第二十二話
風の魔法が大空洞の中で吹き荒れ、不壊のはずの迷宮の壁を徐々に削る。
かわし、斬り伏せ、肉薄するリーシャを、中央調査隊の隊員達は固唾を飲んで見守っていた。
金髪赤目を翻す様は明らかに人に許された挙動を超えている。
あっという間に距離を詰め、遂に異形のドラゴンの懐まで彼女は迫っていた。
「………………彼女は未登録の一等星、でしょうか……?」
「…………」
一人の隊員のこぼしたそれに返ってくる言葉は無い。
ただ、同意出来なかったから、ではなく、皆が同じ感想を抱いていたため、だったが。
レジーナもいよいよ先ほど地下二階で手を出さなくてよかったと、胸を撫で下ろしている所だった。
魔法を剣でねじ伏せるなど聞いたこともない。
それをああも容易く行っている辺り、戦闘力という観点では自分達と比べるべくもない。
しばらく横穴から身を乗り出し、その闘いを見ていた彼らだったが、ふとその戦闘に妙な違和感を覚える。
「…………なぜ、奴は斬らない」
「……た、確かに。速さでは圧倒しています……!
手足や翼ならいくらでも斬る機会はあったような…………」
異形のドラゴンは、眼前に迫るリーシャに向かって地につけた五本の足の内二つを、前身を持ち上げるように掲げ、その体重のまま彼女を押し潰そうとする。
風の魔法に比べて随分と緩慢なそれは当然リーシャにかわされ、迷宮内を揺らすだけに留められる。
攻撃を終えた無防備な巨体。
しかし剣を握る彼女はその隙だらけの異形に手を出す事はしなかった。
「何をやっているのだ、奴は…………!」
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(割れた鏡の様な壁面。異形。
それに、まるで手足を差し出す様なこの挙動)
猛攻を掻い潜りながらも、リーシャは考える頭を止めていなかった。
実を言えば、この異形のドラゴンを斬って捨てるのはそう難しくはない。
彼女から見て柔らかい手足はもちろん、頑強とされている頭部ですらその気になれば割れるだろう。
だが、それでは駄目なのだ。
「それでは、150年前と変わらない」
自国の前に立ちはだかる、命ある者を皆殺しにする。
戦士を、魔法使いを、老兵を少年兵を。
分け隔てなく殺す。
戦争だからと言い訳する気は無い。
罪悪感など元より無い。
そういう風に作られたから。
喜びの感情は闘いの刹那のみ生まれ、悲しみは一瞬で消える様設計されている。
人ではない、普通ではない、それでもわずかな自我はあった。
「…………レンガさんは、怒っていたのでしょうか。
……悲しんでいたのでしょうか」
ある日戦場で出会った、赤と黒の混じる髪の青年。
並ぶ者無しとされていた自分に匹敵する超越者。
数奇な運命により、今では共に旅する仲にまで至っている。
その彼がさっき見せた表情。
自分達に襲いかかってきた集団を過剰にいたぶって殺したのを、彼は優しく咎めた。
殺すだけなら、誰でも出来る。
「だから、図鑑、なんですか。レンガさん」
狩人でも、収集家でもない。
多分そんな深い意味を持って彼は考えた訳ではないだろうが。
耳を澄ませば先ほどまで隠れていた横穴から叫び声が聞こえてくる。
異形のドラゴンが纏う風の鎧が空を裂く音によって明瞭ではないが、何やら斬れ、殺せと叫んでいるようだ。
素人目にもリーシャが剣を振るえる機会はいくらでもあったと見えたのだろう。
今度は身体を傾け、その大きな翼膜を叩き付ける様に振り下ろしてくる異形のドラゴン。
斬ってくれと言わんばかりだ。
「そんなに嫌いですか」
「ガ、アァ………」
「そんなに自分の姿が、嫌いですか」
異形は呻くばかりでリーシャの問いかけに答えることはない。
風の刃がリーシャを襲うが、直撃したにも関わらず、その金髪を揺らしただけで傷一つ負わせることは出来ない。
「最初にあなたを見たとき、私は少しだけ驚きました。
足の数が五本。対にならない翼が三枚。二股に別れた尻尾の先は片方だけが歪に伸びている。
どう見ても不安定で、非生物的で、おかしい筈なのに。
