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第一章 今、あなたを見ているの

人形には、二千円の値札がついていた。


昨日はゴミ袋、今日は骨董屋の丸椅子。俺よりよほど引っ越しが多い。しかも、今度はちゃんと値段までついている。


人形の世界にも出世というものがあるらしい。


近づいて確かめると、青いドレスの左袖には昨日と同じ裂け目が残っていた。その奥から覗く濃い色の布も、膝の上で重ねられた小さな手も、記憶にある姿と変わらない。


左手の小指には、爪で引っかいたような細い欠けがある。


昨夜、ゴミ袋越しに見た傷。


間違いない。あの人形だ。


「気になりますか」


声のしたほうへ目を向けると、店の奥から初老の男が出てきた。痩せた首に眼鏡を紐で下げ、いかにも古道具を扱っていそうな風貌をしている。


この店の前なら何度も通ったことがあるが、店主と言葉を交わすのは初めてだった。


「昨日、これを見たんです。そこの集積所で」

「ああ。そこから持ってきたんでしょうね」

「誰が?」

「男の人ですよ。昨日の昼過ぎだったかな」


店主は人形の横にしゃがみ、少し傾いた値札を直しながら話を続けた。


「買い取りかと思ったら、お金はいらないから引き取ってくれって。古いものだし、捨てるには惜しいでしょう」

「その人、何か言ってました?」

「それだけですね。ずいぶん急いでいたみたいで」


男の特徴をもう少し聞いてみたものの、店主の記憶は曖昧だった。五十代くらいで、灰色の上着を着ていたらしい。名前も聞かなかったという。


それにしても、妙な話だ。


わざわざゴミ捨て場から人形を拾い、骨董屋へ持ち込んでおきながら、金はいらないという。親切心なのか、それとも自分の手元に置いておきたくなかったのか。


まあ、考えすぎかもしれない。


世の中には、捨てられたものを見ると放っておけない人間もいる。俺だって人のことは言えない。使い道のない機材を拾ってきては、いつか直すと言いながら部屋の隅へ積み上げているのだから。


人形は昨日より少し髪を整えられ、丸椅子の上に行儀よく座っていた。青いドレスの裾が椅子から垂れ、風に揺れている。


捨てられていたときより、よほど居心地がよさそうだ。


「今度は値札がついたか。忙しいやつだな」


思わず口にすると、店主が小さく笑った。


「お好きなんですか、人形」

「向こうがどう思ってるかによりますね」


冗談のつもりだったが、よく考えれば少しおかしな返事だ。店主は気にする様子もなく、もう一度笑って店の奥へ戻っていく。


二千円なら、買えないこともない。


ただ、買ってどうするのかという問題が残る。


俺の事務所には、使う予定のない三脚と、直す予定のないモニターがある。どちらも、いつか役に立つと思って持ち帰ったものだ。


その「いつか」が訪れる気配は、今のところまったくない。


予定だけで部屋が狭くなるのは、もう十分だった。


俺は店主に軽く頭を下げ、骨董屋をあとにした。


角を曲がる手前で何となく振り返ると、人形はさっきと同じ姿勢で通りを向いている。


青い目は、相変わらず何かを見つめているようだった。


もちろん、人形なのだから当たり前だ。


あいつが本当に何かを見ているのだとしたら、それはそれで困る。


最初の電話がかかってきたのは、その晩のことだった。


事務所で、昼間に撮影した映像の音声を調整していた。取材相手の声より冷蔵庫の唸りのほうがよく録れているという、実にありがたくない素材である。


肝心の話をしている間は盛大に音を立てていたくせに、取材が終わった途端、ぴたりと静かになる。


機械にも取材拒否というものがあるらしい。


何度目かの再生を始めたところで、机の上のスマホが震えた。


非通知。


仕事用の番号は公開しているので、知らない相手からの着信自体は珍しくない。もっとも、非通知でかけてくる相手に限って、こちらが聞きたいことは何も教えてくれなかったりする。


