70[最終話]
「――…黒か白か、……右か左か。そんなふうに簡単に線が引けるのなら苦労はない。君は解っているだろう?」
ラフは、背中越しのデュフィの言葉を、少し前屈みの姿勢で聞いた。
デュフィは、そんなラフの気配を、背中越しに探りながら語っているようだった。
「そんな混沌の中で〝最もマトモ〟と思える線を探っていくのが我々だ。そしていま、最もマトモな判断が、地球との関係の現状維持、というだけのことだ。そうではないかね?」
静かにそう言を終えたデュフィに、ラフは何も返せなかった。
そう。言われるまでもなく〝マトモな判断〟ならそうなる。
現在はまだ〝マトモな判断〟で社会が動いているということだ。
一礼したラフを執務室から送り出すと、デュフィは机上の内線電話を操作した。
程なくして隣の部屋からの扉が開き、男が姿を現す。一礼をして入室してきた男は片足を引き摺っており、真新しいステッキを突いていた。
その男は、〈公安調査部〉アビレー支部長、アズレト・シーロフであった。
シーロフは執務机の前まで杖を片手に進むと、デュフィの手から2綴りの報告書を受け取る。
そのシーロフに、デュフィは訊いた。
「こういう顛末になったが、これでよかったかな?」
シーロフは、先ずそれぞれの書類の〝サイン〟を確認し、それから目を上げるとデュフィを向いて肯いた。
「お手数をお掛けしました、大佐」
問に対する答を口にせず、礼の言葉に留めたシーロフに、デュフィは重ねて問うた。
「彼は期待できそうかな?」
シーロフは難しい表情になってデュフィを見返した。
「それは〝誰の期待〟かによるでしょう」
それから一つ頷いてこう応えた。「私には必要十分です」
ベアタ・ヌヴォラーリ特別捜査官ら、他の対テロ対策群・E班のメンバーは、班長やラフのように〝黒幕〟の許に呼ばれてサインを求められるようなことはなかった。
それぞれ身分証と私物の返却を受ける際に、警務科の下士官から〝本件の公式見解〟を聞かされ、〝本件に関する『自身の記憶』について他言できない〟ことを確認されただけだった。
ベアタは、警務科の兵科章を巻き、五等特技兵の階級章を付けた肩幅の広い女性から説明を受けた。
「気を付けて――」
五等特技兵から説明を聞き終え、確認に応えた後、金属製のトレイに並べられた私物に手を伸ばしたときに言われた。
「本件は〝通常よりも高いレベルの秘密保持義務〟が適用される」
ベアタは黙って頷くとトレイの上の銃をホルスターに収め、それを〝チェックシックス〟に装着した。
それから大型のサングラスで顔を覆い、踵を返して部屋を出た。
五等特技兵は、彼女の小柄な背中を見送って、口許だけの苦笑をした。
こうしてベアタの10日間に亘った勾留は解かれたのだった。
アールーズでの一連の爆弾テロ事件、その最終局面で、ベアタは、結局、何も出来なかった。
そのことが口惜しくて、その〝幕引き〟の筋書きにも納得のいかない彼女は、胸の中に広がる苦いものを、必死に飲み下そうとしていた。
――自分という存在が、何をどうしようとも、そんなことには〝お構いなく〟フェルタは回っていく……。
それを突き付けられ、挙句に〝そんなことは無かった〟ということにされてしまった。
戒厳が解かれて軍の撤収が始まった街中で、ひとりベアタは〝心が何処かへ飛んでいってしまった〟かのように感じていた。
それを、不意の着信音が引き戻した。
液晶画面に発信者の番号はなかった。ベアタは通話ボタンを押した。
「ベアタ・ヌヴォラーリ、……PSI特別捜査官」
『私よ。わかる?』
スピーカー越しのその声にベアタは混乱し、息を呑んだ。
様々な疑問が胸のうちから意識へと浮かび上がってくる。
だが、当面の課題は、彼女の名乗っていた〝2つ〟の名のうち、どちらで呼べばいいのか…――。
「……ラッピン分析官?」
悩んだ末にそう訊いたベアタに、冷静な声が応えた。
『――〝ジーン・ラッピン〟も〝シャノン・モーズリー〟も、もうこの世にはいないわ』
頷いたベアタは、なぜか周囲に視線を走らせてから声を潜め、訊いていた。
「どういうことなんです? あなたは襲撃の際に殉職したと……」
他にもまだまだ訊きたいことのあるそのベアタを、携帯の声はあっさり遮った。
『また連絡する』
それで通話は切れてしまった。
ベアタは、そのまま黙ってしまった携帯の非表示の液晶画面を見つめて、しばし息を止めていた。
――そうか。これで終わりじゃないのね。
ベアタは小さく息を吐き、携帯を上着のポケットへと仕舞うと、表情を改めた。
アールーズの街の午後は、活気を取り戻しつつある。
ベアタは、もう少しこの街で、〝彼女〟からの連絡を待つことにした。
──『アールーズ2696』(了)...