あなたを見て、なぜか綺麗だと思ったんです」
少しだけ風が強くなった様だ。
巨体の猛攻も加速し、足を、翼を、尾を叩き付け振り回し迷宮の床を痛め付けている。
リーシャは剣を仕舞う。
見る者によっては、諦めて死を選んだ様にしか映らないだろう。
だが、彼女は諦める気も、死を選ぶ気も更々無い。
「あなたは、完璧に生りたかった。完全に成りたかった。
それゆえ、こうも整って見えるのでしょう。
ただ在るものより、在ろうとするものの方が目映く、目に留まるのは当然の理です」
破壊された鏡面。その足元に転がる鉱石は遥か上の喚石の光を反射して光っている。
「あなたはある日、気付いたんです。
多分、この辺り一面に広がっていた筈の鏡によって、自分の姿を見たのでしょう」
「オオイナルモノ……! オオイナ━━━」
「他の生物の姿を見たのか、はたまた自分の遺伝子に本来あるべき姿が刻まれていたのかはわかりません。
ただ、それらを自分の姿と見比べて、あなたはこう思ったのでしょう。
"自分は醜い"、と」
ストーネスの風竜。
常に身体に風を纏い、あらゆる者を近付けさせない鉄壁の鎧を持つドラゴン。
何十年と、かの竜の風に曝され続けた迷宮の壁面は少しずつだが確かに削られ、まるで鑢でもかけたかの様にやがて自然の大鏡を作り出していた。
今、異形のドラゴンの目線の高さより下にある大鏡は、そのすべてが完膚なきまでに破壊されている。
「足が不揃いに五本ある。
翼が三枚。
なんて醜い。
なんておかしい」
「オオイナルモノ、オオイナル……、モノ…………!」
リーシャが言葉を続ける度に、攻撃が激しくなっていく。
風をかわし、足を払い、翼をいなす。
何一つとして効果は望まれず、攻撃している筈の異形のドラゴンの方が焦っている様にも見える。
「だからあなたは差し出した。
いらなかったんでしょう。その足や翼が。
レンガさんを、そして今私を、あなたが求めたのは、自分を"整えられる"存在だと認識したから。
足を削いで、翼をもいで、
あなたは普通になりたかった」
完璧と完全の究極形、すなわち"普通"に。
誰しもが持ちうる、当然が欲しかった。
羨ましく、焦がれ、ついぞ届くことはなかった。
「執拗にあなたが頭部を守るのは、多分あなたの思う"普通"が、自分の身体にはそこしか無かったから」
唯一整った偶数個の連なる両眼。
生え揃った牙。同じ向きの鼻。
それが、異形に残された唯一の正常。
「他者と違う事が嫌だなんて、まるで年頃の女の子です」
その笑みは、自嘲。
「あなたを見ていると、恥ずかしくて、照れ臭くて、少しだけ懐かしい気持ちになるんです。
だからあなたを斬れなかった。
150年前なら、多分賽の目程に斬り刻んでいたでしょうね」
遂にリーシャはかわす事すらしなくなる。
翼の一撃を頭上で腕を交差させる事で受け止める。
余波で地面が振動する程の衝撃。
だが、その火がついた語り口はもはや止まる事はない。
「抑圧されてもなお、多感な乙女だった私は他の女の子達と自分が大きく異なるのが嫌でした。
彼女らが学校に通って、遊んで、恋をして、平和を享受している中で、私は何千人と殺していましたから。
そりゃあ少しは荒むってものです」
レジーナ達には何が起こっているのか全くわからなかった。
ただ、彼女が剣を収めた後にあの異形のドラゴンが怒り狂い、そして、それでもあの金髪赤目の女が圧倒している。
奇妙極まりない状況だ。
「斬りませんよ、私は。
あなたの異常を、特別を、奪いません。
あなたに正常を、普通を、与えません」
山を薙ぐ尻尾を片手で受け止める。
地を裂く魔法を腕だけで払う。
「レンガさんはね、頭のおかしな人だから。
…………こんな私でも、……こんなおかしな私でも、普通に接してくれるんです。
多分、あなたも、私も。
本当に欲しかったのは普通の自分じゃなくて、普通の世界。普通の隣人。
自分が特別だとか、そんなのは関係ないんです」
お前の剣は恐ろしいと、お前の性格は危険だと言ったレンガは、なぜか笑っていた。