俺は通話ボタンを押し、スマホを耳へ当てた。


「はい」


返事はない。


向こうから聞こえてくるのは、かすかな雑音だけだ。電話の接続が悪いのかと思い、パソコンで再生していた映像を止める。


「もしもし?」


「私、メリーさん」


幼い女の子の声だった。


妙にはっきりした声で、子ども特有の舌足らずな感じもない。台詞を暗記して、そのまま読み上げているようにも聞こえる。


「今、お店の前にいるの」


それだけ言って、電話は切れた。


スマホを耳から離して画面を見つめる。通話時間はほんの数秒。間違い電話にしては、ずいぶん用意のいい間違いだ。


メリーさんの電話。


怪談を扱っている人間なら、知らないわけがない。捨てられた人形が持ち主へ電話をかけ、少しずつ近づいてくるという、あの有名な都市伝説である。


もっとも、俺の仕事用番号を知っている人間なら、俺がそういう話に興味を持つことも知っているはずだ。


動画の視聴者か、取材先の誰かか。声を変える機械だって珍しくない。


悪戯だと考えるのが妥当だろう。


ただ、気になることが一つだけあった。


あの人形を見た日の夜に、よりによってメリーさんから電話が来たのである。


偶然にしては、少々出来すぎている。


昼間、骨董屋で俺が人形を眺めているところを、誰かが見ていたのかもしれない。そう考えれば、一応は筋が通る。


しかし、だからといって、どうして俺に電話をかける必要があるのか。


悪戯に理由を求めるのも馬鹿らしい話だが、理由が分からないというのは、それだけで妙に気になるものだ。


とりあえず着信時刻をメモし、編集作業に戻ることにした。


冷蔵庫は、いつの間にか静かになっている。


まったく、少しは空気を読めるらしい。


翌日の夕方、俺は再び骨董屋へ立ち寄った。


店先の丸椅子には、皿が三枚重ねられている。


昨日までそこに座っていた人形の姿はなかった。


「売れたんですか」


店の奥へ声をかけると、出てきた店主は俺の顔を見るなり、少し困ったように眼鏡を持ち上げた。


「返しましたよ」

「持ってきた人に?」

「いや。置いてあった場所へ」


どうにも歯切れが悪い。


昨日はあんなに愛想よく人形を勧めていたのに、今日は話題にすることさえ気が進まないらしい。


「何かありました?」

「電話がね」


店主は奥の帳場へ目を向けた。


伝票の束が積まれた机の上に、古い電話機が一台置いてある。


昨夜、店を閉めて自宅へ戻ったあと、携帯電話に着信があったという。表示された番号は、この店の固定電話だった。


誰かが店に入ったのか、あるいは忘れ物でもした従業員が連絡してきたのか。そう思って電話に出たものの、相手は何も話さない。


何度呼びかけても返事はなく、かすかに何かが擦れるような音だけが聞こえてくる。


「気味が悪くなって切ったんです。そしたら、またかかってきましてね」


結局、店主は夜中に店へ戻ることにしたらしい。


入口には鍵がかかっており、店内にも荒らされた形跡はない。商品も金庫も、何一つ動かされていなかった。


ただ、電話機の受話器だけが、台から外れていたという。


「防犯カメラは?」

「見ましたよ。でも、誰もいませんでした。電話のところまでは映らないんですが、少なくとも出入り口には誰も」


なるほど。


店内へ入った人間がいないのに、店の電話から着信があった。そして、その受話器だけが外れている。


説明できないこともないだろう。電話機の故障かもしれないし、番号を偽装する方法だってある。


しかし、受話器を外した人間が誰なのかという問題は残る。


「人形のせいだとは、言いませんけどね」

「ええ」

「でも、昨日まではこんなことなかったんですよ」


店主は言葉を濁した。


気持ちは分かる。


誰かに話せば笑われるかもしれないし、まして人形のせいだと言い切るには証拠が足りない。


それでも、手元へ置いておく気にはなれなかったのだろう。


店主は今朝、開店前に人形を元の集積所へ戻したという。


俺はスマホを取り出し、昨夜の着信履歴を見せた。


「実は、俺にも電話が来たんです」

「何て?」

「店の前にいるって。女の子の声で」


