序章 最後まで残るもの
噂話というものは、人の口を渡るたびに少しずつ姿を変えていく。
白い服はいつの間にか赤く染まり、短かった髪は腰まで伸びる。昨日まで存在しなかった目撃者が、翌日には三人も現れる始末だ。
話が面白くなるのなら、事実が多少ねじ曲がろうと誰も気にしない。
もっとも、怪談というのは昔からそういうものなのだろう。語る人間が増えるほど尾ひれがつき、やがて誰も本当の姿を知らなくなる。
俺は、そんな話を追いかけ、映像にする仕事をしている。
とはいえ、それだけで食っていけるほど世の中は甘くない。
怪異よりも先に姿を現すのは、たいてい来月の家賃だ。こいつだけはどんなに祈っても消えてくれないし、毎月決まった日に必ずやってくる。
実に律儀な化け物だ。
持ち込まれる話の大半は、勘違いか、誰かの作り話に過ぎない。
だが、ときどき妙なものが混じる。
調べれば調べるほど、最初に何があったのか分からなくなっていく話だ。
後から付け足された部分ばかりが妙に詳しく、肝心の始まりを誰も覚えていない。何人もの証言を集めたところで、真相に近づくどころか、かえって遠ざかってしまう。
そんなことも、珍しくはなかった。
だから、あの人形を見つけたときも、特別なことだとは思わなかった。
その夜、俺は近所のコンビニから事務所へ戻る途中だった。
住宅街の通りには人影も少なく、街灯の下で薄いビニール袋が風に揺れている。
電柱の脇には、回収を待つ透明なゴミ袋がいくつも積まれていた。
その一つに、人形が入っている。
金色の髪に、色あせた青いドレス。
膝の上できちんと両手を重ね、袋の内側から通りを眺めるように座っていた。
周囲には雑誌や空き箱が詰め込まれているというのに、人形のところだけ不自然なほど余裕がある。まるで、誰かがわざわざ座る場所を用意してやったかのようだ。
左の袖には、小さな裂け目があった。
そこから覗く布は、ドレスよりもずっと濃い色をしている。
古い人形なのだろう。
髪はところどころ乱れ、青いドレスもすっかり色褪せていた。それでも顔には目立った傷がなく、ガラスのような瞳だけが街灯を受けて妙に鮮やかだった。
俺はそのまま通り過ぎようとした。
ところが、人形の前まで来たところで、なぜか足が止まる。
青い目が、こちらを見ている。
もちろん、人形なのだから不思議でも何でもない。そういうふうに作られているだけのことだ。
試しに半歩、横へずれてみる。
視線は外れた。
それで納得すればいいものを、今度は反対側へ動いてみようかと考えている自分に気づき、馬鹿らしくなった。
こんなところで人形相手に何をやっているんだ、俺は。
手に提げたコンビニ袋が、かさりと鳴る。
中身は値引きされた弁当が一つ。
これが今夜の夕食であり、俺の経済状況を端的に表したものでもある。
「悪いな。今は自分を養うので手いっぱいだ」
誰に聞かせるでもなく呟く。
人形は相変わらず、こちらを向いていた。
まあ、そうだろう。返事でもされたら、今度こそ仕事になってしまう。
俺は軽く肩をすくめ、その場を離れた。
背後で、かさり、と何かが擦れる。
ビニール袋の音だろう。
風はさっきから吹いている。
そう自分に言い聞かせるほど気になる音でもなかったし、実際、振り返ることもしなかった。
ただの捨てられた人形。
そのときは、本当にそう思っていた。
翌日。
仕事の用事を済ませ、いつもの通りを歩いていると、骨董屋の店先に見覚えのある青い色が目に入った。
丸椅子の上に、人形が座っている。
金色の髪。
色あせた青いドレス。
そして、左の袖に残る小さな裂け目。
昨日、ゴミ袋の中にいた人形だった。
俺はしばらく、その場に立ち尽くした。
人形は膝の上で両手を重ね、何事もなかったように通りを向いている。
青い瞳が、陽の光を受けて静かに光っていた。




