっ!! ただちにッ!!」
副官は涙ぐみながら、物凄い速度でサインを書き殴った。
かくして、第4戦区における泥沼の戦闘は、書類一枚と飴玉一つで完全に終結した。
兵士たちから沸き起こる、歓喜の雄叫びを背に受けながら、俺はアタッシュケースを拾い上げる。
「……ふぅ。とりあえず、初仕事のデモンストレーションとしては上出来か」
俺は小さく息を吐き、タンブラーの残りを飲み干した。
商社マンとしての手腕を買われ、ゴルド商会から特命を受けて派遣された俺の赴任先。
それは、ルナミス帝国、魔皇国、獣人王国の三大国が国境を接する、大混戦地帯の中心。
各国の思惑が交差する、大陸一の火薬庫でありながら、なぜかどの国も手を出せない【絶対中立特区】。
「さあ、向かおうか。俺の新しい職場(赴任先)——『ポポロ村』へ」
そこは、のどかなスローライフの皮を被った、規格外の異常者たちが集うカオスと美食の楽園。
俺の、新たな過労死ライフの幕開けだった。
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