店主の視線が、空になった丸椅子へ移る。


しばらくしてから、思い出したように俺の顔を見た。


「知り合いがやってるんじゃないですか。あなたの」

「そうだと助かるんですけどね」


軽く笑ってみたが、店主の表情は変わらない。


どうやら、俺の冗談が役に立つ状況ではなかったらしい。


店主の携帯には、俺が電話を受けた時刻の前後に、店の番号から三件の着信が残っていた。


許可をもらって履歴を撮影し、礼を言って店を出る。


次に向かったのは、例の集積所だ。


ところが、人形は見当たらなかった。


ゴミはすでに回収され、コンクリートの上には、袋からこぼれたらしい茶色い汁の跡が残っているだけである。


また誰かが拾ったのだろうか。


それとも、ほかのゴミと一緒に回収されてしまったのか。


近くを歩いてみたものの、手がかりになるようなものは何も見つからない。


妙な話ではあるが、そもそも人形が移動すること自体は不思議でも何でもない。


人が運べば、それで済む。


問題は電話のほうだ。


二人の人間に、ほぼ同じ時刻に電話がかかっている。しかも、一方は店の電話からだという。


偶然で片づけるには、少し引っかかる。


とはいえ、考えているだけでは何も分からない。


俺はひとまず調査を切り上げ、事務所へ戻ることにした。


日が傾き、建物の影が道路へ長く伸びている。


大通りへ出たところで、ポケットのスマホが震えた。


画面を見る。


公衆電話。


今度は、そう表示されていた。


公衆電話からの着信など、いつ以来だろう。


少なくとも、最近の取材では記憶にない。


俺は周囲を見回してから、通話ボタンに触れた。


「はい」


「私、メリーさん」


昨日と同じ声だった。


「今、電話ボックスにいるの」


足が止まる。


道路の向こうに、古い電話ボックスが立っていた。


公園の入口に設置された、緑色の公衆電話が入ったものだ。ガラスには夕空と街の明かりが映り込み、中の様子まではよく見えない。


もちろん、街に電話ボックスくらいある。


偶然、近くにあっただけだ。


そう考えたところで、すぐに別の疑問が浮かんだ。


では、なぜ電話の相手は、今そこにいると言ったのか。


俺はスマホを耳に当てたまま、横断歩道へ向かった。


信号は赤。


車が通るたびに、ヘッドライトの光が電話ボックスの下半分を照らしていく。


その一瞬、奥に何かが見えた。


青いものだ。


ガラスの反射で形までは分からない。


俺は目を細め、次の車が通るのを待った。


再び光が差し込む。


青いものは、さっきと同じ場所にある。


信号が青に変わった。


道路を渡り、ガラスの反射を避けるように少し横へ移動する。


そこで、ようやく中の様子が見えた。


受話器が垂れ下がっている。


電話機から伸びたコードは緩やかな弧を描き、その先にある受話器が床の少し上で揺れていた。


そして、その足元に人形が座っている。


金色の髪。


色あせた青いドレス。


左袖の、小さな裂け目。


間違いない。


昨日、骨董屋にいた人形だ。


「今、あなたを見ているの」


耳元で、女の子の声がした。


一瞬、息をするのを忘れた。


人形の口は動かない。


膝の上で重ねられた手も、店先にいたときとまったく同じ姿勢のままである。


だが、青い瞳だけは、まっすぐこちらへ向けられているように見えた。


俺はスマホを握り直し、ガラス越しに人形を見つめた。


「……奇遇だな。俺もだ」


通話が切れる。


耳元から声が消えても、しばらくスマホを下ろせなかった。


正直なところ、怖かった。


だが、それ以上に、どう受け止めればいいのか分からなかったのである。


人形が電話をかけてきた。


そう考えるのは簡単だ。


しかし、実際に電話をかけた人間がどこかにいる可能性も捨てきれない。誰かが人形をここへ置き、俺の反応を見ているだけかもしれないのだ。


だとしたら、ずいぶん手の込んだ悪戯である。


悪戯にしては、少々気味が悪すぎるが。


電話ボックスのガラスには、俺の姿と、背後を通り過ぎる車が映っている。