幾度と無く言われた筈のその言葉を、しかしリーシャは忘れられずにいた。
嬉しかったのかと言われれば、違うと答えるだろうが。
「受け止めてください。いきますよ」
流れる様な抜剣。
そのまま地面に叩き付けられた足を登り、跳躍し、異形のドラゴンの整った頭部の前に踊り出す。
左右合わせて二十の瞳が、全てリーシャに向けられる。
「『神断』」
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神の名が、確かに竜の耳に届く。
空中で届かぬはずの剣を振ったリーシャ。
それを見ていた二十の眼の内の一つ。
鼻先から最も遠くにある右奥の瞳に線が走る。
「━━━━━━━━━━━━━━」
それは慟哭。
魔力が爆発し宙にいたリーシャは成す術も無く吹き飛ばされる。
迷宮は揺れ、声の体を成さない暴音が天に空いた大穴を更に拡げる。
離れた場所に居た筈のレジーナ達でさえ強く耳を押さえなければいけないほどの振動。
唯一残されていた"普通"が、普通ではなくなる。
片方の目が一つだけ光を失った事に気付いた異形のドラゴンは荒れ狂っていた。
もはやなりふり構う様子はない。
遠くに危なげなく着地したリーシャに向かって、異形のドラゴンは突進する。
許せなかった。
この小さき者は、わかっていて自分から奪ったのだ。
大事にしていた、普通を。
逃げも隠れもせず、それどころかリーシャは避けようともしない。
「ぐっ……!」
大きく開かれたあぎとが左肩と右腰にそれぞれ当たり、衝撃のままに食いつかれながら地面を削り後退するリーシャ。
今度は自分が受け止める番だと、言外に語る。
足腰に力を入れ踏ん張り、やがて巨体の進行は止まる。
もはや、異形のドラゴンには、これ以上出せるものが無い。
怒り狂って空っぽになった心らしきものは、そこでようやく彼女の方を向いた。
光り輝く金の髪に、血よりも赤い瞳。
整っている。
羨ましい。
それに比べて、
「聞いてください、ドラゴンさん」
鼻先で響く声すらも綺麗だ。
「自分の異常を、特別を愛せだなんて、言いません。
普通を諦めろだなんて、思いません。
……だって、そういうものでしょう?」
「…………………………」
細い身体を噛み砕かんとするその顎を両手で抱き、リーシャは十九の瞳を全て受け止めていた。
そういえば、自分もこの赤い瞳が嫌いだった。
女神の生まれ変わりだと褒めそやされても嬉しくない。
これのせいで、普通じゃないのに。
「そんな簡単じゃない。
嫌いなものは嫌いだし、醜いものは醜いんです。
でもね、あなたがどう思っても、お節介で無頓着な人はいるものです。
だから、言わせてください」
夕焼けの空の様だと、レンガは言っていた。
多分、何も考えず、ただ見たままを言ったのだろう。
血を吸っただとか、女神の祝福だとかではなく、ただ赤くて透き通っていたから。
「綺麗ですよ、ドラゴンさん」
きっとレンガさんも、そう言うと思います、と。
真っ赤な瞳には、嘘も何も無い。
ただそう思ったから、そう言ったのだと、異形のドラゴンには否が応でも伝わってしまった。
あまりにも無垢で、真っ直ぐな言葉。
完全も不完全も否定しない、誰に照らし合わせるでもない、あるがままの称賛。
二十ある眼の内の一つが欠け、ドラゴンの視界はほんの少しだけ変化していた。
完全無欠だと信じ込まされた目の前の小さき者。
よく見れば、その金の前髪は右側だけ微妙に長い。
利き脚と踏み込みの関係か、左の靴だけ少し汚れている。
「ああ、私ですか?
自称魔神の方曰く、右の瞳が蚤の心臓ほどの大きさ分小さいらしいですよ。
左右対称なんて、あの人の最小単位の前では淡い幻想です」
それだけ言って、リーシャはそっとドラゴンから離れる。
もはやその巨体が暴れる事はなかった。
欠けた瞳から血を流して、身体をねじり首を回し、自分の翼や尻尾をゆっくりとした動作で見て、確かめている。
相も変わらず不格好、鏡を見れば壊してしまうかもしれない。
それでも、なぜか、その心がささくれ立つ事はなかった。