中にいるのは、人形だけだ。


スマホを下ろし、バッグからカメラを取り出す。


こういうとき、何より先に撮影を始めるのは職業病なのだろう。


あとで見返せるものがあれば、少なくとも記憶だけに頼らずに済む。


まず電話ボックスの全体を撮り、次に周囲を確かめることにした。


裏側には植え込みがあり、その向こうは公園になっている。枝の隙間を覗き込み、ベンチや遊具の陰にも目を向ける。


誰かが隠れている様子はない。


犬を連れた男が、怪訝そうにこちらを見ながら通り過ぎていった。


まあ、夕暮れの公園で電話ボックスを撮影し、植え込みを覗き込んでいる男がいれば、俺だって警戒する。


怪しいのは、今のところ俺のほうだった。


電話ボックスへ戻り、公衆電話を調べてみる。


余計な配線や、後から取りつけたような機械は見当たらない。もちろん、専門家ではないから断言はできないが、少なくとも俺の目には普通の電話機に見えた。


垂れ下がった受話器を持ち上げ、耳へ近づけてみる。


何も聞こえない。


元の位置へ戻すと、留め金が小さく音を立てた。


足元には、青いドレスの人形。


近くで見ると、左手の小指の欠けまで、やはり同じだった。


誰かがここへ置いた。


そこまでは説明できる。


だが、誰が?


骨董屋の主人が集積所へ戻した人形を、また別の誰かが拾ったのだろうか。


そして、その誰かは、俺がこの時間に、この道を通ることまで知っていたというのか。


そもそも電話が鳴らなければ、俺はこのボックスに目も向けなかったはずである。


あらかじめ俺の行動を調べていたのなら、なかなかの執念だ。


そこまでして俺に見せたいものが、この人形なのだろうか。


カメラを下げ、もう一度足元を見る。


置いて帰ることはできる。


そうすれば、次に電話ボックスを利用する誰かが見つけるだろう。気味悪がって捨てるか、気まぐれに持ち帰るか。あるいは、また骨董屋へ持ち込まれるかもしれない。


すでに二度、それに近いことが起きている。


そのたびに俺へ電話がかかってくるのなら、ここで置き去りにしたところで終わりにはならない。


もちろん、人形が電話をかけていると決まったわけではない。


むしろ、そうではない証拠を見つけたいところだ。


ただ、今ここで何もしなければ、この先も同じことが繰り返されるような気がした。


俺はしばらく考え、ため息をついた。


「先に言っとくが、広くはないぞ」


誰に聞かせるでもなく断り、人形へ手を伸ばす。


持ち上げてみると、見た目よりずっと重い。


柔らかなドレスの内側に、何か硬いものが収まっているような感触があった。


古い人形だから、内部に金属の部品でも使われているのだろうか。


腕へ載せ直した、そのときである。


こつ。


小さな音がした。


人形の腹の奥で、何か硬いものがぶつかったような音だった。


思わず手が止まる。


近くを車が一台、通り過ぎていった。


人形は何も言わない。


もっとも、言われても困るのだが。


俺は小さく息を吐き、腕の中の人形を見下ろした。


「電話代、出せないぞ」


返事はない。


まあ、それでいい。


バッグから機材を包むための布を取り出し、人形へ巻きつけようとする。


だが、途中で何となく手が止まった。


顔まで覆うのは、少し気が引ける。


別に人形が嫌がるわけでもないだろうし、そもそも、そんなことを気にする必要もないはずだ。


それでも、結局は顔だけ外へ出しておいた。


何をやっているんだろうな、俺は。


カメラをしまう前に、もう一度電話ボックスの中を撮影する。


人形のいなくなった床。


元の位置へ戻した受話器。


さっきまでと同じ、何の変哲もない公衆電話である。


録画を止め、バッグを肩へかけ直した。


腕の中では、人形が相変わらず澄ました顔をしている。


捨てられて、拾われて、また捨てられて。


今度は俺のところへ来るというわけだ。


まったく、妙な縁もあったものである。


俺は人形を抱え、事務所へ向かって歩き出した。

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